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第76話 未完成のピアノの旋律

 ピアノの旋律が心をフラットな状態にさせてくれる。いつでも、どんな気分のときでも音楽だけは味方をして、背中を後押ししてくれるんだ。


 まるで主人のように、大きなグランドピアノがその面積の大半を占めるフィッティングルームでは、さっきから美歌が同じ演奏を繰り返していた。月に一度のこのダンジョンの日のために、時間を惜しんで創ってきた新しい曲。その総仕上げをスキルを駆使して進めていく。


 傍らではすずが、じっと美歌の奏でるピアノの音色に耳を傾けていた。いや、実際には美歌の目からそう見えるだけなのかもしれない。出されたローズヒップティーを口にすることもなく、両腕で膝を抱え込んでソファに背中を預ける姿は、自分の中で何かと向き合っているようにも見える。


 店主ウルフガイの酒場では、結局すずからは山本渚が、浦高にいた穂坂渚と同一人物であることしか話されなかった。「殺された」と言ったきり口をつぐみそれ以上の事柄は聞くことができなかったため、月守主導でいくつか対策を確認して解散となった。きっかり一時間後にダンジョン前で落ち合うことを決めて。


 高い音が跳ねた。まだ上手く音の粒が揃わなかった。ずっと練習を重ねてきたギターと違って、ピアノはあまり触れる機会がなかった。自室では狭すぎてピアノが置けなかったために、なけなしのお金でキーボードを購入し、作曲とともに練習も重ねてきたがどうしても付け焼き刃の域から抜け出すことはできなかった。たった1ヶ月では、ピアノの音が指に体に馴染まないのだ。


 ──だけど、一番の問題はそこじゃない。


 白鍵から指を離すと、美歌は近くに置いたペットボトルを手に取り水を口に含む。冷水が喉を潤し、わずかながら気分を変えてくれる。いつの間にか額を流れていた汗を拭ってもう一度十指を鍵盤の上に置いた。


 最大の問題は音が見つからないことだった。いくら楽譜とにらめっこしても、鍵盤を叩こうとも、求めている音が見つからない。曲を組み立てていっても肝心の真ん中のピースが埋まらない。どの鍵盤を響かせても、かっちりと噛み合う音がどうしても現れてくれなかった。だから、気持ちが鍵盤に乗らない。中途半端な音だけが空回りするように繰り返されるだけだった。


『勝つためには、糸を操る山本渚を倒さなければいけない。言ってみれば、このフォースダンジョンのボスは山本渚だ』


 頭の中に月守の言葉が浮かぶ。集中しようと首を振っても消えることはなかった。


『糸は強力だ。他人のダンジョンに干渉し、誰彼構わず引っ張り上げて別の空間へと転移させてしまう。おそらく、プレイヤー本人は安全圏にいて糸を操っているんだろう』


 また音が跳ねる。指先がもつれて正確な運指が保てなくなってくる。


『そこで、糸を辿る必要がある。糸を辿れば自ずと渚の空間に行き着くだろう。前の戦いで、美歌が糸に吊り上げられたときに私のダガーで糸を切ることができた。と、なれば糸は物理的に存在しており、掴むこともできるだろう』


 額から汗が滴り落ちる。間違いだらけでもう、音楽を成していないことはわかっていても止めることはできなかった。


『糸が無限なのか有限なのかはわからないが、相当数あることは間違いない。敵の攻撃を掻い潜ってこの中の誰かが糸を掴もうとしても、別の糸が無理矢理体を引き剥がしてしまう。そこで、美歌のピアノだ。無数の糸に対抗するために、こちらは無数の音で対抗する』


 だけど、その音はまだ未完成。だから、タイムリミットまで完成させなきゃいけないんだ。


『美歌のピアノをダンジョンに運ぶために、君を呼んだんだ。佐久間翔。マッピングアプリを開発した君なら、アイテムをダンジョンに転送できるようなアプリもつくれるんじゃないか?』


「あっ……」


 手汗で滑って指が鍵盤から離れてしまった。そのとき、間を待たずに美歌の後ろから制止の声が掛けられる。


「もう、いいよ、美歌ちゃん……もう、無理なんだよ……」


 音が止まった。驚いた美歌が顔を振り向けると、弱々しい瞳が見返している。


「さっきよりもミスしてる。美歌ちゃん、その曲まだ未完成なんでしょ?」


「そうだけど、でも──」


「待ち合わせまであともう一時間もない。間に合わないよ」


 感情を失ったみたいに、すずは表情一つ動かさずに口だけを動かす。いつものアイドルスマイルの面影はどこにもなかった。


「そんなことないよ! まだ時間はあるから、最後まで諦めなければ!」


「ムダだよ。努力したって、無理なことは無理……」


 弾んだ声と大きな笑顔で励ましてみるものの、口調は何ら変わらなかった。美歌はゆっくりと腰をひねって、大きな瞳をさらに見開いて猫背気味のすずの姿をすっぽりと視界の中に収めた。


「……すずちゃん、どうしたの? 渚さんを探していたんじゃ……」


「会ってどうするの? 見つけてどうするの? ……渚は私を殺したんだよ。これ以上はもう無理なんだよ!」


 突然の怒鳴り声に肩がビクッと震えてしまった。それに気づいたのか、それとも感情が表に出てしまったことにびっくりしたのか、すずはすぐに謝りの言葉を述べるとまたうつむいてしまった。


 沈黙が訪れる。酒場とは違って二人しかいない空間はとても静かで、美歌とすず二人の息遣いしか聴こえないほどだった。浅く早いすずの呼吸は、間違いなく動揺を示している。


 顔を上げれば、ちょうどすずの座るソファの真上に掛けたアナログ時計が、約束の時間で残り30分を示していた。


 本当に時間がない。美歌は薄いブラウンのカーディガンを掛け直すと、意を決して口を開いた。


「月守さんは、ああ言ってたけど。私は気になってしょうがないんだよ、すずちゃん。いつもアイドルを意識しているすずちゃんが、そんな弱気な台詞……何があったの? すずちゃんと渚さんの間でいったい……何があるの?」


 不躾な質問であることは理解していた。踏み込みすぎた台詞であることはわかっていた。それでも、聞かなければいけない、耳を傾ける必要のあることだと、美歌の心のなかのどこか一部分が訴えていた。


「…………前に、つい言いそうになってやめたこと、覚えてる?」


 永遠に続きそうな沈黙を破って、すずはポツリポツリと話し始めた。

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