「ここで初めて美歌ちゃんのピアノの演奏を聴いたとき。つい、心が動いてしまった。ううん、本当は初めて美歌ちゃんの生歌を聴いたときに、もう動かされてしまっていたのかもしれないけど」
自嘲気味に笑うと、すずはようやく目の前に置かれたローズヒップティーを手に取った。鮮やかな赤色が口の中へ吸い込まれていく。
「あのとき、ここで美歌ちゃんのピアノを聴かせてもらったとき、私、言ったよね。浦高のみんながみんな活動を続けられたわけじゃないって。3年間。たった3年間の時間だけど、アイドルとして競争して傷ついて傷つけあって、卒業までたどり着かない人もいる。その中には退学してしまう人もいるって。その一人が、穂坂渚。私の憧れで目標だったアイドルで、私と一緒に子ども時代を過ごした、山本渚なんだよ」
「子ども時代を……過ごした?」
演奏用の椅子から車椅子へと移ると、テーブルを挟んですずの真正面へと移動する。わずかに首をかしげて真剣な眼差しで過去をさ迷うすずを見つめた。
「私と渚は、同じ養護園で育ったんだよ。児童養護施設。私にはね、親とかおじいちゃん、おばあちゃんとか、そういう保護者はいないの」
何も言葉を出すことができなかった。一瞬浮かんだ戸惑い、それすら声に出してはいけない気がした。代わりに瞬きをすることで先を促す。
「渚もそこにいた。私より先に。なんで養護園で暮らすことになったのか、そんなことはお互いに話すことはなかったけど、渚は私といて、一緒に育ったんだよ」
硬い金属音を鳴らしながら置かれたティーカップからは僅かに揺れる湯気が立ち上っていった。その先にいるすずは顔を上げて、懐かしむように湯気の消え行く先を眺める。
美歌もすずと同じように湯気の行く末を目で追う。だから何がわかるでもないが、もしかしたら何かはわかるかもしれない。そう、思いながら。
ふと、すずは笑顔を浮かべた。口角を上げただけの空っぽのような笑顔を。
「こんなこと──こんなこと話すつもりはなかったのに……誰にも話さないってアイドルになったときに決めたのに……」
うなだれるすずの耳元がなにかを主張するように光る。いつも身に付けている赤い、赤いピアスが。
「すずちゃん、その赤いピアスって……」
「……そう、渚からもらったんだよ。渚が浦高へ進学するときに。養護園を出たときに。一緒にアイドルを目指そうって、アイドルとして今度こそスポットライトを浴びて生きていこうって。誰かが愛してくれなくても、誰かは愛してくれる。そう言ってたのに」
か細い白手が愛らしいベビーフェイスを覆う。塞がれた口から溢れ出ようとする嗚咽を噛み殺す。
「なのにいなくなったんだ。電話もメールもメッセージも全部ブロックして。ずっと探してやっと見つけたのに。渚は、渚は──」
容赦なく首を落とした。美歌の耳奥から、あのおしゃべりな声が聞こえてくるようだった。感情を逆撫でするような耳障りな笑い声が耳のなかで反芻される。
「だからもう無理。無理なんだよ、美歌ちゃん」
すずの嘆きに美歌は我に返った。ローズヒップティーの湯気はとうに消えて、すずの体が小刻みに震えている。大きく何度も呼吸を繰り返しては、歯と歯が重なり合う音が悲しげに響く。
「……すずちゃん」
続く言葉は出てこなかった。どんな言葉を投げかけても、言葉を尽くそうともきっと今のすずには届くことはできない。今の美歌には唇を噛み締めて、ただすずの顔を窺うことしかできなかった。
「大丈夫……大丈夫……」
そうやって自分自身に言い聞かせるように、震える歯の間から励ましの言葉が漏れた。いつも、こうして鼓舞し続けてきたのだろうか。アイドルで居続けるために。アイドルとして瑠那のようにトップに立つために。
大丈夫、という言葉が美歌にはまるで大丈夫に聞こえなかった。
「すずちゃん」
美歌の声が自然と跳ねた。今、自分にできることはなんなのかわからないままでも、声は、思いは示さなければならない。
「なんて言ったらいいのか全然わからないけど、大丈夫って言わないで」
両手で覆ったままの小さな顔が上がった。指と指の間から呼吸の音が見える。
「大丈夫なんて言われたら、私、なにもできなくなっちゃう。なんにも言えなくなっちゃうよ」
ピタリとすずの震えが止まった気がした。声が届いている確かな感触。ライブのあの一体感のように、音と音とが瞬間的に重なり合った気がした。そう思ったからこそ、美歌の目から一筋の涙が溢れた。
「私は浦高が大好きです。すずちゃんのことだって、こうやって話しているのが不思議なくらい大好きで、憧れてて。だから、上手く伝わらないかもしれないけど、とにかく大丈夫なんて、言わないでください。だって、『もう無理』だって言ったじゃない。大丈夫じゃないときに大丈夫って、言わないでください」
熱くなった胸の前できゅっと両手を握り締める。一曲歌い終わった後のように息が乱れていた。美歌の荒い呼吸に混じるように唸り声にも似た嗚咽が聞こえる。
すずの肩が大きく上下した。急に咳き込んだあとに、顔を覆っていた両の手がまた小刻みに揺れる。ただ違うのは、抑え込む手の間から大量の涙色の感情が止めどなく溢れ出ていくことだった。