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第84話 サナギと蝶の記憶

 『早射』そしてまた『早射』と、連続で技を繰り出していく。対瑠那戦に向けて火属性魔法をエンチャントすることを主な戦い方にしていたすずは、弓そのものの扱いにはまだ長けていなかった。


 射ぬく先から続々と現れる狼の群れに対処しきれずに、モンスターの数は増していく一方。


(矢が! 追いつかない!)


 美歌はまだ目を瞑ったまま演奏を続けている。確かに音が途切れることは、魔法の中断を意味するとはいえ。


「美歌ちゃん! 美歌ちゃん!!」


 危険が迫っていることを大声を張り上げて伝えるも、まるで届かない。深い瞑想状態に陥っているように、リラックスしたまま弦を揺らす美歌に向かって四足の獣が水飛沫を上げながら疾駆してくる。


「美歌ちゃん!!!!」


 もはや叫び声にも聞こえる声を絞り出したすずの黒真珠のような瞳が拡張する。黒毛を揺らす狼の動きが、美歌の流れるような指の動きが、そして美歌の奏でる音が遅くなる。


 右手が自動的に矢を引き絞り、しなやかに放たれた。矢は揺れる水面を抜け、飛沫をも抜けると真っ直ぐにただ真っ直ぐに突き進んでいった。行方を追うその瞳の宇宙そらが映し出していたのは、過去の幻影。


『この蝶、真っ直ぐにすずに向かって──』


『ホントだ! やった!!』


(そうだ。あのとき。あのとき──)


 すずの目が瞬くと、矢は美歌の頭上スレスレを飛んで大きく開いた狼の口の中へ飛び込んでいった。


『秘技・はやぶさ


 ナビの硬い声がその技の名を告げると、矢が頭部を突き破り空高く伸びていく。上昇した矢が太陽の光と重なり合ったその瞬間。矢はピタリと空中に留まり、急降下した。風を切る速度で落ちていくやじりが狙うのは、地上を這う狼。無防備な背中を頭を突き破り、急上昇と急降下を繰り返す。その様は、空を狩場とする鳥そのものだった。


ファジュログローブ熱線


 残された最後の一体を燃え上がる矢で射抜くと、鳥と化した矢は途端に力を失い、川面かわもへと落下していった。


 ようやく美歌の音楽が終わりに到達したのは、それからきっかり一分後のことだった。パッと目を開けた美歌に向かって、すずは拍手を送る。


「すずちゃん!」


「ついつい聴き入ってしまう演奏だったけど、危ないよ美歌ちゃん。オオカミの群れに囲まれてたこと気づいてた?」


 「えっ……」と声にもならない声を発するも、すぐに美歌は絶句した。キョロキョロと一通り顔を巡らせると、理解したように大きくうなずく。辺りには大量の金貨がうず高く積まれていたからだ。


「ぜ、全然気づかなかった」


「だと思った。そんなんじゃすぐに襲われちゃうじゃん! 気をつけないと」


「ごごごめん! あっ、でもほらすずちゃんが守ってくれたんでしょ?」


 のほほんとした美歌の微笑みを見ていると言おうとした文句も引っ込んでしまう。


「はー、もういいよ。それだけ集中してるからあの音が出せるわけだしね」


「本当にごめん。直人くんの傷を治すのに思ったより時間がかかってしまって。けっこう重傷だったから」


「直人、か──」


 左を振り向けば、半壊した家々や瓦礫を避けるようにしながら、疾走してくる直人の姿を視認する。そう言えば、とすずは直人が戻ってくる前に美歌に伝えていかなければいけないことを思い出していた。


「あいつが戻ってくる前に、美歌ちゃんに伝えたいことがあるんだ」


 それは記憶。過去に辿ったはずの出来事。セピア色に色褪せてしまっていた過去が、美歌の音楽のせいで鮮やかな色を取り戻して突然に思い出されたのだ。


「夕陽が窓から部屋の中に溢れていたの。誰もいなくて、私と渚しかそこにはいなかった。サナギがね孵ったんだ」


「サナギ?」


「渚の使っていた机の中で、いつの間にかサナギができていた。幼虫が、まゆを重ねてサナギをつくっていた。気持ち悪いとかそういうのは不思議となくて。渚と私は一緒の机で勉強することにして、毎日サナギを観察していた。朝起きて、学校から帰ってきて、夜寝る前に。毎日、毎日」


 会話は忘れてしまった。たぶん、「いつ孵るのか」とか「サナギの中はどうなっているのか」とか、他愛のない会話だったんだろう。


「楽しかった。嬉しかった。たぶん、初めて、いつも渚はなんでも私の一歩前に行っていたから、一緒に同じ目線で何かをするのは初めてで。だからきっと」


 渚は同じ気持ちだったんだろうか。いつも強気でいて、だけど時々寂しそうになる茶色がかった瞳は、輝いているように見えた。


「サナギが孵ったとき、見たこともない綺麗な蝶々だった。オレンジがかった赤色の綺麗な、本当に綺麗な」


 だけど。


「その蝶を渚はハサミで切ってしまった。綺麗な羽に斜めに線が走って、蝶は2つに分かれてそのまま動かなくなった」


 そう、あのとき。


『この蝶、真っ直ぐにすずに向かって──』


『ホントだ! やった!!』


『──私が育てたのに』


「渚は笑いながら泣いていた。違う、泣きながら笑っていた。わけがわからなかったけど、でも、あの夕陽で陰った横顔は、とても綺麗だった」


 眩しい日中の光が戻ってきた。不安定な夕陽の幻影は、陽光に跡形もなく溶かされてしまったが、確実に遭遇した過去として記憶の領域に定着する。


 イメージかもしれない。誇張されているかもしれない。だが、それが現実に起こったことだけは、心に刻まれたことだけは間違いようがなかった。


「この話はこれで終わり。今思えば、あのとき私は渚の……なんだろう、心に触れられたのかもしれない。それがいいものじゃないとは思うけど。でもね、楽しかった。楽しかったんだよ」


 すずの可愛らしい瞳が美歌の瞳に柔らかく注がれていた。小さな口は微笑みを結び、「ありがとう」という形を作る。それが何のありがとうなのか、美歌には言葉にはできなかったが、代わりに泣きたくなるような綺麗なピアノの旋律が心の中に響き渡る。


「大丈夫か?」


 音が中断された。優しい色を帯びた声に振り返ると、直人が何食わぬ顔をして突っ立っていた。


「大丈夫なわけないじゃん。自分を大事にしようとしない誰かのせいで大変だったんだから!」


「それは悪かった」


「素直に謝られるのも気持ち悪い」


「お前に謝ってるんじゃない。俺は美歌に謝ってるんだ」


「! またそういうことを!!」


 まだ何も終わっていないというのに急に罵り合う2人を遠巻きに眺めながら、美歌はそっと握り締めたままの指を緩めた。その後ろから別の声が割り込んでくる。


「おおっと、2人とも罵り合っている場合じゃないんじゃないかい?」

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