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第85話 辿る音色

 悲鳴を止めることはできなかった。なにせ一人で右翼側から攻めてくるモンスターを相手にしていたはずなのだ。走ってくるにしても、存在に気がつかないなんてことがあるだろうか。


「月守さん! ど、どうやってここに!?」


「あーまあ、適当にね。それより、事態は深刻だ」


 ぐるん、とやや乱暴に車イスが回される。


 また出そうになった悲鳴を抑えながら、シルバーのグローブをつけた月守の人差し指が示す先を見る。穏やかに流れる川の向こうは、穏やかな光景が広がっていた。


 人工的に構築されたようなどこまでも真っ直ぐな川の先には、煉瓦や石で造られた建物群や植えられた針葉樹が規則正しく並んでおり、まるでミニチュアの世界に迷い込んでしまったかのように目を楽しませてくれる。 あくまでも左右から聞こえてくる雄叫びや戦いの音を無視すれば。


「よく目を凝らして見るんだ。太陽の光に当たって何かが揺れているのがわかるだろう」


「いったい何が見えるって──」


 横に並んだすずと直人とともに目を細めて遠くの空を眺める。眩しさから逃れるために手でひさしをつくると、透き通った空色に時折赤いノイズのようなものが混じって見えた。


「確かに見えます! あれは、もしかして」


「ああ、糸だろう。山本渚は、まだ何か企んでいるようだ。モンスターはあらかた倒したんだが」


「その通りだ」


 頭上から声。明らかに敵意剥き出しの声が降りてくる。吹き付ける風が美歌に身の危険を知らせてくれた。


『袈裟斬り』


 ナビがそう言ったのは、金属音がぶつかり合った数瞬後。見上げた美歌の視界いっぱいを光沢のある黒いジャケットが覆っていた。なぜか懐かしい感じのする匂いが鼻腔に残る。


ファジュログローブ熱線!!」


 弾けた声に動き出すようだった。魔法を詠唱したすずが素早く飛び出し、直人が後ろへ避けた敵プレイヤーを追撃する。背を軽く叩かれたと思えば、車イスが反転して離れていく。


「月守さん、なんで!?」


「あのプレイヤーの狙いは、間違いなく美歌、君だ。近接攻撃から逃れるには、距離を置くのが一番」


「でも、あの人強いんです。月守さんも知ってますよね! すずちゃんと直人くんだけじゃ……」


 速すぎてハッキリと姿を見ることはできなかったものの、男性にしては高いあの声に、敵が後ろへ下がる瞬間に垣間見えた特徴的な腕はハッキリとまだ覚えている。物部芽依の兄と名乗った物部大地だ。


「前は3人がかりでも勝てなかったんですよ! 直人くんは回復したばかりだし、すずちゃんだって休む間もなくて、このままじゃ……」


「2人なら大丈夫だ。直人も同じ敵に負けるような奴じゃない。そんなこと、君が一番知っていると思うけどね」


「でも……」


「それに美歌には別の役割があるだろう。状況をよく考えるんだ。今、私達の目的である山本渚が糸を使って新たなモンスターを呼び出そうとしている。時間が掛かっているところを見ると、たぶん一度別のダンジョンからモンスターを引っ張って、この世界に送り込もうとしている。こちらのモンスターはあらかた片付けたからね」


 ダンジョンとは異なる世界。自分だけの【異界】にすずが追い求める「糸のプレイヤー」がいるのだとすれば、操る糸は一度異界から別のダンジョンへと移動しなければならない。


 そこからさらにここエーレンフェスト市街地へモンスターを持ってくるには、もう一手間がかかる。タイムロスが生まれるのは、おそらくそのためだった。


「いいかい? この世界に再び大量のモンスターが現れたらどうなる? それこそ全滅だ。私達はダンジョンの入口に戻されて──そしてもう二度と対抗することができないだろう。それを防ぐためには、誰かが糸のプレイヤー山本渚の相手をしなければならない。最初に言った通り、無数の糸に対抗するには無数の音が必要だ。今、この瞬間。糸に対抗できるのは、美歌の音しかないんだ」  


 敵の攻撃範囲を越えたところで車イスは止まった。隣に立つスラリとした脚がしゃがみ込み、さらりとした微笑みを浮かべた顔がぐっと近づいてくる。


「美歌。ピアノの演奏を。このために練習したんじゃないのかい?」


 あくまでも穏やかな口調。真後ろで戦闘が繰り広げられているとは思えないほど、緩やかな声色が余計に美歌の胸の辺りを締め付ける。


「でも、あれはまだ……未完成なんです。私の持っている曲だけじゃきっと、糸には届かない」


 肝心のピースが見つからなかった。その曲の、一番響かせたい音がクリアに聴こえてこない。大事な音がないままに演奏を始めても、きっと途中で迷子になってしまう。


「そうかもしれない。だが、君は聴いたはずだ。松嶋すずの声を。そして、その声から微かに鳴り響く山本渚の音を。彼女らに届く音色は、もう君の中にあるはずだ」


「届く音色……?」


 月守の発した言葉を噛み締めるように繰り返す。途端に浮かび上がったのは、鮮やかな夕陽。どこを切り取っても綺麗で。それでいて世界の色を染め上げる、オレンジ。


「サナギ……糸。そっか──蝶々だ」


「少しは音が聴こえてきたかい?」


 優しく見上げる瞳に、美歌は躊躇いながらも頷きを一つ返した。


「わからないです。だけど……たぶん、いえきっと、あの糸はただの糸じゃない。言葉にするのは難しいんですけど……何か意味を持っている糸。スキルとか効率性とかそういうのとは別の、何か大きな意味を持つ糸」


「対抗する手段を見つけたならそれでいいよ。美歌が思うままに音を紡いでくれ。他のことはこっちで──違うな、みんなに任せてもらっていいから」


 そう言うと、月守は腰を上げて美歌の車椅子を前に向けた。直人とすずが戦っている姿が目に入り、そして遠くの空に現れる天から垂れる紅糸が目に飛び込んでくる。


「ナビ」


 弓を引くすずの赤いピアスが揺れた。配信もせず、可愛さを忘れて汗だくで戦うその表情は、とても美しかった。


(迷ったっていい。間違えたっていい。ただ全力で、今の私にやれることを──)


「ピアノの転送をお願いします」


 それがきっと、前を向く力になるはずだから。


『了解。転送アプリ起動……対象把握……特定。グランドピアノr-550転送開始します』


 ナビの声が終了すると同時に目の前の何もない空間が歪む。


 ダンジョンへ転移するときと同じように構成する物質一つ一つが超高速で置き換わっていき、はっと気がついたときにはクラシックな黒色塗装された3本の脚に滑らかな曲線を描く側板、88の鍵盤──美歌のグランドピアノが現出した。


 車イスから演奏用の椅子に乗り換えると、光が反射する鍵盤の上へそっと指を置く。小刻みに指先が震えるのは、緊張からか新しい音に出会える期待からか。


「行きます」


 どちらともつかない感情のままに、美歌は鍵盤を弾いた。

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