「リン! 大きく避けて! 魔法が来る!!」
精霊魔法。比較的値の張る音楽魔法よりも遥かに高い金額で取得できる「最も高価な」魔法スキル。
一回のダンジョン探索で一度しか使えず、発動するにも特殊な条件が必要となるその魔法は、威力、対象範囲ともにまさに規格外だった。
だが、いつまで経っても魔法は発動しない。
「……不発!?」
「いいえ、違うわ」
身を翻した物部芽依が見たものは、平静に微笑む瑠那の姿と、相方──西條凛に突撃していく有門の姿。
「ウソ! リン、逃げて!!」
「もう遅いわ。遠距離タイプは近接攻撃に弱い。散々、有門のことをバカにしてくれたけど、あの筋肉ダルマ。ハマれば強いのよ」
一気に間合いを詰めると、有門はロングソードを頭上に掲げた。辛うじて後ろへと逃げる凜を追うように空高く飛び上がる。
『
「やめてっ! リン!!!!」
全体重を乗せた重い一撃が無防備な身体にクリーンヒットする。吹き飛ばされた凜の小さな身体は後ろの家の壁にぶつかり、そのまま刈られた細木が朽ちるように地面へと倒れていった。
「リン!!!! てめえ! 絶対に──」
「人の心配をしてる場合じゃないわ。今度こそいくわよ」
スマイルを解除する。髪を掻き上げて、杖の先を硬い地面へと叩き付ける。焔が瑠那の周りを漂い始めた。沸々と煮えたぎるような熱が空気を焦がし、赤色のオーラを術者の周りに纏わせた。
杖先が僅かに上がり、地から離れる。凝視するあまりに身動きが取れなくなった猫に向けて、それは発動した。
「
「!!!」
揺らぐことなく対象を射止める赤い直線は、芽依の持つ細剣を弾き跳ばすと腹部を貫き、後ろに建つ煉瓦の造形物を貫通していった。
「……なんで……なんで、精霊魔法じゃないんだ……」
咳き込みながらも立ったままの状態で掠れた声が憤る。下腹を覆う手の隙間から見えるぽっかりと空いた穴が痛々しかった。
「舐めてるのか……僕を、僕とリンを……!」
瑠那の金色の髪が揺れる。人差し指を空に向けると、諭すように言った。
「聴こえるでしょ? 美歌ちゃんのピアノ。こんな綺麗な音を聴いたら、ゲームだからと言って殺すことなんてできないわよ」
「音、だって……?」
物部芽依は空を見上げた。
澄んだ青空から舞い降りてくる粒の揃った旋律は、戦いの場には全くと言っていいほど相応しくない静々とした
「おい、あれは、なんなんだ?」
頭上を飛び交うモノは、明確な形を成していなかった。か細い音を体現しているのか世界との境界線すら曖昧なままの「何か」。それが緩やかな風に乗って遠くへ飛ばされていく。
「音が、どこか怯えている」
吹き抜ける風に髪の毛を押さえると、瑠那は一人呟いた。震える指先で慎重に鍵盤を弾く美歌の姿が眼に浮かぶ。
「だけど、美歌ちゃんの音。弱いのに強い、透き通るような音」
戦いは終わったと、瑠那が杖を仕舞おうとしたそのとき──耳をつんざくようなわめき声が発せられた。さざ波のようなピアノの音を掻き消すほどの。
驚いて横を向くと、落としたレイピアを手にした猫目の少女がもう片方の手で茶色に染まった頭を掻きむしっていた。
「ちっ!! まだ動けるのかよ!」
「動けるさ! まだ僕は死んでないんだから!!」
剣先が瑠那に向けられる。くしゃくしゃに乱れた前髪から窺える両の瞳は、憎悪の色に塗り潰されていた。
「もう、決着はついてる。これ以上戦ったって意味なんかない。負わなくていい痛みが続くだけよ!」
ふるふると痙攣を起こしたように首が横に揺れる。激しく咳き込むと、荒い呼吸の合間に何度も「うるさい」という言葉が吐き出された。
「うるさいんだよ!! てめぇの声もこの音も!! 勝手に人の勝ち負けを決めるな! 勝手に人を負けと決めるな!!」
「な、何を言ってるの?」
自分の口から出た声が上擦り、瑠那は一歩後ずさりしてしまった。焦点の合っていない目に、生々しく向けられる憎しみの感情がまるで魔法のように心臓を射抜く。
広い背中が瑠那の視線をシャットアウトするまで動悸は止まらなかった。
「有、門?」
「下がってろ、瑠那。あいつはオレが相手をする」
「何言ってるの!? カッコつけてる場合じゃないでしょ! 私も魔法を使って──」
「『負け組』なんだよ、あいつもオレも。あいつが吠えている理由がオレにはわかる。だから、オレが行く」
「待っ──」
手を伸ばした先にはもう背中がなかった。魔法で加速した有門の大きな背中が、どんどんと小さく離れていく。
「邪魔するなら、殺す!」
「二度も殺されねぇよ!」
流れる音を切り裂くように2本の剣が交差した。小細工なしのぶつかり合いは、力の勝る有門の方が上回り、じりじりと細剣が押されていく。
「わかってんだろ。どうなるかって。お前は1人でこっちは2人だ」
息がかかるほどに顔が近づく。剥き出しの目は見開いたまま。
「わかんないよ。なんで、そっちに居れるのか。有門優!」
剣が弾かれる。力を預けていた対象がふっと消えて、バランスが崩れる。負傷しているとはいえ、その隙を見逃すような相手ではなかった。
『秘技・
懐深くへ沈み込み、飛び上がりざまに弧が描かれる。研ぎ澄まされた爪が喉仏へと迫った。
「!? なっ!」
技名の通りに俊敏な動きが停止したのは、有門が片手で凶刃を握り締めたせいだった。
「……真っ直ぐな音が頭から離れないんだよ。どこまでも真っ直ぐな、この音が!」
力ずくでレイピアを奪うと、間髪入れずにロングソードを振り上げる。
『
一閃。まさに稲光のような一瞬の閃きのうちに、物部芽依は宙を舞っていた。色のない瞳に映るのは、無数に降り注ぐ雨のような音の粒。
背中が強く打ち付けられる。しめやかな雨声が少女の身体を柔らかい毛布のように包み込んでいった。