指先にビリビリと痺れるような感覚が走り、美歌はふと閉じていた目を開いた。演奏を始めた数分前とまるで違うヨーロッパの街並みに、指の動きが止まるところだった。
「そのままでいいよ。演奏を続けて」
いつの間に真横に移動していたのか、リーダーである月守の囁き声が耳元に降りてくる。音を紡ぐことに精一杯で表情を確認することはできなかったが、美歌はたぶんウインクでもしてるのだろうと想像する。
「説明がいるかな。大量の糸がまたモンスターをこっちの世界に出現させたんだ」
グランドピアノの屋根の先に見えるのは、この戦いが始まったときと全く同じ景色だった。牧歌的な雰囲気すら漂うエーレンフェスト市街地を縦に貫く川にも、左右に連なる家々にも、そして今度は空にすら異形のモンスターの群れが密集していた。違うのは、ガーゴイルやハーピー、スライムにバイコーン──モンスターの種類くらいだ。
(……間に合わなかった)
その光景を目の当たりにして美歌の音が沈んだ。重力が上がったと錯覚してしまうほどに指が重くなり、濁った音しか聞こえなくなる。
音楽魔法にはどうしても現象が発動するまでにタイムラグが生まれる。美歌が思い描いていた音を創り上げるまでには、時間が足りなかった。
(届かない。ダメだ、もう。あのとき、躊躇しないですぐに演奏を始めれば間に合ったのかもしれないのに……すずちゃんのことに早く気づいていれば。私がもっとピアノを練習していれば。私がもっと、もっと──)
勇気を出せていれば。握手会のときだってそう。私は泣くことしかできなくて、でも、私よりももっとあの子の方が。せっかく来てくれたのに、きっと勇気を出して来てくれたのに。台無しに、させてしまった。
私が、私がもっと強ければ。囁き声を、小さな声を、どんな声でも聴けるくらい強ければ!
「音が乱れてる。落ち着け美歌」
突然降ってきた優しい声に顔を振り上げれば、直人の無表情な顔があった。
「そうだよ。美歌ちゃん。まだ大丈夫。まだ、まだまだ追いつける……でしょ?」
後ろからはすずの穏やかな声。咳払いが一つ聞こえて、息を吸う音が聞こえた。
「もちろん。敵だってバカじゃないだろうから、ここまでは読んでいると思ってたよ。だけどここから先は読めない。なんたってこのダンジョンに入る直前に、これが完成したんだからね」
月守はスキニーパンツの後ろポケットからエレクトフォンを取り出した。
「さっき急にここへ現れてびっくりしてただろう。あれはね、実験だったんだよ。転送アプリは物を運ぶだけじゃない。プレイヤーも瞬時に移動させることができるんだ」
月守は転送アプリを開くと、すずに目を合わせた。
「すずは配信者だろう? 配信で呼び出してほしいんだ、多くのプレイヤーを」
すずは、なにを言われたのかわからないというふうに、目をぱちくりとさせると、驚いたような声を出した。
「まさか! 配信でプレイヤーを集めるんですか!? このダンジョンに!?」
「そうだ。無数の糸には無数の音を。無数の音とは、美歌のピアノだけじゃない。このマネーダンジョンに呼ばれ、赤い糸に翻弄された多数のプレイヤーの音のこと。行けるだろ? すず」
「……わかり、ました!」
すずは自身のエレクトフォンを取り出すと、すぐに配信を始める。乱れた髪はそのままに、いつもの笑顔を封じて真剣な瞳で現状と打開策とを話し始める。
そうこうしている間にも召喚されるモンスターの数は、どんどんと増えていった。空が地面が町が、モンスターの影に覆いつくされるように。
美歌は、すずの方を見ながらも鍵盤から十指を離さず演奏を続ける。まだ、戦いは続いている。まだ、終わらない、終われない。
月守の作戦を、すずの努力を、そして自分をじっと見守る直人の優しさに後押しされて指は半ば意識とは違うところで動いていた。
すずが月守に向かって合図を出した。
「リスナーのみんなに呼びかけました! 周りのプレイヤーにも働きかけてくれるって!!」
「よし、こっからが本当の戦いだ! 全員さっさと集合しな!」
月守がエレクトフォンのボタンをタップすると、ピアノが転送されてきたときと同じように空間が歪んだ。
たが、その範囲はピアノの比ではなかった。川面に向かう全ての面に、見渡せる限りの全ての面に亀裂が入る。言ってみればそれは、ドットで構成された世界を破壊するように美歌には見えた。
「目には目を。あっちが誰かの世界に介入してくるんだったら、こっちだって向こうの世界に攻め込むまで。随分と散らかしてくれたから、説得は簡単だったようだね。見な、これだけの人数が集まれば、モンスターの群れだって簡単に蹴散らせるだろう」
つい数秒前には何もなかった大地にプレイヤーが密集していた。美歌のピアノを囲むようにダンジョンへと現れたその数約50。それぞれが状況を把握するためにキョロキョロと周りを見渡すが、モンスターの咆哮が聞こえた途端に、全員が一斉に持っていた武器をその手に構えた。
「戦闘中だということはわかりました。ただ、改めて状況を説明してくれませんか?」
紺色のデニム生地のブラウスを羽織ったポニーテールの女性が手を上げる。背中側には天使の羽と思われる白羽の刺繍が施されており、同じマークが両隣のプレイヤーの服にも付けられていた。
「私達は3人で1チーム。極小ギルドです。あの糸に蹂躙されて、もうダンジョンの最前線には行かないと決めていました。けれどもすずさんの配信で勝てる見込みがあると聞いて、もう一度ダンジョンに戻ってきたんです。作戦を……勝てる算段を、教えて下さい!」
集まったプレイヤー全員の視線が月守に突き刺さる。そうしている間にも、続々と新たなプレイヤーが転送されてきていた。
モンスターの足音と、美歌がなんとか紡いだピアノの音色が、静寂を支配する。鍵盤を揺らし続ける美歌としてもどうすればいいのか、何ができるのか、その道筋を示してほしかった。耳をそば立てるように意識の一部を月守の声に向ける。そうしないと演奏が止まってしまいそうだった。
「結論から言うと、伸ばされた糸を辿り、プレイヤーである山本渚のいる【異界】へと乗り込み、叩く。それだけだよ」
簡単に言ってのける月守の軽い言葉に非難の声が上がった。
「そんな簡単にできるとでも? モンスターを倒しても、糸が襲ってくる。あの糸に捕まったら最後、逃れることはできないんですよ?」
美歌の頭の片隅でちらりと糸に捕まれたときの感覚が甦った。そう。あの糸は自分じゃどうしようもできない。
「ああ、そうだね。捕まれば自力での脱出は不可能。強制的にダンジョンから離脱させられてしまう」
「じゃあ、どうしろと!!」
「音だよ」
さも当然と言うように、月守は言ってのけた。
「音……ですって?」
一際強い音が叩かれた。
「そう、音。美歌のピアノの音。そして、ここに集まった君たちみんなの音」
ペダルは踏めない。だが、十の指だけで構成される音は、滑らかにしなやかに辺りを包んだ。
沈黙の中に勇気と、前に向かう風を運ぼうと。
「自分の力だけではどんなにもがいても抜け出すことはできやしない。だけどね。他人の力を借りれば身体を縛る糸は切れるんだ。現に私の剣が美歌の糸を絶ち切ったからね。いいかい? みんながみんなを、互いが互いを守りながら戦うことができるのなら、糸は切れる。脅威にはならないんだ」
海色の風鈴のようなイヤリングをぶら下げたプレイヤーが持っていた斧を高く掲げた。
「僕は行く!! このまま大人しくしてても、何も変わらない。全員で戦えば、勝つことはできるんだろ?」
「ああ」
月守は微笑んだ。斧使いのプレイヤーの後に続いて次々と手が挙がっていく。最後に手を挙げたのは、直人とすずの2人だった。
「真ん中は俺が行く」
「じゃあ、私は右。左は瑠那さんたちが戦っているけど、各自判断で動いていいの?」
「その方が動きやすいだろう。この戦いにおけるルールはただ一つ。全員が全員を守ること、それだけだ。それじゃあ──」
よろしくお願いします、と願いと祈りを込めたささやかな音を合図に全員が散った。その音は、戦いの火蓋を落とすにはあまりにも小さな音だったが、折れかけた心と体をもう一度点火させるにはおそらくはきっと最適な音だった。