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第90話 戦場の音楽

「……行きます」


 再び戦いが始まったのを見届けた美歌は、やるべきことを、と鍵盤に視線を移す。まるで白と黒の螺旋階段のようと感じたのは、無限とも思える数の曲を白鍵と黒鍵の鍵盤だけで創ることができるからだった。


 小さな水滴が、モンスターの牙を使用した白鍵に落ちる。人の体温ほどの温度の水滴だ。


 思い描いた筋道とは違う。自分の力だけで魔法を奏でようとしていた。力の無さに負けそうになっていた。だけど、そうじゃないと、美歌は顔を上げる。


(忘れてた……。音楽は一人で奏でるものじゃない)


 みんなで奏でるものなんだ。


 鍵盤がふわりと、だがしっかりと弾かれる。まるで最初から知っていたかのように曲が頭の中へと流れていく。


 属性は水。寄り添うように、隣にあるように、祈りを込めた天気雨。


 美歌は快晴のブルーの空を眺めた。一粒一粒丁寧に集めた音の粒が純水の雨を、無数の音を降らす。──降り注ぐのは今だ。


 大きな瞳を閉じると雨音を伴って多様な音が耳を通過していく。剣戟に足音に雄叫びに歓声──ライブ会場のようだった。いろんな想いがいろんな声が、ダンジョンという閉じられた場所でぶつかり合う。広いはずなのに今だけは狭い。熱気が、交差する美歌の両手を火照らせた。


 水垂れをイメージして音を散らす。晴れ渡る青空から遥か下の地上に向かって落ちゆく細雨は、味方を避けるようにモンスターの身体を貫きその動きを止めた。


 留めを刺す必要はない。あくまでもこの無色透明な水は味方を守るために動くのだ。


「今だ!」


 怯んだ隙に、タイミングを合わせたように一斉に攻撃に転じる。それぞれ磨き上げた技を魔法を畳み掛けるように発動した。青、赤、黃、緑、豊かな色彩が雨の下で光り輝く。


「……これが、音楽魔法の力──いや、音の力……?」


 呆けたように誰かが呟いた。モンスターの姿が消えた大空に視点を移せば、うっすらと現れた虹の橋が隔たる川を飛び越えて街全体に掛けられていた。


 あちこちで歓喜の声が上がるなか、弓を提げると、すずは口を片手で覆った。傍から見てもわかるほどに震えながらも、ただ一点を見つめていた。降り頻る雨の先、透き通る青色の空のその先を。


「……渚」


 なんの前触れもなかった。雨降りのエーレンフェスト市街地の上空の色が真っ赤に染まったのは。誰かが悲鳴を上げたのは、キラリと赤色が煌めいてからだった。


「糸が来る! 全員身を守れ!」


 珍しく、直人の大声が空気を震わせた。宙に放り投げられて喚く斧使いの身体に伸ばされた糸を刀で断ち切る。雨に濡れて鮮やかな赤茶色に変色した石畳に叩きつけられそうになったプレイヤーを何人かがキャッチして地面へと降ろした。


「大丈夫か!?」


「あ、ありがとう」


 お礼のやり取りをしている間にも、世界の外から吊るされた糸がプレイヤーの集団へと襲い来る。絹糸のように滑らかで、それでいてピアノ線のように硬質な回避不可の赤糸は、次々とプレイヤーの四肢を引っ張り上げていく。


 歓びの歌声が沸き上がったはずの街全体を何十本もの糸がうねり、戸惑いと不安と焦りの渦をつくる。まるで街を縫うように、青空と赤や茶の煉瓦を縫い合わせるように。


「くそ!」


 有角が悔しそうに剣を地面へと叩きつける。瑠那は声が枯れるほど詠唱を繰り返し、すずは大型の鳥を空へ向けて飛ばした。「全員が全員を守る」。月守が発した合言葉を、たった一つのルールを守るためにダンジョンへ集った全員が走り、跳び、声を上げて糸の猛攻を防いでいた。


「マズいな、疲弊してきている」


 プレイヤーの声は戦況を睨んでいた月守と、演奏を続ける美歌の元へも風に乗って飛んでくる。一つ一つの音が凝縮された巨大な「戦場」の音が、ひたすらに鍵盤を叩く美歌の耳に届かないはずがない。


「美歌?」


 にも関わらず、美歌の鳴らす音からは動揺も不安の色も見えなかった。それどころか、演奏を始めた最初の頃から比べると、右左に奏でる指の動きが流暢ですらある。


「美歌……また声が聞こえていないのかい?」


 月守は嘆くように深く吸い込んだ息をゆっくりと吐き出すと、キレイな形のあごに指を当てた。


「いや……まさか、音で捉えているのか? 全員の状況を」


 戦場に目を向ける。確かに誰もまだ脱落してはいない。糸に絡め取られるたびに別の誰かが糸を断ち切り、また別の誰かが──。


 永遠に繰り返されるとも思われる糸からの逃亡劇に徐々に疲れは見えてきているものの、負けられないとする覇気はまだ十分にあった。それを支えているのが。


「美歌の音だ」


 空から降る雨は一人一人を守ろうとするかのように糸を分断し、宙を飛び回る。状況が把握できていなければ、そんな動きをつくることは不可能だった。


「……何を狙っているんだ?」


 戦況は把握している。苦しい状況だ。切っても切っても糸はすぐに再生し、同じようにプレイヤーの身体を掴み上げようとしてくる。このまま戦いを続けても、追い詰められていく一方。


「なのに、美歌。一体何を」 


 月守は、一度態勢を整えたい、と考えていた。


 月守の目論見では、糸の攻略はもっと簡単だった。全員が糸を切れば自ずと糸の本数は少なくなっていく。再生はするだろうし、新しい糸も形成できるだろう。


 だが、こんなにも速く再生するとは予想していなかった。だから一度態勢を整えて、作戦の練り直しをしたかった。


 それを、その命令を口にすることが美歌の小さな背中が許してはくれない。


 一本の糸が地面へと突き刺さる。続けて数本、10本、数十本。大地に突き刺された糸が持ち上がると、プレイヤーの密集していた石畳が上に乗る教会ごと大きく揺り動かされる。


「! 動きを止めるつもりか。やはり無理だ。一旦退避を……!!」


 鍵盤が一際大きく弾かれて、振り上げた月守の腕は行き場をなくしたまま空中にぶら下がる。ピアニシッシモからフォルテシッシモへ。弱い音から強い音へ。空間を漂う音が劇的に変化する。


 閉じられていた美歌の黒い瞳が大きく開かれた。

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