その一瞬、糸が止まったように見えた。
美歌が紡ぎ出す音に反応を示したように糸が僅かに揺れて振動が止まった。
が、次の音が弾かれる前に雷鳴にも似た地鳴りが激しく響き、石床が持ち上がる。
天使の絵が描かれたステンドグラスが砕け散り、小さな建物や木々が地の底へ呑み込まれていく。誰もが転げないように座り込むことしかできなかった。
「きゃ……!」
激しい揺れに耐え切れずに転がっていく小さな手を、甲冑に身を包んだプレイヤーの大きな手が掴んだ。
「まだだ! 諦めるなよ、まだ終わってない!」
キズだらけの鉄仮面から覗く瞳は生気を失っていなかった。武器を持つことも、魔法を唱えることすらできないこの状況下と言えども。
「そうだ。終わってなんかいない。演奏はまだ終わってない。戦いはまだ終わってない!」
漆黒のローブを羽織った別のプレイヤーが剥がれかけた煉瓦を強く握った。歯を食いしばり、震える体を起こして前を向く。
あちこちから声が上がった。必死な、それでも悲壮感の欠片もない声が。その声は次々と突き刺さる糸を飛び越えて真っ直ぐに美歌の耳へと届く。
息が吸い込まれ、可愛らしい小さな口が大きく開かれた。
音楽魔法の特徴は、楽器を用いて魔法を発動する。それだけだ。
詠唱が必要な魔法がその現象と単語とがセットになっているのに対して、音楽魔法は現象と音楽とがセットになる。音楽さえ奏でられれば、何の制約もなくその音は魔法となるのだ。
美歌の口からその音が漏れた。ピアノが導き出す旋律を土台にして、高らかな声が重なる。
「それだけじゃない! これは──」
手を掲げたまま動くことを忘れた月守の目が捉えたのは、天空から降り注ぐ水のカーテンだった。例えるのならオーロラのような、あるいは噴水のような綿密に編み込んだ絹糸に似た水流が天から降りてくる。
それは、息を呑むほどに流麗な歌声とともに、プレイヤーを倒壊する建物を、そして燃えるような紅い糸さえも包み込んでいく。全ての音をその身に抱きかかえるように。
「なんて……魔法だ……」
ようやくそれだけを言うと、月守は上げていた手をだらりと下げた。それはちょうど、美歌が鍵盤から指を離したときと同じだった。
急に世界から音が消えて、代わりに耳鳴りが現れる。あまりにも音が無いがために音を欲した身体が強制的に音を発していた。
キラキラと水飛沫が陽光を反射して、世界の全てが輝いて見える。少しずつ耳鳴りが融けていき、太陽に照らされた鮮やかな風景が戻ってくる。
プレイヤーが動き始めたとき、空中を漂っていた無数の糸はすでにその動きを止めていた。
「止まったの……?」
薄手のラベンダー色のワンピースを身に纏った魔法使い風のプレイヤーが恐る恐る空から地面にかけて張り出したままの糸に手を触れる。
「わっ!」
途端に糸はぷつんと切れて空気にとけていくように消えていく。同様に絡み合うほど密集した糸が次々と切れていく。朗らかな陽気に包まれて、糸が切れる単調な音だけが続く。
残るのは、一番初めに大地に楔を打った一本のみ。
「ダメ!!」
たわむ最後の紅糸に子どものような華奢な手が飛びついた。放り投げた弓がカランと音を立てて地面へと落ち、赤いピアスが揺れた。
硬い糸だ。両手で握ろうとも糸は肉に食い込み皮膚を引きちぎって元ある場所へ戻ろうとする。
「くっ……うぅぅ……!」
皮膚が削れ血が糸を伝いボタボタと地面に落ちていく。それでもすずはさらに糸に力を込めた。
「絶対に、もう絶対に、離さない……。ここまで来たから、渚……やっと私、追いつけたんだ。もうすぐ届くから、あと少しだから、絶対に、絶対に……!」
糸はさらに強く引っ張られ、さらに食い込んでいく。痛みが限界に経とうとしたときに、別の手が糸を掴んだ。
「そんな薄い手じゃムリだろ」
有門が横に立ち、ともに糸を引いていた。他のプレイヤーの手も続いて重ねられていく。
「重っ! なんだよこれ、斬るのは簡単なのに」
「いいから黙って引け。力込めないと両手持ってかれるぞ!」
すずは涙に濡れた目で自分の周囲を見回した。会ったばかりの名前も知らないプレイヤーが歯を食いしばりながらも糸を引いてくれている。
「……どうして……?」
「あんな歌を聞いたあとだ! 勝手に体が動くんだよ! それに、ここにいる全員はこの糸に恨みを持っている。このまま逃がして終わりにするわけにはいかねーだろ!」
ぐん、とまた糸が引っ張る。腕が前に引っ張られ前傾姿勢になる。さらに引っ張られれば体は支えを失い、糸を手放してしまうことだろう。
「まだまだ!」
意気込む有門に呼応するように加勢の手が集まった。綱引きをするように糸を挟んで両脇に様々な衣装に身を包んだプレイヤーが並んだ。
「行ってこい、すず。紅い糸を辿って」
有門の強い瞳がすずを見据えた。思えば、初めてしっかりと目を合わせたかもしれない。そんなことを頭の片隅で思いながら、すずは小さな顔を縦に振った。
「
後ろから魔法が掛けられ、すずの両手に柔らかな光が現れ、傷を修復していく。傷を癒やす回復魔法の一種だ。漂うローズの香りだけでそこにいるのが瑠那だとわかった。
「私も行くわ。元浦高のアイドルとして、同期のメンバーの一人として。もちろん、美歌ちゃんも行くでしょ?」
瑠那の横の空間が歪み、車椅子に乗った美歌とその後ろに月守が出現する。美歌は心配そうにすずを見つめたあとに、車輪を動かして前へと歩み出た。
「行きます。きっと、行かなきゃいけないと思うんです。ずっと聴こえなかった糸の音が、ようやく聴こえたから。穂坂渚さんが、山本渚さんが、何を思っているのか、何を感じているのか、私はちゃんと、その音を聴かなきゃいけない」
「……なら、糸に掴まれ。俺が斬る」
不意に現れた直人は腰に提げた刀の柄を握ると、いつでも振るえるように構えた。
「言葉が足りねぇんだよ。3人が糸を掴んだ瞬間に糸を斬って糸の主が待つ空間へ向かわせるんだろ」
有門の指摘にはまるで答えずに直人は糸に視線を集中させていた。
「っておい、無視かよ!」
「まあまあ、有門。痛いけど傷がついたらすぐに回復できるように魔法をかけておくから、行こう。すずちゃんに美歌ちゃん!」
3人のアイドルを送り出すように、糸までの道が開かれる。震えながらも片手を開けた有門の右腕の案内に従い、糸の前に立った美歌は意を決して糸を両手で強く、強く握った。
声援。決意。溢れ出しそうになる涙と、苛烈な痛み。全てが弾けたようだった。刀が振り下ろされるのと同じタイミングで糸を握っていたたくさんの手が離れていく。浮力が背中をぐんと押す──。
「美歌、行ってこい」
という言葉を背中に受けて。
*
静かだった。ひどく、込み上げるほどに静かだった。そっと息を吹き掛けただけで切れそうな儚い糸が、しゅるしゅるしゅる、しゅるしゅるしゅると月も届かぬ深い闇のなかを音も無くさ迷い歩く。
コツン、と糸は何か硬い物質に当たった。静寂の中に生まれた一つの音。それは蝶だった。真黒の、触角も羽も全てが黒の筆で塗り潰されたような蝶だった。