石段の上には、朽ちた建物があった——。おそらくこれが、山里が言っていた古寺なのだろう。
古寺からは何かの気配を感じる。しかし、美奈に憑いているものとは、違う気配だ。
「やはり、寺は関係ないのでしょうね。古い建物なので、色々なものが集まって来ていますけど、そこまで気になるような気配はありません」
「僕も、関係ないと思います。美奈さんも建物を通り過ぎて行くし、奥に何かがあるんでしょうけど——奥は、山ですかね?」
「おそらく。そういえば美奈さんのスニーカーは、随分と汚れていましたね。毎日山の中へ入るから、あんなに汚れていた、ということですか……」
山里家の玄関にあった美奈の白いスニーカーは、随分と汚れていて、僕も、どこへ行っているのだろうかと不思議に思っていた。
——白いスニーカーで山に入ったら、そりゃあ、汚れるに決まってるよな……。
建物を通り過ぎた美奈は、木々の間を通って、山へ入って行く。
「山の中は、かなり暗いですね。一ノ瀬さんは、美奈さんの場所が分かりますか?」
「今のところは追えています。暗いけど、美奈さんの周りにいる目は、はっきりと視えますからね。見た目は気持ち悪いけど、今は役に立つなぁ、と思っていました」
「ふふっ。たしかに、目だけはよく視えますね」
美奈の後を追って、獣道のような細い道を、奥に向かって歩いて行く。
少し離れた場所は真っ暗だ。
木の陰が、どうしても気になる。
暗くて静かな場所だから、敏感になってしまうのだろうか——。
頭上で、バサッと音がして、大きな鳥が飛び去って行く。
木々から、ミシッと軋むような音がする。
パキッと、細い枝を踏むような音も聞こえた。
茂みが、ガサガサと音を立てる度に、驚いてしまう。
——嫌だなぁ。野生動物でもいるのかな……。
しばらくすると、木々がまばらになり、広い水辺に辿り着いた。
「こんな山奥に、池があるんだ……」
暗い池の水面には霧が発生していて、向こう岸は見えない。小さな生物がいるのか、所々に波紋ができて、近くには折れた木が浮かんでいる。
「夜の水辺って、不気味ですよね——」
僕がそう言った瞬間。池の方から冷たい風が吹きつけた。
「うわっ」
水面に発生していた霧もこちらへ流れて来て、すぐ近くにいるはずの御澄宮司の姿も見えない。霧の向こうから、恐ろしいものが出てくる様子を想像して、心臓の鼓動は早くなった。
「一ノ瀬さん、霧から逃れましょう」
右腕の肘の辺りを、ぐいっと引っ張られて走り出した。
霧が立ち込めた暗い山の中で、周囲は見えないのに、御澄宮司はどんどん進んで行く。腕を掴んでくれていなかったら、僕は前に進めないだろう。
次第に霧が薄くなって行き、安堵した時。
チッ、と舌打ちが聞こえた。
「やられた……」
御澄宮司は大きなため息をつく。
「えっ、何が——」
御澄宮司の視線の先を見て、すぐに気が付いた。美奈が進んでいた方向に、彼女の姿がない。
「美奈さんが……消えた……?」
「どうも嫌な気配のする霧だと思っていたら、やはり、やられましたね。私たちが後をつけていることに気付いて、美奈さんを隠したんでしょう。はぁ……ここまでか」
周囲を見まわしても、美奈の姿はどこにもない。
「一ノ瀬さんも、美奈さんに憑いていたものの気配を、探ってみてもらえませんか?」
「あっ、はい」
先ほどまでは、気付かれてはいけなかったので、あまり集中しないようにしていたが、しっかりと意識を集中させて、美奈が進んでいた方向を視る。
山を覆っている異様な霊気と、あちこちに別の小さな霊気は感じるけれど——。
「うーん……。美奈さんに憑いていた、あの嫌な気配は感じませんね。距離が離れてしまったのかも……」
「そうですか……。仕方ありません、今夜は諦めましょう。ここは妙な霊気が漂っているので、あまり長居はしない方が良さそうですし」
「ずっと息苦しい感じがしますよね、この山……」
「えぇ。私たちでこれですから、耐性がない人間は、おかしくなってしまうと思います。早くなんとかしないと……。美奈さんは、厄介なものに魅入られてしまいましたね」
「今日も、無事に帰って来てくれたらいいんですけど……」
美奈は立っているのもつらそうだった。そんな状態でも、足場の悪い山の中を歩くことができるのは、何かに操られているからなのだろう。自分で動いているのではなく、動かされているのだ。
御澄宮司が、上着のポケットから携帯電話を取り出して、ライトをつけた。足元がほとんど見えない状態で歩いていたので、目を瞑りたくなるほど眩しい。
「池がある場所は覚えましたから、また尾行をするとしたら、この辺りからは気を付けないといけませんね。——とりあえず、車まで戻りましょうか」
もう一度、美奈が進んで行った方向に顔を向けた後、御澄宮司は来た道を戻り始めた。
——仕方ないとは言ったけど、御澄宮司も、美奈さんのことが心配なんだろうな。
山の中を漂う、得体の知れない霊気の出所は分からず、美奈の尾行も失敗してしまった。連休中に解決したいと御澄宮司は言っていたが、本当に解決できるのだろうか——。
不安を感じながら、僕たちは山を降りた。