夜の九時に近付いた頃。御澄宮司が、三軒ほど先にある山里家を、じっと見つめ始めた。
「山里さんのお宅から感じる霊気が、一気に強くなりましたね。そろそろ美奈さんが、出てくるかも知れません。一ノ瀬さんも、準備をしておいてください」
「はい、いつでも大丈夫です」
僕も山里家を見つめた。たしかに山里家に意識を集中させると、背筋が寒くなるような、強い霊気を感じる。
僕は、御澄宮司や紅凛のように、強い霊力を持っているわけではない。三軒も離れている場所からでは、霊気を感じ取れないはずなのに、こんなに強い気配を感じるのは異常だ。
恐ろしいものに威圧されているような空気と、注視すると目がまわるような感覚もある。
——これは、あまり集中して視ない方がいい気がするな。
ブブブッ、ブブブッ……
振動する音が聞こえて、御澄宮司が携帯電話を手に取った。
「——分かりました。ありがとうございます」
「美奈さんが出かけるっていう電話ですか?」
「そうです。私たちも、外へ出ましょう」
車の外へ出て山里家を見ていると、美奈がふらふらとした足取りで、家から出て来た——。
「うわ……。何だ、あれ……」
思わず唾を、ごくりと飲み込んだ。
美奈の全身に、暗緑色の靄が纏わりついている。
生き物のようにうねる靄の中には、ぎょろぎょろと動く幾つもの大きな目が視えた。
「御澄宮司。僕が視たのも、あの目だと思います。鋭くて、なんとなく睨んでいるようにも視えて……」
「たしかに、男性のような印象ですね。目が動いているのは、周囲を警戒しているんでしょうか。美奈さんを守っているつもりなのかも知れませんが『あなたが一番危険』なのだと、教えてあげたいですね」
霊気に耐性のない人間が、強い霊気に長い間纏わりつかれていると、身体が耐えられなくなり、段々と弱って行く。
実際に美奈は、骨の形が見て分かるほどにやつれていて、生気を感じない。御澄宮司も、このままでは長くはもたないと言っていた。一刻も早く、美奈に憑いている霊気の、元を祓う必要がある。
「気付かれると面倒なので、近付き過ぎないようにして、ついて行きましょう」
美奈は、左右に大きく揺れながら、力無く歩いている。いつ倒れてもおかしくないような状態だ。
——急がないと、本当に美奈さんは……。
「取り憑かれている人が亡くなってしまったら、その後はどうなるんですかね……。漫画や映画では、想い合っている人たちが、一緒に成仏したりするじゃないですか」
「現実は、そう甘くはないですよ。特に今回のような場合は、取り込まれてしまうのではないでしょうか」
「取り込まれる……」
「嫌な言い方をすれば、喰われる、吸収される、そういうことです。美奈さんに憑いているものは、視ても分かると思いますが、すでに人の形をしていません。それにどうも、一人の人間の霊体だとは思えないんですよね。異様な雰囲気が漂っていますし……」
「あ。なんか、目がまわるような気持ち悪さを感じるので、何なんだろう、と思っていました」
「私もです。——ただの憶測ですけど、違う種類の霊気が混ざっているせいで、目がまわるような感じがするのかと」
「違う種類、ですか。人間と、他の何かが混ざっているってことですか?」
「そうですね。でもそれが何なのかは、今のところは分からないです」
「まぁ、見た目が気持ち悪いってことだけは、分かりますけどね……」
僕が声を低くして言うと、御澄宮司は、ふふっと笑った。
「たしかに気持ち悪いですよね、目が幾つもあると」
「僕、目がぎょろぎょろと動いているのは、苦手なんですよね。人間の顔とか動物の顔とか、当たり前についているものは何とも思わないんですけど、今回みたいに靄の中にあったり、顔じゃないものに目がついているのは、気持ちが悪くて」
「分かります。前に、腕にたくさん目をつけている人に会って、思わず声をあげそうになったことがありますよ」
「うわぁ、それは視たくないなぁ……。僕は間違いなく、叫びますよ。さっき美奈さんが家から出て来た時も、うわって言っちゃいましたしね」
美奈の全身に纏わりついている暗緑色の靄は、辺りが暗いので、今は視えづらい。僕たちの目には、ぎょろぎょろと動くたくさんの目が、浮いているように視えるので、かなり不気味だ。
ふらり、ふらり、と歩く美奈は左の路地へ入った。
「あちらの方向には、古寺があるはずです。山里さんは、この辺りでいつも見失うと行っていたので、ここからは、美奈さんに憑いている霊気を、常に感じ取っておくようにしてください」
「分かりました」
靄の中にある目を注視すると、見つかってしまいそうな気がしたので、なるべく視ないようにして、意識だけを、嫌な霊気を感じる方へ向ける。
道の先へ目をやると、街灯がほとんどないのが分かった。電気がついている家も少ないので、かなり暗い。すでに美奈の姿は、ほぼ視えないような状態だ。
「ん……?」と呟いて、御澄宮司が僕を止めた。
「あの辺りから、妙な気配を感じますね。暗いのでよく視えませんが、寺へ登るための階段があるはずです」
動かずに視ていると、美奈はフラフラと左に寄って行き、暗がりに消えて行った。
「行きましょう」
「はい」
御澄宮司の後を追って、美奈が消えた暗がりに向かう。街灯がないので暗いが、微かな月明かりのおかげで、美奈が石段を登っているのが視えた。
僕たちも石段を登ろうと、一歩踏み出した瞬間。
「ん?」
「えっ」
薄い幕のようなものを、通り抜けた感じがした——。
先ほどとは空気が違う。生暖かい湿った空気が身体に纏わりついて、息苦しい。身体が重くなったようにも感じる。
「御澄宮司……。なんか急に、空気が変わりましたよね……?」
「えぇ。私たちは、美奈さんに憑いている霊気を辿っているからついて来れただけで、霊力がない人たちは、ここで見失ってしまうのかも知れませんね。こちら側は霊気で満たされた空間です。本来なら、招かれている美奈さんしか入れないのでしょう」
美奈は、左右に揺れながら、ゆっくりと石段を登っている。相変わらず、ぎょろぎょろと動く無数の目は、美奈を奥の方へ導いているように視えた。どこまで行くのだろうか。
僕たちも静かに、美奈の後を追った。