朝だから、あの禍々しい霊気は弱まっているはず。
そう思いながら山里家に向かったが、すぐに甘い考えだったと気がついた。家の前に立つと上の方から、睨み付けられているような視線を感じる。美奈の部屋だ。
「うぅ……」
息苦しくなり、思わず声が漏れた。洞窟の霊気は祓ったが、やはり離れているこちらの霊気は、全く衰えていないようだ。
「大丈夫ですか? 一ノ瀬さん」
御澄宮司が横へ来て、僕の肩に手を置いた。
「来る前に言うと、不安になると思って言わなかったのですが、昨夜、美奈さんがかなり暴れたようなんですよ。今は動けないようにしてあるので、見ても驚かないようにしてくださいね」
「動けないように……?」
「えぇ。暴れて身体が傷つかないようにする為です」
「……分かりました」
困惑して立ち尽くしている僕の横を、巫女姿の紅凛が通り過ぎて行った。そのままスタスタと歩いて、山里家の玄関の方へ向かっている。
「えっ。紅凛ちゃん? 大丈夫かなぁ……」
「彼女は大丈夫ですよ。こういう現場は、初めてではないですから」
「そうなん、ですね……」
紅凛は全く戸惑う様子はなく、玄関先にいた神社の人と一緒に、家の中へ入って行った。
「さぁ、私たちも行きましょうか」
「はい……」
山里家の中は、物々しい雰囲気が漂っていた。至る所に札が貼られ、お香の甘い香りで頭がくらくらしてくる。
それに、神社の人たちや美奈の両親もいるはずなのに、どうしてこんなに家の中が静まり返っているのだろうか。
昨夜は美奈が暴れたと聞いているし、美奈に憑いている男を警戒しているから、こんなに静かなのかもしれない。
二階へ上がると、美奈の部屋の前に、神職の装束を纏った人たちがいた。全員が、御澄宮司に向かって、すっ、と頭を下げる。
「美奈さんの様子は?」
「今は落ち着いていますが、急に暴れ出しますので、お気をつけください」
「そうか……ありがとう」
真剣な表情の御澄宮司が言うと、報告をしていた男性は、また頭を下げた。
美奈の部屋に入ってすぐの場所には、玉串を持った紅凛が立っている。榊という葉がついた木の枝に、ジグザクに切った白い紙が結びつけられたものが、束になっているので、八歳の紅凛には少し大きいように見えた。
「起きる前に、始めるよ?」
紅凛が小声で言うと、御澄宮司は頷いた。
——すごいな、紅凛ちゃん。堂々としてる……。
ベッドで眠っている美奈のそばまで行き、紅凛は床に片膝をつく。そして玉串を両手で持って目を瞑ると、葉の周りがぼんやりと金色に光り始めた。
——紅凛ちゃんの霊力、前よりもはっきりと視えるな。
これが神無村からこちらに引っ越して来て、訓練を受けた成果なのだろう。
力を使い始めたばかりなのに、もう巫女舞の時と同じような、金色の小さな光の粒が、周囲に舞い始めている。
「うぅう……」
突然うめき声が聞こえて、思わず身構えた。おそらく美奈が唸ったのだと思うが、低くしわがれた老婆のような声だ。
紅凛は静かに立ち上がり、一歩下がる。何かを呟いているようだが、僕のところまでは聞こえなかった。神社などで見かける儀式の時のような、祝詞を唱えているのだろうか。
背筋をピンと伸ばして、玉串を持った紅凛は、まだ幼いのに立派な巫女さんに見える。
その時——。全身の肌が粟立ち、何かに睨み付けられているような気配を感じた。
上に、何かがいる。
そう思ったのと同時に、御澄宮司や神社の人たちが一斉に上を向いた。
「一ノ瀬さん!」
「うわっ!」
ぐいっと腕を引っ張られて、御澄宮司の後ろへまわり、僕がいた場所に目をやると——。
大人の頭ほどの大きさの、黒い塊があった。美奈に憑いていたものと、同じものに視える。
「部屋の中から出られないようにしてあるはずなのに、どうやって出て来たんだ……?」
御澄宮司は札を構えているが、投げない。僕があの男の霊気を祓うのではなく、成仏させてやりたいと言ったせいで、投げられないのだ。
靄が広がり、一部がパックリと割れると目が現れた。一つではない。いくつもの目が、ぎょろりと動く。
——昼間なのに、なんで……?
あれは霊気が強くなる、夜に視た状態だ。夜ほどではないけれど、禍々しい霊気も感じる。
「儀式を始めたせいで、暴走しているのかも知れませんね。やはりまだ一ノ瀬さんを狙っているようなので、気をつけてください」
「き、気をつけるって言っても……」
どうしたら良いのか分からない。僕の後ろには神社の人たちがいて、その後ろには壁がある。逃げ場がない。
バサッ!
乾いた音がして、そちらへ目をやると、紅凛が玉串を左右に振っていた。玉串が揺れる度に、金色の小さな光の粒が、美奈の身体の上に落ちて行く。
また黒い靄の方に視線を向けた。
——あれ? あの靄、こっちを気にしているけど、襲ってこない……?
靄についている目玉は、こちらを見たり、部屋の中を見たり、忙しなく動いている。美奈のことが気になっているのだろう。
御澄宮司も、部屋の中へ顔を向けた。
「あの様子だと、そんなに時間は——」
彼がそう言いかけた瞬間。
「……うぅっ、うあぁああぁああ!」
美奈が叫んだ声に驚いて身体が、びくんと跳ねた。
ドン! ドン! と大きな音を立てながら、彼女はベッドの上で暴れている。
次第に掛け布団がずれて行くと、手首、胴、足首を、白い帯状の布でベッドに縛り付けられているのが分かった。帯状の布には、ところどころに札が貼ってある。白い紙に黒い文字が書いてある札だ。
「あぁあああぁ! や、めっ……!」
——やめ? やめてって言いたいのかな。意識はあるってことか……?