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~第一章 赫いカナリア~ 五話 目覚めたわたしの扉

  ゴトン、ガタンと一定のリズムで走る箱馬車に揺られ、メルティーユはぼうっと街道の光景を眺めていた。紅い硝子玉のような瞳には、自分が知らない外の世界が広がっている。

 絵本や書物の中でしか、触れることの叶わないもの。現実に存在していながら、空想上の産物でしかなかった世界。

 これまでのメルティーユにとって、蔦みどろの館と外界はくっきり分断されていた。壁は容易に越えられない。籠の鳥は飼い殺されるのが宿命だと、受け入れながら生きていた。

 しかし、いざボーダーラインを越えてしまった今、その壁が単なる幻想だと突きつけられた思いだった。あまりにも呆気なく、唐突な屋敷の崩壊。それはメルティ―ユの心に、形容しがたい喪失感をもたらしていた。


「広いんですね……。わたし、森の外を初めて見ました……」

「この街道を抜ければ、王都までは二時間程度だ。監禁生活じゃ、荷馬車も街道も知らねえだろう。南門から堂々と侵入するには、馬車を使うしかない。馭者はオレの仲間だから安心しておけ」

 メルティ―ユの左隣には、レオナルドが片膝を立てて座っていた。メルティ―ユは彼の話を聞きながら、ただじっと通り抜けていく景色を見つめる。頬を撫ぜる風、舞い上がる砂ぼこり、遠くの田園で畑作業に勤しむ、街道沿いの村の人々。


 ――どうしてだろう。わたしはこの景色や小麦の香りを、よく知っている気がする……。


 慎ましく自給自足の生活を送る村人たちを眺めると、メルティーユの胸はざわめいた。暖かな郷愁が込み上げるのと同時に、背筋が震えるほど恐怖を感じる。メルティ―ユは知らぬ間に、ぎゅっと自分の体を抱きしめ身を竦めていた。


「どうした?今更怖気づいても引き返せねえぜ」

 レオナルドが低い声で問いかけると、メルティーユは小さく首を振る。

「いいえ……。なんだかこの景色を見ていると、懐かしい気がするんです」

「まあ、この辺りの風景なんざ、別段珍しくもないけどな。お前のことはドリーから少し聞いている。三つだか四つの頃に、ブラウに引き取られたんだな」

「はい」

 メルティーユは、四歳の頃に蔦みどろの館に保護された。意識の片隅にぼんやりと残っているのは、貧しい村が炎の渦中に呑まれる様子と、悪漢に略奪されて逃げ惑う人々の群れだけだ。

 だからこそ、メルティーユは蔦みどろの館が襲撃された事実を知った時、全身が引きちぎれるほど衝撃を感じたのだ。あの赤い炎を、自分は確かに覚えている。焼け落ちた緑の木々を。朽ち果てた屋敷の残骸と灰の山を。そして、意識の奥で自分の名を呼んでいた、柔らかい誰かの声を――。


「何か、思い出したのか?」

「……いえ、まだです……」

 視線を自身の膝に戻すと、メルティーユは小さく答えた。レオナルドは「そうか」と呟き、ちらっと傍らに視線を移す。ドリーはレオナルドの脇に座ったまま、小さく寝息を立てていた。

 屋敷では隙を全く見せなかったあのメイドのドリーが、すやすや眠る様子を初めて見たメルティ―ユは、ますますこの状態が夢か幻のように感じた。

「ドリーの寝顔、初めて見ました」

「お前はこいつを、魔法複製人形レプリカントだと思っているのか?人間なんだから、睡眠くらいとるだろ」

「あの。……魔法複製人形レプリカントっていったい何ですか?」

 ドリーの首が、ことんとレオナルドの肩にもたれかかった。

レオナルドは眉間に皺を寄せると、不機嫌そうにしながらも彼女の頭はそのままに続けた。

「……お前は本当に、何も知らないんだな……。いや、今更言っても仕方がねえことは分かってるが……。ブラウの野郎のヘンタイ趣味も、大概にして欲しいもんだぜ」

 溜息をつくレオナルドの横で、メルティ―ユは自分の無知を情けなく思いつつも頷く。

魔法複製人形レプリカ・ドールだ。今は魔法複製人形レプリカントと呼ぶのが主流だがな。意味としては同じものを指している」

「魔法複製、人形……」


 その単語を耳にした途端、メルティーユの脳裏に屋敷での記憶がよぎる。

「お屋敷の地下室で、それに関するメモを見つけました。たしか、ポシェットにしまって……」

 豹変したアンナに追い詰められてメルティーユが逃げ込んだのは、ブラウが秘密裏に魔法研究をしていた地下室だった。

「あれ?わたしの、荷物は?」

 館から逃亡したあの時。メルティ―ユは自分のポシェットに、地下室で見つけたメモや、いくつかの魔法石スペルストーンを入れて持ち出したはずだ。しかし、レオナルドは首を振った。


「お前を保護した時には、何も私物は見つからなかった」

「そう、ですか……」

 あのメモ紙にはブラウの魔法研究内容や、蔦みどろの館にまつわる記述があった可能性がある。メルティーユは落胆したが、レオナルドはぽつりと、呟く。

「あの館に火を放った連中が、証拠を残しておくはずねえだろ。性悪ブラウの野郎が、あそこで易々とくたばるはずもねえ」

「えっ?」

「ブラウもお前の命を狙ってきたアンナって奴も、まず間違いなく館を脱出しただろうよ」

「それじゃあ……みんな、無事……?」

 ブラウとアンナは生きている。ナディやペットのエルも、助かったかもしれない。メルティ―ユが密かに安堵していると、レオナルドは眉をひそめた。

「何を安心してやがるんだ?アイツらが生きている以上、また命を狙われる可能性があるんだぞ」

「……それは」

「お前がお花畑思考になっちまったのはあいつらのせいでもあるが、こっから先は温室のように甘ったるい世界じゃねえぜ。お前を待ち受けているのは冷酷な″現実”だ」


 レオナルドは正面を見据えたまま、低い声音で言った。メルティーユは自分の膝を抱えこみ、しょんぼりとうつむく。

 森で遭遇した魔物のみならず、治安の悪化で夜盗も出没するご時世だ、武力闘争も絶えない、と続けるレオナルドは「これからお前が辿り着く場所も、争いの中心地だぜ」と付け加えた。

「この馬車は、王都ラパンに行くんですよね?争いって……?」

 メルティ―ユはおずおずと顔を上げ、レオナルドに尋ねる。ブラウ以外の男性との会話は、まだ緊張が抜けきらない。怯えるメルティーユの態度にやれやれと息を吐くと、レオナルドはぶっきら棒に言った。

「お前は知る由もないだろうが、王都が必ずしも安全とは限らないってことだよ。特に最近はきな臭いし、警戒は怠れねえ。自分の命を守りたいなら、何処にいようとぼーっとすんなよ」

「……は、はい……」

 安全な場所が、ない。

それは、これまで軟禁されていたメルティーユの常識になかった過酷な現実だ。

――お屋敷を出てドリーと一緒に王都に移動すれば、心のどこかで「安全」だと思っていた。しかし、この先の世界を自分の目で確かめろと、レオナルドは言っている。メルティ―ユは小さく身震いし、箱馬車には暫しの間沈黙が訪れた。


「ああ、そうだ。魔法複製人形レプリカントの話だが――……」

 ややあって、レオナルドが唇を微かに開いた。その時だった。


「うわああッ……!?」

「な……っ?」

「きゃあっ」


 突如、箱馬車が激しく揺れた。馬が嘶き、馭者は悲鳴を上げて地面に放り出される。

「クソが、もう追っ手かよ……。相変わらず粘着質だな。“リラ・クランツ”の皆さんよ……。メルティーユ、お前はそこにいろ!!」

「……レオナルドさん……!?」

「お前は先に行け、王都の仲間に報せろ!」

「は、ハイ……!」

 馭者を先に逃がしたレオナルドは箱馬車を飛び出し、待ち構える敵へと挑んでいく。

 事態の呑み込めないメルティ―ユは、青ざめてその場にへたりこむだけだった。呆けている隙に、物音で目覚めたドリーがメルティーユの肩をぎゅっと抱き寄せる。


「ドリー」

「メルティーユ様。動かないで下さい。魔法結界シールドの中にいれば安心です。あなただけは、私たちが守りますから」

 馬車の外では剣撃と、荒々しい怒声が響き始めた。山小屋のある森から移動を始めて僅か数時間――。すっかり気を抜いていたメルティーユにとって、連続の襲撃は衝撃的だった。

「……女神イリアーヌよ……。かの者をお守りください……」

 ドリーが祈りを捧げると、メルティーユの周囲をまばゆい光の壁がくるむ。真珠のように白く、強固な魔法結界だった。


 また、守られているだけだ。わたしはずっと――なにもできていない。

ブラウ様のお屋敷にいる時も。森で獣に遭遇した時も。突然山小屋を襲撃された時も。そして、今も……。


「ここから、動かないで下さいね」

「……ドリー……!」


 ドリーは呼び止めるメルティーユを振り返り、「大丈夫です」と微笑んだ。メイドとして甲斐甲斐しく働いていたドリーが、まさかここまで戦いに慣れていたなんて。メルティ―ユの心は未だ、この現状を消化しきれずにいた。ブラウの傍に常に付き従っていた彼女は、その従順な献身の裏で一体何を考えていたのだろう。

 しかし、思案を巡らせる暇もなく、箱馬車が再び大きく傾いた。


「ひゃあ!?」

 魔法結界の中とはいえ、箱馬車が倒れてしまえば非力な娘に為す術はない。地面へキャリッジごと打ち付けられて、メルティーユの体はたちまち宙へ放り出された。

「……!」

――痛みはない。魔法結界がメルティーユの体をクッションのように包み、

衝撃を吸収していた。しかし、安堵するいとまはなく、

「死ね!!」

 倒れたメルティーユに気づいた一人の刺客が、一瞬の隙をついて距離を詰めると、躊躇いなく剣を振り下ろしたのだ。

「……う……っ?」

 魔法結界シールドに剣先は阻まれているが、それでも尚、刺客の連撃は止まらない。狂ったように雄たけびを上げながら、刺客は幾度も斬撃を浴びせメルティ―ユを追い詰めてくる。その度に強烈な殺気がメルティーユを貫き、心臓が破裂しそうになった。身体的苦痛から護られているとしても、駆け巡る恐怖で全身の血の気が引いていった。


「オイッ、テメー……!どけっ、この――……ッ」

「メルティーユ様……っ?」

 頼みの綱のレオナルドは、剣客三人の相手を一人で引き受けている。ドリーはレオナルドの攻撃補助のため、彼の背後で魔法結界を張りつつ、足止めの妨害魔法を繰り出していた。だが、刺客たちは、魔製道具ソーサラーツールを手首に装着しており、一筋縄ではいかない。多勢に無勢ではレオナルドも防戦一方の様子だ。

 この危機的状況では、二人がメルティーユの元に駆けつける余裕はない。

「暴徒の浅薄な企みを、我が機関リラ・クランツが見破れぬとでも思ったか……!」

「貴様らは、決して王都に侵入させはせぬ。意地汚い地下のドブネズミ共めが!」


 刺客の刀身は、魔製道具の腕輪から生じた炎が層となり纏わりついている。

レオナルドは相手の切っ先を凌ぐが、続けざまにもう一方の剣戟が飛んでくる。赤い火花がレオナルドの鼻先を掠め、フードと長い銀の前髪を焦がした。

 ドリーが魔法結界シールドで援護しているが、防ぎ切れない魔力があの腕輪に込められているようだ。

「チッ、めんどくせえ……。まさかこいつらの手に、魔製道具が渡っているとはな……。これじゃ、まともに刃が通らねえか」


 宗教機関リラ・クランツの刺客は、炎を防壁にしつつ息の合った攻撃でレオナルドを追い詰めていく。二本のレイピアで剣を受けては弾くレオナルドだが、言動からは徐々に余裕が消えていく。双眸に滾る闘志は褪せていないものの、体勢を崩してジリジリ後方へ追い詰められていった。

「……く……」

 ドリーの魔法結界も、時間経過で耐久力と厚みが削られていく。不安定な障壁はレオナルドの周辺で、陽炎のように揺らぎを見せていた。

 ドリーは元々、魔法石スペルストーンに頼って魔法を操るが、魔力の素養をほぼ持たない一般人である。

 ここまでメルティーユの魔法結界シールドとレオナルドの援護に精神力を使い果たし、両の結界を維持する余力が既に尽きてしまっていた。


「ちょこまかと小賢しい女めが。貴様ごときの旧式魔法石スペルストーンで、一体何ができる!?愚かしい貴様から、あの世へと送ってやろう!」

「……あ……っ」

「クソッ、ドリー……!」


 ドリーの体力と精神が限界に達した時、敵の剣先がレオナルドとドリーの間を引き裂いた。咄嗟に片手でドリーを突き飛ばしたレオナルドの判断で直撃は逃れたが、ドリーは地面に打ちつけられてその場から動けない。


「テメェ……ッ、そこを退けっつってんだろーがァ……ッ」

 レオナルドはドリーに近づこうとするが、片手剣を一本弾かれた状態に追いやられ、相手の猛追を辛うじて交わしている状態だ。


 彼の身のこなしをもってしても、相手に決定打を与えられない。それどころか、弾き飛ばされたレイピアの内一本は地に突き刺さり、レオナルドの攻撃力は大幅に半減していた。メルティーユの瞳には、命がけで自分を守ろうとするレオナルドの背中と、力なく横たわるドリーの姿が映る。


――絶対絶命。


「…………、ドリー……!」

「……メルティーユ……さま……」

「ほう……あの術者の女。力尽きたというのに、まだ魔法結界シールドを維持しようとしているのか。なんともしぶとい奴だ。仮に生命力を削ったとて、長くは持たないだろうに。サァ、結界はもうじきに破れるぞ。これでお前はお仕舞いだ。非力で脆弱な温室育ちのお嬢ちゃん……!我が機関の崇高な使命のために――大人しく、死ね――……ッ!」

 とうとう、メルティーユを包む真珠のような結界に、限界の瞬間が訪れた。


「……いやっ、やめてえぇっ……!!」

 今度こそ、殺される。最後の一振りが頭上目がけて下りてきた刹那、メルティーユは身を縮めて叫び声をあげた。

 視界の端に映るのは、倒れ込んだドリーと今なお戦闘中のレオナルド。二人が命がけで闘っている最中、恐怖に怯えて身動きすらできない自分への苛立ちと絶望が募ったとき――彼女の胸の奥から、記憶にはないはずの言葉と熱い魔力が湧き上がってきた。それはメルティーユの体を真紅のベールで覆い、相手の剣の切っ先を包み隠す。先程ドリーが魔法石スペルストーンで張った魔法結界とは明らかに性質が違っていた。

 その光は面紗のように薄い光でありながら、刺客の目には底知れない堅牢さを誇る障壁に映っている。

「えっ……?」

「なんだと……っ、この光は――……剣が、通らない……!?」

 刺客の剣は、メルティーユの胸かららせん状に放出されたそのベールに防がれて、振り下ろそうとしても引き抜こうとしてもビクともしなかった。

 だが、眼前で硬直した刺客と放たれる真紅の光を見比べ、一番戸惑っているのはメルティーユ張本人だ。


「ハッ……上等じゃねえか、メルティーユ!……てこずらせやがって……。くたばれ、クソ野郎が……ッ!」

「ぐは……ッ」

「……レオナルドさん……っ」


 メルティ―ユが時間を稼いでいる間に、レオナルドが二人の刺客を仕留めて彼女の元へ駆けつけた。ベールに包まれた矛先に気を取られ、背後から一突きを繰り出すレオナルドの存在に、反応できなかったのだろう。

 レオナルドの剣は刺客の脇腹を的確に貫き、刺客は低い呻き声を上げた後、その場にばたりと崩れ落ちた。


「はぁ……はぁ……。わ、わたし……。今の、どうし、て……」

「おい、メルティーユ!」

 それと、同時に、メルティーユから放出される紅のベールもふわりと霧散し、力を使い果たしたメルティーユも、意識を手放したのだった。

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