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~第一章 赫いカナリア~ 第六話 レゾンデートル

 わたしには、特別な力なんてないと思っていた。お屋敷でブラウ様とドリーに守られながら、アンナやナディ、エルと生活する日々は安寧と退屈に満ちている。快適な一人部屋と綺麗なドレスが与えられ、毎日ドリーの作る美味しい食事が食べられる。最低限の教育と知識を授けられ、ブラウ様に管理された日常を繰り返し、穏やかにこなしていく。息が詰まるほど完璧で美しく、そして不自由な箱庭――それが、わたしの全てだった。

 それ以上も、それ以下の世界も知らない。いつかお屋敷を旅立つ日を夢みていても、それは遠くて現実感のない空想だった。


 わたしはきっと、ずっと籠の鳥のまま――。


 でも。本当はいつからか、心の奥で誰かがわたしを呼ぶ声を、知っていた気がしている。たった今、わたしはその声を思い出したから。記憶の奥底に封印された、大好きな人の記憶こえ


「お姉ちゃん……」


 一度解放された記憶は、メルティーユの内側で猛獣のように暴れ回った。どうして、どうして。……こんなに大切なことを、忘れてしまっていたんだろう。赤い炎に呑まれていったのは、故郷の人たちだけじゃなかった。わたしは絶対に忘れてはいけない「本当の家族」を、跡形なく自分から消し去ってしまったんだ。

 だって、蔦みどろの館にいる間は、何も考えなくて良かったから。あたたかい家がある。アンナやナディ、同じ境遇の仲間がいる。失った何かを取り戻すより、お屋敷の生活を続ければ安心だって……心の底では逃げ道を探していた。――きっと、わたしは自分自身に、目隠しをしただけだった。



 意識を手放したメルティーユは、小さな村落の空き家にレオナルドとドリーの手によって匿われていた。額には大粒の汗が浮かび、血色の悪い肌には白く細い横髪が貼りついている。

「村の連中には話をつけてきた。ここは一晩、貸してくれるってよ。ま、金で解決しただけだが。ここの連中も食うに困って必死だからな。で、メルティーユ《ガキ》の調子はどうだ?」

「まだ、魘されていらっしゃいます。元々お屋敷にいらした時から、それほど頑丈な方ではありませんでしたが……。熱も下がらないようですし、もしかしたら、記憶が蘇った後遺症なのかもしれません。それに……」


 ドリーが目を伏せて言い淀むと、レオナルドは寝台のメルティーユを一瞥して、口を開いた。

「例のアレか」

「……はい……。メルティーユ様の魔力が解き離れたということは、封印された″兆し″が、発現なされたのでしょう……。その副反応で、おそらくは……」

「チッ、どこまでも悪趣味な野郎だ」

 レオナルドの舌打ちに対し、ドリーは唇を結び俯いた。


 兆しについて、ブラウは「魔法を操る才覚を持つ者に現れる福音」だと語っている。

しかし、ナディが直面したように、アンナはその″兆し″により強大な魔力を得て、自我が崩壊するほどの対価を払っていた。


「そいつの件は、メルティーユには話したのか?」

「いいえ。メルティーユ様は、何もご存知ありません……。アンナ様のことはとくに厳重に、ブラウ様が管理しておられましたし」

「フン……。どうだか。軟禁されていたとはいえ、一度も外部に情報が洩れなかったとは考えられねえだろ。あのクソ館を焼却したのも――……」


「う……っ」

 二人が話し始めて数十分。メルティーユは朦朧とする意識の中、堰を切って溢れた自分の記憶と、懸命に闘い続けていた。



 夢の中で、メルティーユは過去を眺めていた。

彼女が生まれたのは、ミラディアの辺境にある貧しい農村。隣国・ラギオンとの国境付近にあったこの村は常に両国の紛争に巻き込まれ、とくに情勢が悪化した十四年前には戦時中だった。

 追い剥ぎの略奪に夜盗の襲撃、長引く食糧難と作物の不作。物資も食料も不足する中、村は半壊状態に陥っていた。

 若者が徴兵され、女子供と老人ばかりが取り残された村内に活気はない。衰弱した村人の多くは命を落とし、メルティーユの母親も流行り病を拗らせて肺炎を発症していた。

 流行中の病は充分な栄養と休養を摂り、衛生管理が行き届いた環境ならば死者が出るほどのものではないが、当時は戦時中という状況だ。貧困の村に医者はおらず、人々は栄養失調でみな痩せ細っている。仮に医者がいたとしても、貧しい村人にまともな治療を受けられる金銭はなかった。

 度重なる紛争で心身共に疲弊した彼らには、一滴の生命力すら残っていない。みな一様に諦めたような虚ろな眼差しをして、静かに死を待ち望むのみとなった。


「おかーさん、お水飲む?メル、汲んでくるね」

「すまないねえ、メルティーユ……」

「ううん、だいじょうぶ。すぐ行ってくるから、待っててね」


 その日。四歳のメルティーユは病床の母親のため、村の広場にある井戸まで、水汲みに向かった。小さな体に桶を抱きしめ、急ぎ足で家を飛び出す。

 大半の村人が流行り病と暴漢を怖れ、昼夜問わず引き籠っている状態だ。村が壊滅する絶望が、既に目前に迫っていたとしても――幼いメルティーユはひたすら無知で、純真無垢な子供だった。

 母の病がいつか快癒すると信じ、徴兵された父親が帰宅する日を今か今かと心待ちにしていたのだ。

 大丈夫よ、メル。いつか家族四人揃って平和に暮らせる日がくるわ。お父さんは王都に仕事に行っているの。とても大切なお役目よ。それから、あなたのお姉さんのサラも……。今は出稼ぎに出ているから会えないけれど、きっと大丈夫。私たちは家族だもの。この戦争が終わったら、みんなずっと、ずうっと一緒にいられるからね。……信じましょう。きっと女神イリアーヌが、私達を守って下さるわ。


 母が娘についた残酷な嘘は、メルティーユの希望になった。大好きな家族が四人揃って豊かな暮らしを送ること――その日をただ夢見れば、毎日小麦の殻と野菜の根を齧る生活を、堪え抜くことができるのだから。

「早く、お父さん帰ってこないかな。おねーちゃんは、元気かなあ……」 

 メルティーユが覚えているのは、父親と姉のおぼろげな記憶だけだった。

父と姉が家を出たのは一年前。メルティーユが四歳を迎える年だ。甘えたい盛りでもあり、家族に溺愛されて成長したメルティーユは愛嬌のある娘に育った。特に姉にはよく懐いて、いつもその後ろをついて回っていた。


 ――あの日は、木枯らしが吹く肌寒い夕暮れだった。


「サラおねーちゃん、まってぇー……」

「メル、転ばないように気を付けて。ゆっくりおいで」


 サラは母親に頼まれたおつかいの荷物を両腕に抱えている。近くの市で僅かな小麦とヤギの乳、野菜を買って帰宅するところだった。その後ろを懸命に追いかけるのは、襟足までの長さに髪を切りそろえた妹のメルティーユだ。

「メルもてつだう!」

「大丈夫よ、メルにはまだ重いもの」

「へーきだもん!メルもおてつだいできるもん」

「いいの。メルがもう少し大きくなったら手を貸してもらうからね」

「それっていつ?おかーさんとおねーちゃん、いつもたいへんそう。お父さんはかえってこないし……。メルがおおきくなれば、みんないっしょにいられるの?」

「メルティーユ……」

 サラはメルティーユに紙袋から取り出したトウモロコシを二本預けると「これは私とメルの分よ。運ぶお手伝いをしてね」と言い、優しく微笑んだ。

「……うんっ!」

 姉から手渡されたトウモロコシを胸に抱え、満面の笑みを浮かべるメルティーユ。サラは妹の無邪気な笑顔を見守りながら、隣をゆっくりと歩いた。二人は年齢が十一離れているが、これはメルティーユの母ミリアが再婚をしたためだ。


 サラが生まれた十一年前、ミリアは元夫の悪癖に悩まされていた。酒に酔うと暴れて手が付けられず、気に食わないことがあればミリアや村人に当たり散らす。村の牛飼いに雇われて家畜の世話をしていたが、泥酔して牛を怒らせ、家畜小屋で脚に怪我を負ってからというもの、めっきり仕事をしなくなった。      夫のせいでミリアはいつも肩身が狭く内職で生計を立てていたが、サラを妊娠したことを機に「産まれてくる子供のために働いて欲しい」と頭を下げた。

 しかし、野獣のような男は既に妻への愛情はなく「俺に指図するな」とミリアに手を挙げたのだった。 

 ――私だけならいざ知らず、このままではお腹の子どもが危ない。

危険を感じたミリアは、元夫から離れる決意をした。

 頼る当てはなかったが、事情を知る村人はミリアに同情しており、その中でも彼女に一際親切な若者がいた。

 村の北東で細々と農家を営むこの若者は身重のミリアを不憫に思い、匿うと申し出たのだ。行く当てがないミリアは彼の好意に縋るより他になく、同居生活を始めた。若者の名はハンスといい、後にメルティーユの父となる人物だ。

 ハンスは年老いた病弱な母親と二人暮らしで、ミリアは姑の面倒を看ながら献身的に家族を支えた。

 こうして、ハンスのおかげで無事に娘を出産できたミリアだったが、相変わらず困窮した生活は続いた。ハンスの母親の薬代も払えず、懸命な看病虚しく彼女が他界した後は、ミリアもハンスの仕事を手伝ったり、昼夜問わず内職をしながら子育てに専念した。

 サラは母の苦労を重々承知していたので、妹のメルティーユにはなるべく辛い思いはさせたくないと思っていた。自分より十以上歳下の妹は、まだ世界の厳しさや争いの醜さを知らない純朴な子供だ。

 僅かばかりのヤギの乳とトウモロコシでご機嫌になり、日が暮れるまで原っぱで花を摘んだり、蝶々を探して遊び回っている。

 些細なことで良く笑い、顔を真っ赤にして喜びを表現するメルティーユ。夜は硬い寝台の上で姉のサラにくっついて眠り「あったかい」と無邪気に甘える彼女こそ、家族にとっての太陽だった。

「私、どんなことがあってもメルには幸せになってほしいの。美味しいものをいっぱい食べて大きくなって、平凡だけどあったかい家庭を築いてほしい――……。そして叶うなら、この村以上に広い世界に出てほしいって思ってる」

「おねーちゃんは?おねーちゃんも、メルと幸せになるんでしょ?」

「ふふっ、うん。そうだね、メルとお母さんとお父さん、皆で幸せにならなくちゃ!」

 とくにサラにとって、メルティーユは大切な宝物になった。彼女は幼くして貧困の村の現実を痛感し、自分の未来に絶望を感じていた。

 ――どうして、こんな場所に生まれてしまったんだろう。いつまでこんなひもじい思いをしなくちゃいけないんだろう。国の王様は、私達のために何もしてくれないのに、私達は国の偉い人たちに従うしかないんだってお母さんは言っていた。戦争が始まったらもっと生活が苦しくなるってみんな言うけど、いつまでたっても苦しむことしかできないのなら、私達はこの先何を夢見て今を生きて行けばいいの……。


 成長していくにつれ、サラは貧寒な日常に心身を蝕まれていった。諦めと失望。不変に続く困窮。荒んだ環境は清い少女の心を覆い、やがて感情を奪っていった。

 そんなサラが息を吹き返したのは、メルティーユが誕生した時だ。サラは十一歳になっていた。

「メル、見える?あなたのお姉ちゃんよ。サラ、メルを抱っこしてあげて」

「え……っ、私が?」

「そうよ、ほら見て。メルもサラをじっと見ているわ」

 母親の腕に抱かれたメルティーユは、潤んだ瞳でサラを見上げていた。香しい薔薇のような瞳。ふっくらと膨らんだ白い頬。やせ細った自分と異なり生命力に溢れた産声は力強く、生まれたばかりの命の輝きにサラの心は動揺した。

「大丈夫だよ、サラ。僕も見ているから」 

 両親が見守る中、サラは恐る恐るメルティーユを抱き上げた。命の重さを肌で体感し、自分に全てを委ねる妹の存在に得体のしれない高揚感を感じた。


 この子の命は今、私に委ねられている。

それは、生きる喜びを見失っていたサラにとって、全身を突き上げるほど狂おしい、歓喜の始まりでもあった。

 メルティーユに愛情を注ぐ「姉」という役割を得たことで、サラは自分の存在理由を見出すことができた。この先の未来や生活に期待できずとも、守るべきものがあれば生きる価値が与えられていると信じられた。

 こうして、サラはメルを目に入れても痛くないほど可愛がり、体の弱いメリアに代わって世話を焼くようになっていった。


「ただいまー」

「おかえりなさい。お使いありがとう、二人とも」

 買い物を終えて姉妹が帰宅すると、母メリアは起き上がって編み物をしていた。二人のために、新しい揃いの上着を繕っているのだ。

「お母さん、いつもの籠に野菜を入れておくね。それからお鍋も洗っちゃう」

「ご苦労様、サラ。いつも助かっているわ」

「ううん、いいの。体調はどう?」

「今日は調子がいいわ。久しぶりにヤマイモとトウモロコシのシチューでも作りましょうね」

「やったー、ごちそうだー!」

 母の言葉を聞いたメルティーユは大喜びだ。トウモロコシを台所に置き、揺り椅子の母にぴょんと飛びつく。

「ふふっ、メルはいつも元気ね。たまには美味しいものを食べて、栄養をつけなくちゃ……。あなたとサラには、健康に育ってほしいもの」

「お母さん……」

 サラは眉を下げ、寂しそうに母を見つめた。

年々メリアが衰弱していることはサラの目にも明らかで、父が一年前に徴兵された頃から特に病状が悪化している。


 ――お母さんの助けになりたい。メルティーユとの生活を守りたい。お父さんが戻ってくるまで、私が支えていかなくちゃ。


 サラは密かに、自分に誓いを立てていた。家族を守る為ならば、自分を犠牲にすることもいとわない。そして、サラの固い決意は、彼女も予想だにしなかった形で唐突に現実となった。


「ごちそうさまでしたー」

「ご馳走様」

「おいしかったぁ、またシチューがいいなあ」

「ふふ、その内ね。待っていてちょうだい」


 大好物のシチューを平らげたメルティーユはご機嫌で、母親の揺り椅子の傍を離れなかった。サラは後片付けをしながら、仲睦まじい母娘の様子を見守っている。早めの夕食を終えて、時刻は夜の七時過ぎ。村人の多くはこの時刻になると表を殆ど出歩かない。しんと静まり返った村内には虫の音だけが響いていた。

 やがて、台所の掃除を済ませたサラが、縫い目だらけのシーツと薄い毛布を整えている時。表から足音が近いてくる気配がした。

「こんな時間に誰?」

 窓からこっそり外を覗いてみると、それは見知らぬ男性二人組だった。この村の住民ではない。二人とも身なりが良く、スーツと蝶ネクタイを身に付けた紳士である。裕福な身分の人物だと一目で分かった。

「お母さん……」

「まあ、どなたかしらね」

 不安そうに振り返るサラに気づいた母は、メルティーユをそっと引き剥がすと椅子を立ち上がった。

「御免ください」

 こんこんとノック音が響くと、母は開扉して男たちに問いかけた。

「何の御用でしょうか?あの件でしたら、お断りした筈ですが……」


 サラは母の対応に違和感を覚えると同時に、下卑た視線を自分に送る男二人に、強い嫌悪を感じた。何かあった時のためにと、後ろ手には包丁を握りしめている。当然、メルティーユは何が起きているのか知る由もなく、きょとんと母の後ろ姿を見つめていた。

「旦那様は、ひどくそちらの娘さんをお気に召したご様子で……。良いご条件ですよ」

「やれやれ……。このような貧しい村出身の薄汚い娘が、旦那様にお仕えできるだけでも畏れ多いというのに……。我々の温情に、感謝していただきたいものですねえ」


 ――それは、女中奉公の打診だった。

サラは瞬時に、自分が目を付けられていると悟った。メリアは男を追い返そうとしているが、サラの胸はざわめいていた。動悸が収まらない。全身が心臓になったかのように波打っている。


 恐らく母は、娘を売り飛ばす訳にいかないと、これまでひた隠しにしていたのだろう。私とメルティーユを守るために……。お父さんは出て行った。国の命で戦争に行っているから。いつ戻ってくるかなんて、誰にも分らない。でも、私が働けばお母さんを守れるかもしれない。メルを幸せにできるかもしれない。もっといい生活をさせてあげたい。シチューを満腹になるまでご馳走してあげたい。


 サラは震える手で、包丁をまな板に戻した。


「お母さん……」

「サラ……!」


 メリアは、サラの笑顔を見た途端、娘の悲壮な決意の全てを悟ったのだった。



 ――サラが奉公に出て、三ヶ月が過ぎた。メルティーユは姉が仕事に行ったことを母から聞かされたが、すぐに帰ってくるものと信じて待ち続けている。


 サラの奉公先は、王都ラパンから目と鼻の先の貿易街・エディールだった。魔製道具ソーサラーツール魔法石スペルストーンなどの取引が盛んで、魔術師のための訓練施設や専門機関も存在している。

 この街では貧しい村々から下働きする女性を雇うことは、珍しくない話だった。主に雇い主の欲望や嗜好により対象は選別され、若い娘が好まれる傾向がある。とくにサラは、母親譲りのブロンドと新緑の瞳が印象的な少女で、痩せてはいたがくっきりとした顔立ちと華やかなムードが人目を引いたのだろう。

 しかし、いわゆる下女に大した金銭は支給されない。家族のため、生活のために奉公に出たとしても、奉公先では過酷な環境で満足な対価も得られず、奴隷の如く扱われるケースが大半だ。


 家族が分断されて、数か月。とうとう、メルティーユの狭い世界を一変させる凄惨な事件が起きる。

――夜盗の襲撃だ。

「歯向かう奴は全員殺せッ、殺せェッ!!」

「ギャハハハッ!」

「うわああっ、逃げろっ、逃げろぉー……」

「しゅっ、襲撃だ……!」

「え?なに……?」 


 村の入り口から絶叫が聞こえたかと思えば、次から次へと人々が顔面蒼白で逃げてくる。メルティーユは村の中心の井戸で水を汲んでおり、この事態を呑み込めていなかった。


 侵略はメルティーユが呆気に取られている間に着々と進んでいった。家屋には火が放たれ、立ち向かおうとした村人は為す術なく殺される。

 貧困にあえぐ村には殆ど金目の物は残っていないが、僅かな食糧から家畜、果ては女子供まで――奴等は奪える物の全てを、根こそぎ略奪していった。


「あ……っ」

「死ねェッ!!」

「ギャアァ……?」


 目の前で血飛沫を上げて倒れる村人を目撃した時、メルティーユの両腕から、桶がごろんと転がり落ちた。


――逃げなきゃ。逃げなきゃ。逃げなきゃ。はやく、はやく、はやく。


 頭に響く言葉は命の危険を報せる警笛。ただそれだけだ。

幸いにも井戸の後ろに咄嗟に隠れたメルティーユは難を逃れたが、焼け落ちた家屋の残骸と煙、そこここに倒れた村人の死体と血だまりが、彼女の足を鈍らせる。


「お、おかあさん……」


 村はずれにある自宅を目指し、震える足をもたつかせて一歩ずつ進んで行くメルティーユ。

「ゴホッ、ごほ……っ」

 立ち上る硝煙で、目の前が見えない。火薬の臭いに咽せつつ身を潜めて歩いていくが、いつの間にか襲撃者の気配は近辺から消えていた。それどころか、生きている村人にも遭遇しない。

――本当に、みんな死んじゃったの……?

 大粒の冷や汗が額と背中を伝う。バクバクと心臓が暴れる。それでもメルティーユを動かす原動力は、母親の元へ帰りたいと願うその一心のみだった。



 白煙の向こうに、炎に包まれている我が家が見えた。誰か、助けて。中にはお母さんがいるの。大声で叫びたいのに、喉が潰れて声にならなかった。地面に倒れているのは既に力尽きた老人や、重症を負った村人だけだ。何人かすれ違った人たちは我先にと逃亡している。ここにはもう、起き上がる気力のある人間は残っていなかった。

 メルティーユは、全力で走る。肺が苦しい。足が痛い。それでも、母親を助けられるのは自分しかいないのだ。


「おかあさん……っ」


 メルティーユが煤塗れになって家に帰ると、既に室内には炎が広がり始めていた。――母は寝台にいる。メルティーユが水を汲みに出かけた朝のまま、その場を動いた形跡はなかった。


「おかあさん、早く逃げよう!このままじゃ、わたしたちも……ごほっ、ごほ……っ」

「いいえ、私は行けない……。だから、メルティーユ。あなただけでも、早く逃げて……」 

「そんな……っ。おかあさんをおいていけないもん……!」


 燃え盛る家の中で、寝台の傍に膝をついたメルティーユは母の手を握りしめた。しかし、母・ミリアは小さく首を振り、娘の手を毅然と振り払った。

「メル。お願いだから、お母さんの言うことを聞きなさい。……逃げるのよ」

「いやだっ!わたしもここにいる……。おかあさんといっしょにいる……っ」


 粉塵に塗れ、喉と肺を焼く熱風に煽られながら、メルティーユは母に縋りついた。その間も家屋は次々と焼け落ち、炎は勢いを増していく。

「ゴホッ、ゴホッ……おかあ、さ……」

 ついに入口の扉も崩れ落ち、瓦礫と焔に囲まれた二人に逃げ場はなくなっていた。


 ――苦しい。息ができないよ、くるしい、このまま、わたし死ぬの……?


 死が頭によぎったとき、メルティーユは母に縋りついた。


「だいじょうぶ。わたしがいっしょにいるからね……。さいごに、おねーちゃんにもあいたかったけど……ぶじでいてくれたら、いいな……」

「メル――……」

 母が、何かを言っている。しかし、メルティーユの意識は朦朧としており、聞き取ることができなかった。――しかし、その時。

「だ、だれ……?」

 瓦礫を踏み分けて接近してきた複数の足音が、メルティーユの意識をゆさぶった。

「ブラウ様。この少女が、ですか?」

「ああ、例の娘だ。……急いで連れて行け」

「かしこまりました」

 近づいてきた人影は一言、二言会話を交わした後、メルティーユの腕を掴み上げ無理やり引っ張り上げた。

「来なさい」

「……っ、やめて……。わたし、おかーさんと、いっしょにいるの……。おねーちゃんとおとうさんを、待つんだから……うぅ……っ」

 煙を吸い込んだ上、心身共に衰弱しきったミルティーユに抵抗する力は残っていなかった。ローブの男に腕に抱きかかえられると、強烈な睡魔に襲われ瞼が閉ざされてゆく。


「ブラウ様、この母親はいかがいたしましょう?」

「始末しておけ。どの道この状況では長くはないが、念の為だ。計画に禍根を残すな。この娘は先に馬車に運んでおく」 

「はい」

「……っ、おかあ、さ……」


 しまつ、しまつって……?やめて、おかーさんには……なにもしないで……。


 頭が重い。目の前が真っ白になる。メルティーユが最後に見た光景は、閉じていく視界の向こうで母親に手を伸ばそうとする、白装飾の男の背中だけだった。



「いやぁ……っ、お母さん……!」

「メルティーユ様!」

「やっと気づいたのか」

「あ……。ここは……。わたし……どうして……」


 メルティーユが目覚めた時。視界には燃え盛る故郷ではなく、見知らぬ小屋の天井が映っていた。夢と現実の境目で彷徨う思考は定まらず、心臓だけが早鐘を打っている。どうして、こんな大切なことを全部忘れていたの。あの時お母さんを殺したのは、ブラウ様だったのに。お姉ちゃんのことを忘れて、一番肝心な記憶を失って――これまで十四年間も、お母さんのかたきの屋敷で生活していたなんて。メルティーユにとって、記憶の回復はより衝撃的で残酷な真実を突きつけるものだった。

 震える手を握りしめ、ベッドサイドのドリーとレオナルドに視線を移す。

「ドリー……。わたし……」

「魘されていましたね。何度もお母様のことを、呼んでいらっしゃいました……」

「……少しだけ、思い出したの……」


 ドリーは「そうですか……」とだけ呟くと、メルティーユの細い肩口をそっと抱きしめる。

――お屋敷に居た時にドリーのぬくもりを懐かしく感じていたのは、きっとお姉ちゃんに似ていたからだ。

 メルティーユはそんなことを感じつつ、ドリーの背中をぎゅっと抱きしめ返したのだった。

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