漆黒の絹糸のように艶やかな髪と、新月の夜のように黒い瞳。闇を凝縮させたようなその“黒色”がいたく気に入ったと、ブラウはアンナに語って聞かせた。
幼いアンナは、ブラウが自分を褒める理由を、正しく理解していなかった。しかし、貧困の村で“異民”と蔑まれ、下女として生きる少女にとっては、彼の言葉が最初で最後の、闇を照らす光だったのは間違いないだろう。
「アンナ。今日からここが、お前の家だ」
「……」
荘厳な正装に身を包んだ
「何か食べたい物はあるか?」
「……」
館の食堂に通すと、まともな食事を摂っていないアンナを心配したブラウは、まず彼女に昼食を与えた。
当時ブラウに女中はいなかったが、身の回りの世話をする付き人者が複数いたため、家事全般に不自由はしていない。
テーブルの前でブラウに椅子を引かれ「どうぞ」と囁かれると、アンナは黒い瞳を窄め、戸惑いがちにブラウを見上げて言った。
「なんで、アタシ……」
「ん?」
「……いすにすわったら、怒られる、アタシ。みぶんちがい、だから……」
「……怒ったりはしないよ。ここはお前の元の主人の家じゃない。私の家だ。そして今日からお前は、私の家族だ」
「……え……」
「さあ、お腹が空いているだろう。一緒に食事をしようか、アンナ」
「……」
ブラウが正面に腰を下ろすと、アンナはおずおずと椅子に座った。テーブルには清潔な食器の上に盛り付けられた美味しそうなパンとスープが並び、透き通ったグラスに並々とフルーツジュースが注がれていた。いずれも、アンナがこれまで口にしたことのないほどのご馳走だった。
「では、いただきます。……ほら、アンナも」
ブラウが指示をするとアンナはびくっと肩を揺らし、消え入りそうな声で「いただきます」と呟いた。次いでブラウはグラスを掲げ、アンナの前に差し出して乾杯しようと告げる。
少女は震える手でギュッとグラスを握りしめた。
――これは、夢?しあわせな、夢?
ご主人さまに殴られた日、お腹を空かせて牛小屋の隅っこで寝ていた夜に良く見ていた、アタシの幻想?
だって、こんなことが本当に起こるはずない。あたたかい屋根のある家で眠れて、自分の部屋があって。食堂のテーブルには自分の席を用意して貰えて、美味しいご飯までもらえる……。
「乾杯」
「……かんぱい……」
ブラウは微笑みを浮かべ、アンナのグラスにかちりと自分のグラスの縁をぶつけた。少女はこの日、初めて「乾杯」の音を知った。耳の奥に残った透き通るあの硝子の音を、生涯忘れないと誓った。
◇
アンナは極貧の村に生まれ、下女以外の生き方を知らなかった。下女はミラディアの小さな町のそこそこ裕福な家の主人に金で買われ、家事全般や家畜の世話、雑事などを命じられる。
待遇は愛玩動物以下で、アンナには未だわずかばかりの食料や水、寝床――家畜小屋の藁の上――が与えられたが、雇い主によっては寝所も食べ物も与えられず、野垂れ死ぬまで働かされる場合もある。
富裕層の一部は、下女や奴隷を金で買う道具としか見ておらず「使い潰す」「買い替える」のが当たり前と思っている節すらあった。
メルティーユの姉のサラに下働きの打診があったように、貧しい村では取り立てて珍しい話ではないのが、この国の現状だ。
「しごとは……ないの?」
「どうした、アンナ?」
「だって、アタシ、ドレイでしょ?ドレイはきたならしい、生きているだけでつみだから、しぬまではたらけ……って、まえの主人は、そういってた……」
「アンナ……」
アンナが蔦みどろの館でブラウと同居してから数日。アンナは屋敷で自由に過ごす許可を与えられた。
また、ブラウの付き人から文字書きの指導を受け、新しい洋服や靴を買い与えられ、更には生涯持つことはないと思っていた、ぬいぐるみや人形といった憧れの
――アンナにしてみれば、まさに天から降って湧いたような幸運。喜びよりも戸惑いが上回り、感情が追い付いていなかった。
「アンナ、今のお前の主人は私だ。お前はもう、働かなくていいんだよ」
「だって、じゃあ、しごとは……?しごとのために、アタシを、買ったんでしょ?」
早朝から動物小屋の清掃と餌やりを済ませた後は、町の市まで出向いて買い物をする。そして屋敷の隅々まで掃除を行い、それが終わったら次の日の餌やりの準備と畑の世話。これがアンナが一日でするべき“仕事”だった。その間に、主人から呼びつけられて叱られたり手を挙げられる日もしょっちゅうある。
時には泥酔した来客の相手をさせられたり、見世物同然の辱めを受けたり、泣きながらトウモロコシの殻を齧った夜もあった。当然、熱を出して体調を崩していても関係がない。下女に人権はなく、使い物にならなくなれば捨てられる――それが、アンナが知る「主人と下女」の関係だった。
それなのに。なんでこの人はアタシにここまでするの?欲しい物を何でも買ってくれて、家族だなんて言って。アタシの本当の“家族”は、アタシをお金で売ったのに……。
子供らしい喜びと笑顔を知らないアンナは、ただ虚ろな瞳で疑問をブラウに投げかけた。ブラウはアンナを静かに見つめ、手を伸ばして頭を撫でる。柔らかく、壊れ物に触れるかのように繊細な手つきだった。アンナはぴくっと肩を跳ねさせ、目を丸くして驚いている。
これまで誰かがアンナに触れようとするときは、危害を加える時だけだった。頭を叩かれるか、顔を殴られるのか。それとも腹か背中を蹴られるか――下卑た欲望の捌け口にされるのか。
どんな風に傷つけられるか、アンナは主人や来客たちの顔つきで瞬時に想像できるようになった。予め身構えておけば、苦痛を和らげることができる。どれほど辛く苦しい体罰も、朝がくれば終わると思えば耐えられた。自分の感覚の全てを閉じて生きる術を、アンナは齢五歳にして身に付けている。その代償として正常な“心”を失ってしまったのだ。
だが、ブラウだけはこれまでの主人のように、アンナを傷つけたりはしなかった。彼の手の温もりはいつも優しく、アンナの髪と頬を撫で、抱きしめるためにある。その声はアンナを怒鳴りそしるためではなく、あたたかく迎え入れ、包むために存在していたのだ。
生まれて初めて手に入れた居場所と新しい家族と共に、アンナは元下女とは思えぬほど美しく、可憐な成長を遂げていった。花のような笑顔と持ち前の高い知性であらゆる学問を身に付けた彼女は、ブラウに認められ、愛されることこそ誇りであり、自分の使命だと感じるようになっていく。
――すぐ背後から一歩ずつ忍び寄る、真の悲劇の足音に気づかないまま。