――かちゃかちゃと、カップとソーサーがぶつかり合う小気味いい音で目が覚めた。
アンナはブラウの部屋の寝台で伸びをすると、もぞもぞと毛布から這い出る。ブラウはポットから二人分のハーブティーを注ぐと、続いて戸棚からシュガーポッドを取り出してテーブルへと並べた。
アンナはブラウが自分のために用意してくれる、このモーニングティーが大好きだった。甘い角砂糖を三つ、シュガーポッドからスプーンで掬い上げ、ころころ転がしながら紅茶をかき回す。
あの瞬間の胸のときめきといったら、アンナの人生で史上トップ十に入るほど、幸福なものである。
他人には大げさに聞こえるだろうが、しがない下女だったアンナにとって、主人が手ずからお茶を淹れてくれるだけでも夢のような話なのだ。
「ブラウ様、おはよう!」
「アンナ、おはよう。おいで、今朝のハーブティーの味は格別だよ。なんせ、今朝花壇で摘み取ってきたばかりだからね」
「ホント?アタシ、この紅茶大好きなんだ。なんだかホッとするの。なんて言ったっけ……?あのハーブ……えっと……」
アンナが首を傾げながらテーブルに着くと、ブラウは穏やかに微笑んだまま「寝間着が乱れているよ」と告げた。アンナは瞬時に耳を薄桃色に染め、もじもじとネグリジェの裾の皺を伸ばして俯く。レースの刺繍と胸元のリボンが愛らしい真紅の寝間着は、アンナに良く似合っていた。
ブラウは、アンナが年相応の恥じらいを得たことを喜ばしく思い、彼女の保護者として常に目をかけ続けた。彼の計画は完璧で幸福な“家族ごっご”の合間に、着々と進行しているのである。
「これはホライズの蕾だ。紫色の丸い蕾が特徴的でね、甘い砂糖菓子のような香りがするんだ。ドライハーブにして料理や紅茶にすれば、独特の酸味と甘みを楽しめる」
「そう!アタシ、ブラウ様の淹れてくれたこの紅茶がないと朝が来た感じがしないの」
ホライズは沈静効果のある薬草で、ブラウが薬品作りに用いる植物の一つだった。アンナに毎朝用意しているのは、彼女の精神を安定させて発作を抑える目的のため。しかし、アンナ本人は、ブラウの真意を知る由もない。主人から「お前の為に淹れたハーブティーだ」と説明を受ければ、それ以上の理由がいらないからだった。
朝食は食堂でドリーが用意しているが、アンナがブラウの部屋で夜を明かした翌朝は、必ずホライズの紅茶が用意されていた。
アンナはこの紅茶に依存しており、ブラウが留守の際はドリーにやり方を教わって、自分で紅茶を淹れるようにまでなった。
しかし、薬も過ぎれば毒となるもの――。元々ホライズはブラウが研究目的で栽培中の植物で、一般的なハーブとは異なる薬草だ。中でも特に中毒性が強い成分を含むホライズは、着実にアンナの心身を蝕んでいる。
「アンナ。もうすぐ新しい家族が増えるかも知れない。心の準備をしておいてくれ」
「えっ!?ドリーの他に、またメイドさんが来るの?」
「詳しい内容はまだ話せないんだ。決定事項ではないからね。ただ、もしそうなればアンナの姉妹になるだろう」
「姉妹?……妹?それとも、おねーちゃん?」
テーブルから身を乗り出して質問するアンナを見つめて、ブラウは小さく笑みを漏らした。アンナはぱっと顔を輝かせ、分かりやすく喜色を浮かべている。
「素敵なご主人様がいて、本当のお母さんみたいに親切なドリーがいてくれて……。その上、もしかしたらアタシに姉妹ができるかも、なんて。信じらんない……。こんなに幸せなことって、あっていいの?」
アンナがとろんとした表情で溜息をつくと、ブラウは彼女の頭を柔らかく撫で頭頂部にキスを落とし「出かけて来るから、ドリーと朝食を食べて来なさい」と囁きかけた。
「はい、ブラウ様……」
アンナは立ち上がったブラウの背中を見つめながら、唇が触れた自分の頭頂部にそっと手で触れる。
胸に芽生えた淡い恋情をアンナは自覚していなかったが、ブラウに対しては人一倍の執着心があった。彼の言葉はアンナの世界の全てであり、同時に彼女の不安を増幅させる呪いでもある。
ブラウは姿見の前でローブの襟元を正すと、側近と連れだって自室を出ていった。アンナは空になったカップの底を一人見つめて、ぽそりと呟く。
「――姉妹ができても、ブラウ様の一番は、アタシだけ……よね?アタシがブラウ様の“特別”なのは、ずっと変わらないんだよね?」
それは、少女の心に初めて芽吹いた、仄暗い嫉妬の感情だった。
薄汚い大人たちの手垢に塗れて下女として生きてきたアンナは、早熟で脆い少女だった。人一倍他者の欲望に敏感で、子供らしい感情を抑圧された彼女が、ブラウの手ほどきで心を取り戻していく姿は、傍から見れば微笑ましい美談に映るだろう。しかし、同居人のドリーは彼女とブラウの関係を不快に感じ、毎夜のようにブラウと寝所を共にするアンナを密かに案じていた。
ブラウはアンナに手出しはしないが、振る舞いや行動が時折“色恋”を仄めかすものであり、アンナを誑かす行為自体がどうしても受け入れられなかったのだ。
とはいえ、ドリーはあくまでも“女中”の身。ブラウを探る名目で屋敷に潜んでいる以上、余計な手出しはできなかった。自分の立場は維持しつつ、つかず離れずアンナを気にかける日々が続いた。
――ブラウが“二人目の少女”を連れて戻って来たのは、ブラウとアンナの同居が始まって二年後――
◇
元々、ブラウはミラディア周辺の貧困の村々を巡り、側近たちに調査させて魔力の才ある子供たちを探していた。
特にミラディアの徴兵制により男性は徴兵されるため、十に満たない子供ですら農村に残る割合は少なかった。彼らの大半は奴隷として売り飛ばされたり出稼ぎに出てしまう為、ブラウは一先ず女子にのみ対象を絞った。
また、由緒正しい魔術師の家系でも子孫が必ず魔力を継承する訳ではなく、反対に血筋に関係なく才能が発現するケースも散見する。魔力の有無や兆しに関しては解明されていない点が多く、未だ多くの研究者が頭を悩ませていた。
一方、ブラウは“兆し”が幼少の四歳頃から青年期までに発現しない場合、素養がある者でも「生涯魔術師にはなりえない」と結論づけた。
また、対象に魔法の才があるかの見極めについては、ブラウの特殊能力が一役買っている。
ブラウ自身には“兆し”が発現しなかったため、素養自体は備わっているが魔術師の道は断念した。が、彼は独自に魔力を訓練する術を学び“
この透視眼力を持つ者が対象者を視れば、魔力がある場合のみ体の外側を卵型に包むオーラが視える。このオーラは対象者ごとに色や形に違いはあるものの、光の強度や大きさで、潜在的な魔力量を推し量ることが可能だ。
ブラウが属する教団では、指導を受けた聖職者たちの一部が透視眼力を習得し、才ある者を判別してきた。
アンナを探し当てたブラウは、王都から南西の辺境の村に以前から目をつけており、そこで飢餓と流行り病に苦しんでいた少女・ナディを保護したのだった。ナディはアンナの三つ年下の少女で、当時五歳を迎えたばかりだった。
「この子が、ブラウ様の言っていた子なの?」
「ああ、名前はナディ。まだ五つになったばかりの、身寄りのない娘だよ。アンナ、お前と同じだね」
「アタシと、同じ……?」
「年はお前の三つ下だから、姉妹として色々手助けしてやってほしい。頼んだよ、アンナ」
「……は、はい。ブラウ様……!」
ブラウの腕に抱かれたナディは、頬を赤く染め額に大粒の汗を滲ませている。貧困の村の空き家に放置されていたナディの身の上話を聞くと、アンナは「この子がアタシの妹なんだ」と、頭の片隅でボンヤリと実感した。
ミラディア国内ではアンナやナディのような孤児は珍しくないが、彼らの大半が飢餓や病、夜盗や魔獣の襲撃で命を落としている。奇跡的に生き延びたとしても身分制度が撤回され、魔法や血筋の有無に関係なく平等に認められる世にならない限り、孤児たちに未来はないだろう。
ブラウはナディを抱きかかえたまま、階段を上がり始めた。アンナはその後ろを急ぎ足でついていく。
「その子にも、お部屋があるの?」
「ああ、そうだよ。空き部屋が多いからね。家族が多少増えたところで何ら問題はないさ。元々、そのつもりでこの場所を選んだんだよ」
「……ふぅん……」
ブラウの腕に抱えられ丁重に運ばれるナディに対し、アンナは複雑な感情を抱いた。新しい家族が増えたことは喜ばしいが、“自分より歳下の娘”が加わることは、ブラウの興味関心が自分から彼女に向いてしまうのではないかと、危機感が拭えなかった。
どくんと、アンナの心臓が跳ね上がる。
――ブラウ様のいちばんは、アタシ。アタシだけ。大丈夫、たとえ家族が増えたって。妹が増えたって……。
「ここがナディの部屋だ。アンナもナディを見舞ってやってほしい。今は病で熱にうなされているが、
ナディの自室は、既にドリーの手によって清潔に整理整頓されていた。薔薇の真紅色を基調とした艶やかなアンナの部屋と異なり、彼女の部屋は落ち着いたグリーンを基調とした上品な調度品で統一されている。この部屋も、ブラウがナディの為に用意したもの。寝台で魘されているナディを見つめて、アンナはきゅっと胸元を押さえた。
「う……っ、はぁ……はぁ……」
「ブラウ様。アタシ、この子を看病する」
「ありがとう、アンナ。水差しと氷を持ってきてやってほしい」
「はい、すぐ行ってきます!」
胸騒ぎを振り払うように、アンナは階段を駆け下りて食堂へと向かった。ブラウはアンナの背を見送り、ナディの額に掌を当てる。数秒間瞼を閉じたのち再び静かに目を開くと、彼女の周囲をやわらかく包むアイスグリーンのオーラが浮かび上がった。
「潜在的な魔力量は平均的だが、素養があるのは間違いない。アンナと同居することで、彼女にも良い影響があると良いんだが。否、未だアンナにも“兆し”は見られないのが気がかりではあるが――」
ブラウが少女を軟禁しているのは、貴重な研究対象を保護し管理するためだが、もう一つ理由がある。魔力の兆しを持つ者同士では稀に“
「う……たすけて、こわい……。こわい、の……。ダレかが、まどのそとから、ずっと、わたしをのぞいてる……。こわい、ころされる……っ」
「大丈夫だ、ナディ。ここは安全だ。お前の村を襲撃する夜盗も魔獣もいない。安心して眠るといい」
「くっ……はぁ……はぁ……」
ナディの前髪を梳きながら、ブラウは優しく語りかける。ナディは苦しそうに呻いていたが、次第に呼吸が落ち着き深い眠りに落ちていった。
「ナディの様子はどう?」
「アンナ、ありがとう」
ブラウがナディの髪を梳いているところに、トレイを抱えたアンナとドリーが戻って来た。ドリーがベッドサイドのテーブルに水差しを置き、アンナが氷水で濡らしたタオルを持ってナディに近づく。
「よかった。さっきより汗が引いてるみたい」
「薬と魔法が効いてきたんだろう。数日もすれば、熱も下がって動けるようになる。そうしたら、アンナがこの屋敷について色々教えてやってくれないか?」
「……アタシが?」
「ああ。姉妹として、ね。それにナディも、年齢の近いアンナ相手の方が緊張せずに話せるだろう」
「わかりました、ブラウ様」
「アンナになら、私も安心してナディのことを頼める」
「……ブラウ様、アタシを信じてくれるの……?」
「当たり前だろう?お前は私の自慢の娘なのだからね」
「ふふっ、はい!」
ブラウに褒められたアンナは無邪気な声で笑い、彼の胸に抱きついた。ブラウはアンナを抱き寄せ、後頭部を柔らかく撫でる。
――そうよ。アタシはブラウ様の一番優秀な娘。こんなに小さくてか細いナディ《いもうと》なんかに、アタシが負けるハズないの。
アンナはブラウに擦り寄りながら、横目でちらりと横たわるナディに視線をやった。小柄で痩せっぽっちで、くるくると縮れた髪の毛のナディは、アンナの目にひどく貧相に映った。
この時八つの歳を迎えていたアンナは、他者と自分を評価して優越感を抱くようになっていた。自分の容姿と
「だいじょーぶよ。アナタのことは、おねーさんのアタシが、ちゃんと守ってあげるからね……?」
ナディの広い額にタオルを載せたアンナは、赤く染まったその耳元に低く囁きかけるのだった。
看病の甲斐もあり、ナディの高熱は四日後には平熱まで下がった。
ドリーが用意した薬草粥を食べ、
「アンナちゃん、待ってぇ……」
「アハハッ、ナディってば足おっそーい!ほらァ、早くしないとアフタヌーンティーの時間になっちゃうよ!」
「で、でも……」
「早く、早く。食堂でドリーが待ってるよー」
「あ、アンナちゃん……っ」
血の繋がらない二人が対面して馴染めるかどうか危惧していたブラウだったが、その心配も杞憂に終わった。アンナの行動力と明るさに引っ張られ、ナディも年相応の少女らしい表情を見せるようになった。
アンナとナディは食堂に行くのも一緒、食事をするのも一緒。家庭教師から指導を受ける時も、花壇の世話をする時も、隠れん坊で遊ぶ時も一緒だった。
――正確には、ナディはナディなりに自分の立場を弁え、アンナに付き従っているに過ぎないのだが……。いずれにせよ、ブラウにとっては願ってもない良い兆候だ。二人の少女は出身や血筋に関係なく、実の姉妹のように仲睦まじく共同生活を送っていた。
ここまで全て順調に、ブラウの計画通りに進行している。しかし、運命の歯車が狂い出すきっかけは、日常のワンシーンに息を潜めていたのだった。
◇
不安要因だったアンナの発作はナディが同居して以来一度も起きず、ブラウは彼女に投薬の必要はないと判断した。だが、ホライズのハーブティは毎朝必ずドリーが淹れてアンナに与えていた。この頃のアンナは軽いホライズ依存症になっていたが健康状態に問題はなく、妹ができたことでますます力強くなり、我を通すようになっていった。
――もっともっと、ブラウ様の役に立ちたい。大人になったら、ブラウ様の側近の人達みたいにブラウ様の手伝いをするんだから。
八歳のアンナは、魔法の才について学び、ますます“魔法”に興味を抱くようになった。そして、ブラウの研究のために優れた
ある日、ナディと資料室で机を並べて家庭教師役の
「これが、魔法石かぁー。キラキラ光ってきれいだけど、どこにでもある石と変わらないんじゃん。つまんないのー。持っているだけで魔法が使える石なんでしょ?だったら、アタシもすぐに使えるよね?」
「アンナちゃん、魔法石は人間の魔力に反応するみたい……。だから、魔法の才能を持つ人じゃないと、使えないんだって。一般の人が魔法を使うには、
「ハァ……。何それ、めんどくさーい。それに、アタシには元々魔法の才能があるんだけど?」
「……え?」
「だって、ブラウ様が言っていたもの。アタシは才能がある、特別な娘なんだって。ブラウ様の夢を叶える希望が、このアタシなんだから。天才のアタシと貧相なアンタと一緒にしないでよね、ナディ」
「アンナちゃん……」
アンナは手のひらでコロコロ魔法石の欠片を転がし、指先で弾いて遊んでいた。一方のナディは、魔法石のイラストをノートに描き、一言一句逃さずに家庭教師の説明をメモしていった。
二人の態度は対照的で、アンナは自分が優秀であるという自負からか碌々説明を聞かなかったり、机につっぷして居眠りするなど、怠惰な面を見せるようになった。アンナの学習態度にうんざりした家庭教師からブラウに報告がいくと、ブラウはアンナとナディを自室へと呼び出した。
「二人とも。どうして呼び出されたか、分かるかい?」
「いいえ」
ナディが首を振って答えるとアンナは頭の後ろで組んだ手を解き、俯き加減にブラウを見上げた。
「……ナディの最近の筆記の成果は素晴らしいね。ノートの記述も丁寧だし、先生の説明を良く記憶している様だ。ドリーからも生活態度がよろしいと、報告を受けているよ」
「えっ?あ、あの……ありがとうございますぅ……」
ブラウに褒められたナディは、そばかすの頬を桃色に染めて恥じらった。
アンナはその様子を見て舌打ちをし、分かりやすく悪態をつく。ブラウは大仰に溜息をつくと、アンナに向き直った。
「ナディに比べてアンナはどうだ?最近は先生の指示を聞かなかったり、勉強をサボったりしているらしいね。ドリーが裁縫や料理を教えている時間も、ナディに全て任せて自分は部屋で寝ていると聞いているが?」
「だって、そんなの必要ないんだもの」
「アンナ?」
「――食事の用意もお裁縫も、女中のドリーがいれば十分でしょ?アタシはもっと、違うことをしたいの!もっともっと、ブラウ様の役に立つこと!大体、魔法もまだ使えないのに魔法属性の話とか
「アンナ、落ち着きなさい。事前に知識を身に付けておくことは大切だ。正しく力を使うためには……」
「イヤ!!いくらブラウ様の頼みでも、アタシはもう勉強なんてしない。もっとブラウ様の役に立つこと教えてよ。今すぐ魔術師になれる方法とか!」
生い立ちの影響もあり早熟なアンナは、同年代の子どもたちより早く反抗期を迎えていた。
たとえ大好きなブラウ相手でも、暴走した反発心は抑えきれない。更にナディに対しては年長者としてマウントをとり、精神バランスを保っている状態だった。
「お説教なら、アタシ部屋に戻る!」
「アンナ」
ブラウの制止も聞かず、アンナはブラウの部屋を飛び出して行った。
ナディはそんな二人を交互に見比べておろおろしている。ブラウはナディの手を握りしめると、諭すような口調で言った。
「ナディ。お前は優秀で賢い子だ。アンナは今、不安定な時期だから、お前に辛く当たることもあるだろう。何かあったら、すぐに私に相談しなさい。わかったかい?」
「は、はい……。ブラウ様」
「よし。いい子だ」
物分かりが良く温厚なナディは、ブラウにとって御しやすい少女だった。彼女は大人の指示に良く従い姉妹にも気遣いのできる娘で、器量や魔法の才能はアンナに劣るとしても、ブラウからその性質を評価されていたのだ。
ブラウの大きな手で髪を撫でられ、ナディはこそばゆそうに身を縮めた。そんな二人の様子を眉を顰めて見つめていたのはアンナだ。立ち去ったフリをして、ブラウが追いかけて来ることを期待していたのだろう。そんな淡い乙女心は、ブラウとナディが触れ合う様子を目の当たりにして、粉々に打ち砕かれた。
ブラウからの呼び出しの後、ディナーまでの自由時間。アンナはナディを廊下へと呼び出し「気分転換に付き合って」と誘った。
「アンナちゃん、どこに行くのぉ?」
「勉強ばっかだと退屈でしょ?それに、運動不足になっちゃうし。週に一度か二度は薬草採取の時間があるけど、側近の人が見張ってるからぜんぜん自由に動けないじゃん」
「……」
「まったく、何もできない赤ん坊じゃないんだから。ブラウ様も心配性ね!」
アンナは延々と文句を語りながら、廊下を突き進んでいる。ナディには彼女の後ろをついて行くより他になかった。
「外には自由に出られないけど、お屋敷の中は自由じゃない?だから、探検しましょ!」
「探検?どこに?お屋敷を散歩する、とか……?」
ナディが小首をかしげると、アンナはけらけら笑って言った。
「アハハッ、ナディってホント天然だねっ!ただウロついて回るだけじゃ何も面白くないじゃん」
「えっ?で、でも、わたしたちじゃ出入りできないとこも多いよね。それに、あんまり勝手なことしたら、ブラウ様に怒られちゃうし……」
すると、アンナはある扉の前で足を止めた。
「ここ、ドリーの部屋だよ?」
ナディが驚いてアンナの袖口を引っ張ると、アンナは彼女の手を振り払って続けた。
「ドリーはいつでも遊びに来ていいって言ってたもの」
「言ってたけど……。それはドリーがいる時だけだよ?」
ドリーは基本的に一日中屋敷にいるのだが、毎週決まった曜日に数時間だけ、地下室に移動する。ブラウに掃除を任されているためだ。
「今はドリーがいない時間よ」
「アンナちゃん。ドリーが戻ってきてからにしない……?それに、鍵がかかってるでしょう?」
ナディが控えめに止めようとするが、アンナは気にする素振りがない。
「ドリー、鍵をかけ忘れてるみたい!」
たまたまドリーが自室の施錠を忘れたことも、アンナにとっては都合が良かった。ドリーにしては珍しいミスだが、この日のドリーはブラウから薬品棚の整理について細かな指示を受けていた。頭の中が忙しなく、うっかりしていたのだろう。
「ドリーの部屋って、面白いモノがたくさんあるんだよねー!今の内に見てまわろーよ!」
「で、でも……」
「ほらほら!早くっ!ドンくさいなぁ、ナディは!」
「あ……」
躊躇するナディの腕を掴んで侵入したアンナは、我が物顔で物色を始めた。ナディもおずおずとその後ろに続く。
「魔法石の入った小箱とか、よくわかんない薬瓶とか、ハーブとかいっぱいあんの!アタシ、ドリーの部屋の匂い好きなんだよね。なんかホッとするっていうか、安心するの」
「うん……。確かに、甘い紅茶の匂いがするね。あと、お薬のツンとする匂い……」
アンナは屋敷に来て以来、ブラウとドリーが淹れるホライズティーに親しんできた。薬品棚には薬効の高いハーブの瓶詰が陳列されているため、室内は常に甘く快い香りが充満している。アンナはホライズの香りが大好きで、嗅いでいると心の安定を取り戻すことができた。しかし、同時にホライズの中毒症状も如実に表れ始めている。苛立ちと倦怠感、集中力の欠如は、ホライズ中毒によるものだった。ドリーはホライズの依存性を懸念していたのだが、ブラウの指示を守ってアンナに紅茶を与え続けていたのだ。
「そういえば、アンナちゃんは紅茶が好きだったね」
「そうよ。アレはねぇ……アタシだけの特別なハーブティーなの。ブラウ様が作ってくれたんだ」
ホライズのハーブティを自慢しながらドリーの部屋を探検するアンナは、薬品棚から小箱を取り出した。以前部屋を訪ねた際、ドリーがここから魔法石を取り出す場面を目撃していたからだ。
「アンナちゃん、そんな勝手に……。やっぱりやめた方がいいよ……。もし見つかったらどうするの……?」
「いいじゃない、ちょっとくらい!これって、魔法石でしょ?こんな石、アタシたちがいくら触っても、何も起きやしないんだから――」
アンナは箱から丸くつやつやした石の一つを取り出して、手のひらに乗せて眺めた。花弁のように赤い石はアンナの目を惹きつけたが、やはり何も起こらない。
「フン」
不満げに石を摘まんで顔の前に近づけたアンナは、魔法石の表面に小さく記号が刻まれていると気がついた。
「なにこれ?何か書かれてる?」
「あ、アンナちゃん……。それって
ナディがアンナに声をかけた、その時だった。
「な……っ?」
「きゃあぁ!」
突然、アンナの指が眩く光り出したかと思えば、バチッと音を立て紅い火花が周囲に散った。ナディは悲鳴を上げてドアまで後退し、アンナは指先に走った痛みと閃光に驚いて腰を抜かす。魔法石は絨毯へと転がり、数秒後には光を失っていた。
「な、なに……?今の?今のが、魔法なワケ?」
「あ、アンナちゃん、石を……。早く石を戻さないと」
興味津々のアンナに対し、ナディはドアに貼り付いたまま震え声で言った。もう一度石に触れようとするアンナだったが、しかし――。
「そこまでです、二人とも!」
「ひゃあぅ!?」
「わ……っ、どっ、ドリー……!どうして?今日は掃除の日でしょ!?」
ナディの肩を叩いて扉から入って来たのは部屋の主ドリーだった。
ナディはすっかり涙目になり、ガクガクと膝を震わせている。一方、アンナは悪びれた様子もなく、帰ってきたドリーを睨みつけていた。
「勝手に自室に入り込むのは、関心しませんね」
「ドリーがカギをかけ忘れたのが悪いんじゃん」
「確かに、今回は私の落ち度です。しかし、ブラウ様にも自分たちの部屋以外の入室は断固として禁じられている筈ですよ」
「フン……」
アンナは舌打ちし、床をブーツで蹴った。魔法石が転がって、ドリーの足元へ行きつく。
「まさか、アンナ様。この魔法石に触ったのですか?先ほどの騒音は、これが……?」
ドリーは丸い魔法石を拾い上げると、エプロンのポケットから取り出したハンカチで拭う。彼女の抑揚のない声音には、微かな驚きが滲んでいた。
「この小箱の魔法石は、特殊な
「別にー。音が鳴って光っただけで、大したことなかったし。雷よりもしょぼい光じゃん」
「それでも、です。魔法も魔法石も、正しい知識と力を持たぬ者が、触れるべきではありません」
「何、それ……。ドリーはアタシの力を信じてないの?アタシは、ブラウ様に魔法の才能があるって言われて、ここに連れて来られたんだよ?」
「アンナ様……。そうではないのです。才があろうとなかろうと、不用意に触れるべきでは、と……。いいですかアンナ様、この件はブラウ様にも……」
「またお説教!?もうウンザリ!!」
「アンナ様」
「行くよ、ナディ!早く!」
「えぇっ?……ちょっと、アンナちゃん……」
アンナはドリーを突き飛ばすと、ナディの手首を強引につかんで廊下へと出て行った。
アンナの心に巣食いだした負の感情は、やがて彼女自身を蝕む昏い咎となっていく。