祠は結界を抜けた深い森の中にあった。定期的に手入れはされているようだが、かなり古びていた。
「……いないな」
蓮が呟く。
「いない?」
「ここに霊はいない。魔力反応がないんだ」
「じゃ、じゃあ氏神様は……」
「とっくの昔に抜け出してる。気づかなかったのか?」
モモは恥じ入るように俯くばかり。
「問題はそれがどこに消えたかだ。俺の予測じゃ、魔力を消して潜伏、夜になったら人を食ってるんだろうが……」
「な、なんで人間を食べるなんて……」
「簡単だ。高位の霊というのは魂を取り込む力を持っていることが多いんだ。多分、信仰が薄れて力がなくなってきたから、祠を抜け出して人を食うようになったんだろう」
「そ、それおばあ様に言わないでくださいね。絶対怒っちゃうので」
彼は口角を僅かに上げた。
「さて、帰るかね。モモちゃん、探知結界は展開できるかい?」
「お、おばあ様が結界は使うなって……」
「……ああ、そういうタイプか。結界を守護神以外が使うのを許さないタイプ。いるんだよな、古い魔術師には」
全くもって呆れて仕方がない、という素振りを、彼は隠そうともしない。
「じゃあこういうシナリオで行こう。協力しなければ公務執行妨害で逮捕されるから、しょうがなく使った、というシナリオだ。やり方そのものは教わっているんだろう?」
「は、はい。大雑把ですけど……」
モモは怯えながら跪き、指を組んだ。まるで祈りを捧げるようだ。
「閉」
その一言を聞いた彼は、空を見上げる。青い空のその青さに変わりはないが、敏感な彼の第六感は魔力の流れを捉えていた。
「よし、後は夜まで待機だ。人を食う直前には必ず魔力を見せるだろう」
肩を回しながら森から出ようとする。だが、四、五分歩いたところで、彼はふと足を止めた。
「どうしました?」
「……閉じ込められたな。空を見てみろ」
それに従ったモモは、青かったはずの天が紫に染まっているのを認めた。
「どどどど、どうすれば……」
「隠れてな」
彼女の周りを隠匿結界が覆う。
「出てこいよ、ぶちのめしてやるからさ」
全てを見下すような態度で彼が言い放つと、木の陰から斧を持った男が二人現れた。一人はのっぽ、一人は太っちょ。殺意に満ち満ちたその瞳を見て、彼は諦めた。
「村長が認めようが、俺が認めない。余所者は出ていけ」
のっぽが言った。
「こちとら任務に拒否権はないんでね。死にたくなけりゃ今すぐ結界を消しな」
「ガキが!」
太っちょが斬りかかる。だが、素早く刀を召喚した蓮は容易くそれをいなす。体勢を崩した相手に前蹴り。背後から得物を振り上げたのっぽの右腕を掴み、投げ飛ばす。
「無理だって。降参しろよ」
顔に土のついた二人組は、親の仇を討つような形相で蓮を睨みつけた。
「んだよ、そんなに余所者が嫌いなのか? ならとっとと悪霊見つけろよ」
「ほざけ!」
のっぽが大上段に構えて突っ込んでくる。その胴を両断した蓮の顔は、どこか冷めた印象を与えるものだった。やはり人間とはその程度、底の浅い生物だという失望。それが取り繕いもせずに表情に出ていた。
「お前らみたいなくだらない人間は何人も見てきたさ。プライドばっか高くて、その癖他人の足を引っ張ることばっか考えて、自分からは何もしない奴。その上魔術師と来た。なあ、屑野郎。どう死にたい」
腰を抜かした太っちょを冷酷に見下げ、迫る。
「舐め腐るなあ!」
彼は自暴自棄になったように立ち上がる。
「……
蓮の背後にヴィジョン。その腹から、吐瀉物のような液体を垂れ流す狼が現れ、太っちょの首から上を食ってしまった。空は元通りの青に変わる。死体から昇った青白い物体が、ヴィジョンの腹に空いた穴に入っていく。
「あ、あああ、悪霊!」
隠匿結界を解除すると、モモがヒステリックな声を上げる。
「ああ、そうだよ。俺は悪霊を操る人間だ」
やはりこうか、というやるせない感情を彼は抱く。そうだ、多くの人間が彼の魔術を見て同じ反応をしてきた。慣れたはずだ、と自分に言い聞かせても、この人間への軽蔑だけは拭えない。
「戻るぞ」
何にも期待していない声音で彼は告げた。
黒巫家宅。食卓に同席することを許されなかった余所者を部屋に放り込んで、一家は静かに話していた。
「ほう、悪霊を操る……この一件、まっちぽんぷとやらかもしれんな」
トメはモモの報告を受けてそう答えた。
「まっちぽんぷ?」
「自分で火事を起こし、それを自分で消すことで利益を得ようとすることじゃ。村人を攫う悪霊を操り、自分の所に任務が回ってくるように仕向けたのじゃろう」
そんな会話を、蓮は聞いてしまった。握り締める手からは血が流れる。よくあることだ。それでも、救うべき人間は救わねばならない。
そっと家を出た彼は、モモの張った結界をジャックして悪霊の居場所を特定していた。
「
ヴィジョンを介さずに発生させたのは、所々羽毛が禿げた巨大な鷹。その背中に乗り、村を見下ろす。見つけた。身長三メートル近い、骨と皮だけの人型だ。
(一撃で決めてやる!)
刀を呼び出し、降下。振り下ろすが、骨があまりにも硬かった。彼の背後には、蹲って動けない若い男がいる。
「逃げな! こいつは俺が祓う!」
虚空に現れた黒い円から、狼を生み出す。
「食い千切れ!」
悪霊は相手の脚に食らいつき、砕く。顕現時間を五秒に制限することで、機械的強度を無視して万物を噛み砕く狼だ。そして彼は刀に魔力を送り込み、跳び上がって首を断つ。
が、氏神はまだ動く。着地に合わせて剛腕が振り抜かれるが、再び大天翼に乗った蓮を捉えることはなかった。
「
今度は左目が腐り落ちたワイバーンが現れ、その爪で氏神の右肩から胸にかけてを深く抉った。その断面に手を向け、彼は、
「
と叫ぶ。すると髭むじゃらで鱗の生えた老人が現れ、白い雷を叩きつけた。
斯くして、氏神は祓われた。
「あ、ありが──」
「その者を捕らえよ!」
トメが声を発する。若い衆を何人か連れていた。
「その者こそ氏神様を悪霊たらしめた元凶! 悪霊を操り人を襲わせる邪悪じゃ!」
ちげえよ、という声も出せなかった。
「長老! 彼は俺を助けてくれたんです!」
「自分で襲わせて自分で助ける。そういう策略なのじゃ!」
今まで、彼は弱き者を救わなければならないと自らを規定して生きてきた。気味の悪い霊を生み出すヴィジョンも、磨き上げた殺しの技術も、そう思うことで価値を見出してきた。
だが、目の前の醜い心はなんだ? 守るべきものか? 救う必要があるのか? 自らを否定し、蔑む人間にどうして手を差し伸べなければならない?
「余所者ぞ! 何故信用する!」
猜疑。迫害。糾弾。そんなものは子供の頃に通り過ぎたと思っていた。しかし、そうではなかった。
「そうか、わかった」
知らず知らず、彼は小さくそう言っていた。
「捕らえい!」
若者たちがこぞって蓮に走り寄るが、一瞬の内に皆殺しにされた。刔爪だ。
「もう、いいんだ」
彼はトメの放つ光線を防御壁で防ぎ、一歩一歩大地を踏みしめながら接近する。
「お前らが俺を否定するなら、俺はお前らを否定する。それだけだ」
逃げようとした彼女に向け、ワイバーンを完全な形で生成した彼は炎を吐かせた。単なる炎ではない。粘性のある燃料に着火して吐き出したのだ。モモごと巻き込んだそれは、二人を絶叫の中に叩き込んだ。
「ああ、わかったよ。こうすればよかったんだ」
彼は大きく手を挙げる。
「
星も月も消えた。空を泳ぐ光る悪霊がどよめく村を照らしているだけ。
黒巫村の虐殺が判明したのは、翌日のことだった。