「押さないで! ちゃんと進んでください!」
地下への入口で、晴香は大声を出していた。群衆と彼女は、青白い結界で隔てられているが、声は届いていた。
「青井さん! あとどれくらい保ちますか!」
彼女はインカムに向かって、地下五階にいるミサに問う。
「長くて三十分かな……!」
SMT基地への入口は、基本的に認識阻害結界と隊員とその随伴者以外に対する侵入阻止結界によって守られている。現在はどちらもの結界を解除し、ミサが悪霊の侵入だけを防ぐ結界を展開している。
数十ある全ての入り口から約五百メートルほどのトンネル状の結界を張り、住民を誘導しているのはアクシスという魂だ。抹香町を覆う探知結界などを維持している、魂だけの生命体。
だが、それの状態をリアルタイムで管理するには人間が必要だった。魔導式を監視するオウル部隊と、万が一結界が途切れた際に全身全霊を以て結界を補完するミサが。
そして、それは既に訪れてた。彼女は一部出入り口を封鎖し、使用するものを半分に減らした。それでも、彼女が気絶するまでのタイムリミットは、三十分だ。
その時間を少しでも長くするために、晴香は近づく悪霊を鎖で祓う。だが、彼女が見ているのと反対の方向から来た親子が、悪霊に食われた。
精神も肉体も擦り減っていく。これで十五人目。救えない者ばかりが増えていく。泣きたくなるが、涙は全てが終わった後でいい。
背後から二級に伸し掛かられる。鎖で太い首をねじ切って、起き上がる。
(やるんだ)
センパイから託された、人の傍に立つ任務。
(私がやらなきゃ、みんな死ぬんだ。だから、だから!)
尖った先端が、うねりながら二級を貫く。引き抜けば、灰となって消える。
(私、やれる──)
そう、自信をつけた彼女の腹を、背後から、黒い腕が、貫いた。
「え?」
振り向けば、醜い笑みを浮かべる黒い二級悪霊。人の形はしていない。腕が五本もある。
フッ、と体の力が抜ける。膝が地面につく。そこに覆いかぶさる、敵、敵、敵。腹を食い破られ、腸が舞う。肋骨を観音開きに開かれて、心臓が引き抜かれる。
五分もすれば、内臓がなくなった少女がそこに。
◆
「一級相当の反応、特定しました」
屋根の上を飛んでいる小路の耳に、オウル部隊からの報告が入る。
「人の上半身と蜘蛛の下半身……所謂アラクネです」
「……あれか」
彼は剣鉈を呼び出し、眼下に蠢く蜘蛛女に斬り掛かった。脳天に一撃。
「イタイヨォ!」
叫んだそれは、腕を文字通り伸ばして──つまり、延伸させて小路を掴もうとする。だが、空中で加速した彼を追うことはできなかった。
「稲番!」
執拗に纏わりついてくる腕に、雷の矢を飛ばす。病的に白い棒切れが弾けた。着地。
「アソボウヨ!」
背後から蛙のような悪霊が飛びついてくる。一発で祓う。
「遊んでやる。時間をかけさせるなよ」
左手に銃を、右手に鉈を。トリガーを引いた左人差し指。その銃口からマッハ三の鉛玉が飛び出す。アラクネの頭蓋を幾らか抉って去っていった。
そこに意識が向いた隙に、一挙に接近した。加速と身体強化を重ね掛けした跳躍で、体高六メートルの相手の頭を越える。鉈を逆手に持ち替え、落下の勢いを乗せた刺突を繰り出した。
しかし、それを阻止する腕が来る。銃で迎撃し、ついに頭蓋骨を切り裂いた。
「アアア! イヤダヨォ!」
紫の体液をまき散らしながらアラクネは絶叫する。
(耐久力は一級を超えている……蓮、お前はどれほどの魂を喰らった⁉)
それは跳躍し、尻から糸を飛ばす。小路は回避したものの、網状に広がった糸が二級に絡みつくと、その悪霊は灰になって消えた。
(酸……? いや、悪霊に薬剤の類は通用しない。ではなんだ? 二級が即死するんだぞ、何か絡繰りがあるはずだ……)
連続して吐き出されたその粘糸を躱し、足の一本を断つ。加速をかけて蜘蛛の下を仰向けに滑りながら、腹に銃弾を撃ち込んでいく。だが、死ぬ気配はなかった。
起き上がってマガジンを交換する。
「イタイヨ、クルシイヨ……」
泣きだしたアラクネは、背後の小路に向き直った。
「デモ、アリガトウ」
紫色の体液を垂れ流しているものの、それらの傷はすぐに塞がっていく。根競べだな、と彼は苦笑を浮かべた。
「ワタシ、シンカスル」
アラクネの口がゆっくりと開かれる。人間の大きさを越えて開かれる。いや、顔を破壊しながら広がっている。嫌な予感がした彼が動く前に、そこから一人の少女が落ちてきた。
「ワタシ、ウマレタ」
彼女は震える声でそう言う。
「ウマレタ! ウマレタ!」
掌に開いた穴から糸を発し、二級を引き寄せる。それを、喰らった。
「オイシイ! オイシイヨォ!」
腐臭を垂れ流すそれが灰となって消えると、物足りない顔を浮かべた彼女は黒い涙を流す。
「ネエ、アソンデクレル?」
「二度同じことを言うつもりはない。手早く終わらせるぞ」
すぐさま斬りかかった小路は、しかし、刃を糸で止められた。引く前に鉈を絡め取られ、後ろ蹴りを腹に食らう。内臓にめり込む、重い一撃だ。魔力で肉体を強化していなければ、確実に胃が破裂していた。
その鈍い痛みの中、彼は昴の言葉を思い出していた。魔術師や悪霊が最も成長するのは死を間近に見た時──死というインスピレーションが、新たな境地への道を開くのだ。この少女も、きっとそうだ、と彼は確信する。死に近づいたことで変態したのだ。
手を叩いて得物を取り戻す。鉈に魔力を流そうとするも、奇妙な違和感を覚える。中程で詰まっているような、感覚。
それは置き去りにして、踏み込んだ。振り抜かれた三十センチの剣鉈は、骨を断てなかった。
(強化が及んでいない?)
一瞬だが思考が走ったその瞬間を、少女は逃さなかった。鉈を受け止めているのとは反対の腕から糸を飛ばして小路の片目を塞ぐ。そうやってできた死角に、回し蹴りを叩き込んだ。
人間を遥かに超えるパワーから繰り出されたそれは、彼をブロック塀に叩きつける。頭からツーッと流れる血を拭い、立ち上がる。
(考えろ、こいつの糸に秘められたルールを!)
銃口を向ける。だが糸がそこに飛んでくる。使えなくなった武器を投げ捨て、彼は再び敵に向かう。加速を乗せた一撃が、今回は相手の左腕を斬り落とす。更に蹴りを当てようとしたところ、糸が絡みついた。違和感。魔力が、巡っていない。
フリーな右足で地面を蹴り、距離を置く。糸が消えた銃を拾う。再び撃とうとすれば、胸に糸が当たった。銃弾はマッハ二で飛んでいく。
(加速を乗せられなかった……なんだ?)
接近してくる少女。逃げようとした小路は、首を掴まれた。身体強化も加速もできない。されるがままに地面に擦りつけられ、投げ飛ばされる。逃げられるなら僥倖、と思っていた彼は糸で引き寄せられ、腹に打撃を喰らった。胃の内容物が口から漏れる。
その勢いに乗せて、少女はマウントポジションに移行。小路の顔面を何度も殴りつけた。
「ツヨイ! ワタシ、ツヨイ!」
顔を上げて喜んでいるその悪霊の頭を掴み、小路は頭突きを食らわせた。強化していない分衝撃も痛みもダイレクトに来るが、死ぬよりはマシだった。
垂れる鼻血、青紫色をした内出血の証。鏡があればその不細工具合に彼は笑っていただろう。だが、そんなものは守るべきものを守れない恐怖に比べれば何でもなかった。
「終わりか?」
「ドウシテェ? ドウシテェ?」
カクカクと首を動かして、少女は言う。
「さあ、続きをしようじゃないか」
フルタングの柄を一層強く握り、彼は目の前の敵を睨んだ。