A.D.2158 10/29 08:42
地球統一政府軍 月面基地『メリエス』
高級士官食堂
「やあやあやあやあやあ! ぐっすり眠れたかな?」
目の下に隈を作ったギデオンが、それでも軍服には一切の乱れを見せずに現れたのを認めて、鄭顕正は満面の笑みを浮かべた。
ギデオンは直立不動の姿勢で敬礼する。一旦それを受けてから、鄭はいつも通りの鷹揚な仕草で手を下ろさせた。
「堅苦しいのは抜きにしよう。君の献策のお陰で艦隊は危機を脱したんだ。これは私からの心ばかりのもてなしだよ。さっ、地球が見えるところまで行こうか」
言うが早いが、地球がよく見える窓際のテーブルまで強引に引っ張っていき着席させる。高級士官向けとはいえ軍の食堂のはずだが、今は完全に貸し切り状態となっていた。
卓上にはすでに
鄭は朝食で手を抜きたくないタイプである。手早く食べるのは良いが、軍隊特有の味気ない飯を食うのはなるべく避けたい。美味であることと手っ取り早いことは両立する。ことに彼が生まれ育った土地では、そういった朝食文化が根強く残っていた。
(まあ、これだけの御馳走にはしばらくありつけなくなるだろうが……)
ギデオンの観察を一旦止めて、鄭は顔をそらした。
窓の向こうには月面の灰色の砂漠が一面に広がり、そのうえに暗黒の夜空に包まれた青い星が浮かんでいる。
産業革命以降、人類の手によって散々に汚染されてきたあの星は、しかし宇宙空間から見上げるといささかもその美しさを損なっていないように見える。
実際には、海岸には無数のごみが漂着し、あらゆる天然資源は年々その貯蔵量を減らしつつある。化石燃料はとうに採掘コストと需要が釣り合わなくなった。だからこそ、宇宙空間からの電力送信とその支援基地としてのコロニーが必要となったのだ。
鄭顕正本人が生まれ育った土地も汚染や頽廃の影響を強く受けていた。経済的にも豊かとは言えず、それに引きずられて人心も荒んでいた。
だが鄭にとっては紛れも無い故郷であり、そこで長年にわたって育まれてきた文化や風俗は偉大だと思っている。たとえ個々人は屑ばかりだとしても、寄り集まると不思議と素晴らしいものを生む。そうさせる土壌が、地球という星にはあった。
「美しい星だと思わないかね、ブランチャード少佐」
鹹豆漿の注がれた椀に匙をさしこみながら、鄭は言った。ギデオンは小さな声で相槌を打った。
「いつも地球を見上げている君たちにはピンとこないだろうが、地球生まれ地球育ちの人間にとって、初めてあの星を見上げる瞬間というのは特別なものでね。
このテーブルに並んだものは全て私の故郷のもので、それを生み出した風土を敬愛しているが、まあ小汚い場所だった。初めて宇宙に上がるまでは汚染された、しかし歴史深い大地こそが私の全てだった。
それがどうだ。宇宙に出て地球を見上げてみると、その青さはいささかも失われていないではないか。
人民の大いなる連帯や営為は、それを受け止めてくれる母なる大地あってこそだ。地球の豊かさと偉大さを真に理解するためには、一度は地上を体験しなければならない。そしてそこから離れることによって、地球は永遠の故郷として心に焼き付けられる。
だから」
ずずず、と豆腐を啜り、トッピングをスープのなかに次々と足していく。椀と小皿の間で腕を往復させながら、鄭は区切った言葉の続きをつなげた。
「異常だったね、マリア・アステリアという男は。地球という星に対する畏敬が足りない。人ならば本来持っていてしかるべきものだと私などは思うのだが。あと一歩で彼の目論見通りになるところだった。君が密告してくれたおかげで地球は救われたのさ」
「……」
「どうしたね。もっと嬉しそうな顔をしたまえよ。君の仕事は非常に重要な意味を持っていたのだ。誇りこそすれ恥いるようなものではない」
しゃあしゃあと言ってのける鄭に対して、ギデオンは膝の上に握り拳を置いたまま微動だにしなかった。しかし、流石に顔色が変わった。
ギデオンの目から見ても、鄭顕正という男はマリアと別のベクトルで奇怪な存在だった。軍人としての器量はもとより地球に対する深い敬愛を持ちながら、人間的には極めて悪趣味である。はっきり言って好きになれそうなタイプではない。
ここに呼ばれたのも、ある種の精神的なリンチのためだ。この男はそういうことを平気で仕掛けてくる。その程度の魂胆はギデオンにも読み取れた。
読み取れたとて、今は黙っていることしか出来ない。
ギデオンは匙を手に取り椀を持ち上げた。あまり慣れない食器のうえ、月面ということもあって重力の感じ方がいつもと違う。漂ってくる香りも全く馴染みがない。全体的に食卓文化の貧弱なコロニーでは出せない香気だ。
とろけるように柔らかい豆腐に匙を突き刺して、一口流し込む。食感に違和感は無かったが、やはり香りが辛い。万全の体調であればある程度余裕をもって食べられたかもしれないが、今は胃が食べ物を受け付けていないような状態だ。
身体以上に、精神が休息や食事を拒否している。
昨夜の会戦からさかのぼること二日間、ギデオンは満足に睡眠をとれていない。それよりさらに前も、半ば気絶するように1、2時間の意識消失を繰り返すような有様だった。
たとえ休む時間を確保できたとしても、すぐに目が覚める。あるいは脳内の神経が騒ぎ立てて意識をシャットアウトできない。心身ともに疲労困憊だが、それ以上に様々な不調や精神的負荷が重なり過ぎていて、脳がすぐに覚醒する。
いつ潰れてもおかしくない。戦場で何らかの致命的なミスを犯して死ぬかもしれない。
しかし、ギデオンの強靭な精神は発狂することを許さなかった。戦争のために徹底的に鍛え上げた肉体は、不眠不休の戦場でなおもアンデットのように動き続けた。食べたくないものでさえ、意思の力で無理やり口に捩じ込める。
「タフだな、君は」
鄭が笑っていた。褒めようという意図は少ないが、全体のニュアンスには一部本心からの賞賛が混ざっている。だからこそ余計に性質が悪い。
「君が寝ている間に……おっと、寝れてなかったかな? まあいいさ。ともかくフィオドラ君に色々調べてもらってね。驚いたよ、まさかバレット・フライヤーの運用論を現場レベルで確立させた立役者だったとはね。あの混戦のなかで戦列を抜けてきたのも、まんざらまぐれではなかったわけだ」
ギデオンは答えない。こういうシチュエーションでどのように答えるべきか、士官学校では教えてくれなかった。鄭もそれを分かったうえで言っている。
「我々の情報網では、マリア・アステリアこそ最大の脅威と目されていたが、どれほど優れた理論も実践できなければ意味が無い。彼とは深いつながりがあったのかな?」
「……士官学校の後輩です」
辛うじてそれだけ答えられた。匙を動かす手は完全に止まっていた。
「そうかそうか。気の毒だったね」
口ばかりの弔辞に対して、ギデオンは少しだけ苦笑した。
気の毒と言われたが、本当に災難な目に遭ったのは誰か?
自分ではない。全ては自分が撒いた種だ。マリア・アステリアという災禍が大きく育ち切る前に、その首を圧し折ることができたはずだ。それをしなかった結果、無数の戦災孤児が強化人間へと改造され、戦場で命を散らしていった。
『彼らが望んでいたからですよ、ギド』
なぜ、そんな言葉を信じてしまったのだろう。ギデオンは何度となく自問した。答えはとうに出ていた。
マリアを疑いたくなかったからだ。
ある時期まで、彼がマリアにかけていた期待は本物だった。自分の階級を追い越して早々と軍の中枢で成り上がっていく姿に、悔しさどころか誇らしさすら感じた。現にマリアが考案した戦術や戦略案が無ければ、タルシスはここまで戦えなかっただろう。
孤児たちは望んで戦いたがっている。半信半疑のまま、それでもギデオンは与えられた仕事を全うしようと思った。兵士として戦うことを決めた彼らの生存率を少しでもあげるために、運用面や戦術面でありとあらゆる工夫を凝らした。
すでにマリアからバレット・フライヤーの運用理論を聞かされていたために、それらの仕事は思いのほかうまくいった。彼が指揮した部隊は隔絶した成果をあげ、生還率は常に高い数字をキープした。
「俺はやるべきことをやっている。俺にできる範囲で、やるべきことを……」
全ては自己欺瞞だった。
強化人間をどれほど労って使おうと、そもそもが非人道的な行為なのだ。何をやったとて言い訳にもならない。戦場に出れば必ず傷つく。部隊の兵士たちの肩から、黒いひとつ眼の鳥が消え去ることはついに無かった。
そして、それを止めるようマリアに言うことさえ、すでに無駄なことだった。