「正直冷や冷やしました。撃ち殺されても文句は言えませんよ」
食堂を出た直後、フィオドラが影のように鄭の後ろへと滑り込んできた。長い銀色の髪は若干乱れており、目の下にも疲労の色が浮かんでいる。
むしろなぜこの上官はここまでツヤツヤしていられるのだろう、と心底不思議でならなかった。
「はっはっはっ! 彼はそんなことはしないさ。まだやらなければならないことが沢山ある男だからね!」
鄭は上機嫌のままハンカチで口元を拭いた。地球の6分の1の重力下を大股で飛び跳ねながら執務室へと向かう。
「で。報告は?」
「はい。提督の中将昇進と並行して、複数の不穏分子の動きが確認されました。うち一件は憲兵隊によってすでに制圧済みです」
「くくっ、甘い餌で油断させながら裏ではやることをやっているわけだ。これあるを見越して憲兵隊を押さえておいたのは正解だったな」
「申し上げたとおり提督は叛逆者です。政府の心象は最悪ですよ。いざとなったら私は抜けますので悪しからず」
チッチッチッ。と鄭顕正が人差し指を振りながら舌を鳴らした。フィオドラが怜悧な表情を歪めて「うざっ」と呟いたが、余計に彼を喜ばせただけだった。
「逃げ場などどこにも無いぞ、大尉? 今や我が艦隊は地球統一政府の安全保障を一手に握っている状態だ。地球の制空権は完全にタルシスの手に落ちた」
「まだ熾天使がありますが」
「機動性も能動性も持たんデバイスが何になる。ただの的だよ、あんなのは」
鉢合わせた兵士や士官たちが慌てて敬礼を投げかけてくる。鷹揚に答礼しながらも、鄭は彼らの表情に宿っている不安を見逃さなかった。
(まだまだ浮き足立っているが……当然か)
生き延びたとはいえ自軍の大半は壊滅し、残った自分たちも月という孤島に押し込められた状態だ。ここからはタルシスの全てのコロニーを狙えるが、逆に言えば敵勢力に包囲されている。
この『メリエス』をはじめとした月の各基地は非常に堅牢であり、なおかつ生産能力も高い。地下には膨大な量の氷があり、飢えたり渇いたりする心配は皆無だ。
しかし地球生まれ地球育ちの兵士が多い以上、どうしても里心というものが出てきてしまう。鄭顕正の首と引き換えに地球に帰れるなどと吹き込まれれば、どこかの段階で真に受ける者が出てくるかもしれない。現に不穏分子は現れつつある。
加えていくら基地機能が高いといえど、新造艦を大量に揃えるのは不可能だ。そもそも先の戦いで損傷した艦を修復するためにドックが埋まっている。そして兵器は必ず劣化していく。整備の限界は厳然として存在する。
「……つまり私の権力は消費期限付きというわけだ」
フィオドラが「は?」と怪訝な表情を浮かべたのが背中越しに分かった。
複数の認証を経て執務室に入った鄭は、革張りの豪奢な椅子を満足げに撫でながらどっかりと座り込んだ。ホロディスプレイを立ち上げると、堤防が決壊したかのような勢いで大量の報告文書や通知等が流れ込んできた。いつまでも鳴り止まない通知音にフィオドラが顔を顰める。
対して、鄭はうきうきした様子で指を揉み合わせるとさっそく報告書に目を通し始めた。流れ込んでくる膨大な情報を高速で頭に詰め込んでいく。脳味噌が糖を次々と燃焼させているのを感じた。朝食をしっかり食べておいて正解だったと思った。
各艦の損害状況、負傷者や死者の報告、兵士のみでなく『メリエス』基地に努める軍属たちの情報。
工廠ならびにドックの稼働状況、民需施設の稼働状況ならびに今後の余剰生産の見通し。
統一政府ならびにタルシス政府の動向。地球、コロニー双方の市民感情や社会情勢の確認。
これらよりさらに細かい情報を、人とAI両方の力を借りてひたすら並べていく。まずは情報によって足場を固め、その上に戦略を構築していかなければならない。
だがそれ以上に大切なのは、作り上げた戦略を理解、実行できるスタッフだ。
(目下、これが最大の問題かもしれないな)
良くも悪くも今の月艦隊でリーダーシップを発揮できるのは自分しかいない。参謀たちは相応に優秀で、これらの情報を一晩のうちに集めてきたのも彼らの手腕によるが、軍勢を引っぱるという点ではいまひとつ弱さを感じる。もう少し我が強ければ文句は無いのだが、自分ひとりに権力を集めたい状況でいたずらに個性的な人間を登用したくはなかった。
月での籠城がどの程度の期間になるか分からない。数年単位かもしれないし、あるいは完全に独立国家を立ち上げて恒久的に継続させる可能性も考えるべきだ。
想定できるパターンは無数に存在する。並大抵の人間であればパンクする仕事量だろう、と鄭はうぬぼれ半分にそう思う。実際問題、彼の処理能力に完全に追いつける人間はフィオドラも含めて存在しない。
代理できる人間がいないとなると、いよいよ自分が独裁者として頑張らなければならない。
(なるほど、我が先達たちもかくのごとき心境だったわけか)
劉邦、朱元璋、袁世凱、いずれも権力掌握と粛清がセットになっていた人々だ。こんなものは序の口で、中華系の歴史上では膨大な権力闘争と粛清が存在した。
そうした人々の一部は
栄光という名の岸辺にたどり着くには、失敗、敗北、抹殺といった物騒な名前の海にかかった、細い梁のうえを渡っていかねばならない。
そのスリリングさを想像するだけでぞくぞくした。自分という優秀な人間が、そのスペックをフルに発揮しなければならない難題。そういうものと向き合える人生は幸福だ。
「まあ、せいぜい僭主生活を楽しむとしようか」
鄭はそう嘯いた。副官からは相変わらず冷ややかな目を向けられたまま、しかし頭のなかでは巨大な戦略の