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第9話:カラスは保険に入れない

 月面の見える食堂でひとり残されたギデオンは深く溜息をついた。


 鄭からは美味いので食べるようにと勧められたが、やはり何も口にする気になれない。自分には何かを食べたり、寝たりする権利など無いような気がする。


 自分が殺した子供たちが、本来ならば食べられたはずの食事、取れたはずの睡眠。選べたはずの無数の人生。


 他人が享受するはずだったいくつもの幸せを犠牲にして、自分は今も生きている。これから先の人生は全てモノクロで塗り潰されて然るべきだ。


 心の底からそう思っているが、それでもギデオンは匙を手に取り椀を持ち上げた。不要なトッピングは全て無視してひたすら中身を掻き込む。身体が冷酷なまでに栄養摂取を求めている。


 お前はまだ戦わなければならない。


 いずれ野垂れ死ぬために生きなければならない。



「ギド、お前はなんでもできる。それなのに大勢死なせたなぁ、可哀想に」



 向かい側の椅子の背に、黒いひとつ眼の鳥が止まっていた。鋭い嘴の間から死んだ兄の肉声が聞こえた。


(分かっている)


 罪の深さも背負ったものの重さも、そしてこれからの未来に待ち受けているあらゆる戦いへの恐怖も、全てが胸の内にある。


 だから食える。いずれ寝れるようにもなる。そうして擦り切れ削り尽くされるまで、この身体は動き続けるだろう。


 そして必ず義務を果たす。


「そうだ、だから俺の戦争はまだ




――――――――――――――――――――――――――――――――――――




A.D.2160 5/12 05:26

タルシスⅣ 近傍宙域

封鎖突破船『天燕』 船長室



 ……終われない」


 自分の言ったうわごとでギデオンは目覚めた。


 夢のなかで映し出されていた風景が瞬く間に霞がかっていく。さっきまで何を見ていたのか、何を話していたのか、その記憶が遠ざかっていく。


 しかしおぼろげに全体像は憶えている。一年と少し前、自分が鄭顕正にマリアの居所をリークした時の記憶だ。ほとんどが事実同然に流れていったが、唯一最後の場面だけは幻覚が混ざっている。死神の鳥が肉声で喋ったことなど今まで一度も無い。


「フッ……」


 寝ることを考えていた男が、実は夢のなかの住人であったことが、我ながらおかしかった。


 軍を離れた直後はさすがに眠りが浅かったが、最近はしっかりと休めている。兵士として上手く寝ることも技術のうちである。それは分かっているのだが、こうして呑気に寝られるようになったことにやはり罪悪感を覚える。


 スリーピング・バックのファスナーを下ろして上体を起き上がらせる。バックは寝台に縫い留められている。こうして身体を固定しておかないと、寝返りを打っただけで反対側の壁まで飛んで行ってしまうのだ。


 地球低軌道上での仕事にひと段落つけて、今はタルシスⅣに帰還する途中である。後始末に追われていたが、港に着いてからも色々と手続きがあるため、マヌエラに操舵を預けて4時間だけ仮眠時間をもらい自室に戻っていた。


 あと15分は寝られるが、身支度や寝ている間の経過把握でそれくらい潰れてしまう。何よりとうに脳が覚醒していた。もう一度バックに戻ったところで芋虫ごっこしかできない。


 制汗剤を噴いてから素早く上着に袖を通す。頭にドライシャンプーを押し付けて軽く拭き取ってからひとまとめにする。シャワーは陸に上がるまでお預けだ。


 最後に歯ブラシを持って共用の洗面所に向かった。専用の吸引設備が無いと、無重力中ではすぐに船室が唾まみれになってしまうのだ。


 船内の廊下はまだ静かだった。当直の船員以外は休んでいる時間帯である。照明も落としてあった。


 それだけに、人気があるとくっきり浮き立って見えるのだ。


 洗面所にカラスがいた。


「起きてたのか」


 歯ブラシをくわえたままカラスが振り返った。


「目が覚めた」


「俺もだよ。これからもう一仕事だ……」


 磁気靴で身体を床に固定してから、ギデオンは洗面台の吸引装置のスイッチを入れた。


 洗面台は中央に楕円形の鏡が配置されており、それを取り囲むようにゆるく湾曲したカバーが取りつけられている。カバーの根本には飛び散った水分を集める吸引口が開いており、電源が入るとゆっくりと空気を吸い始める。手元の吸引口だけは間口がほかの箇所より大きくとられており、うがいをした後の水はそこに吐き捨てるようになっている。


 歯磨きをするのが目的なのだから、それ以外に何かする必要も無い。ただ、ギデオンは何となく落ち着かない気分になった。


(さっきまで見ていた夢のせいか)


 強化人間とその指揮官だった自分が、何食わぬ顔で横並びに立って歯を磨いている。戦場という非日常の世界の住人だった自分たちが、あまりに普通過ぎる日課をこなしていることに収まりの悪い違和感を覚えた。


 二人分の歯ブラシの音と吸引装置の駆動音だけが鳴っている。ギデオンは必ず5分はかけるようにしていた。本当はもう少し時間を取りたいが、朝にそんな余裕は無い。


 対してカラスは、先に来ていたこともあって嗽に移っていた。


 それが済んでもなお歯を磨き続けているギデオンが不思議なのか、例の鳥のような仕草で首を軽く傾げた。恐らく無意識にやっていたのだろう。口の周りに泡をつけたギデオンが「もう終わりか?」と聞くと、目をぱちりとしばたたかせた。


「船長、長いな」


「そりゃそうだろ。歯は大事にしないとな。治療する金も馬鹿にならん……」


 タルシスの社会保障は貧弱極まりない。重度の疾患や心身の障がい者に対しても逆風がついている有様なので、へたに虫歯治療でもしようものなら一ヶ月分の収入が吹き飛びかねない。


 それでいて、宇宙空間で働く者は水分摂取の頻度が低かったり、高カロリー・高糖度なエネルギー食を常食していたり、挙句の果てには節水のために歯磨きもできないなど、虫歯になりやすい条件がこれでもかと揃っている。


(そういやこいつ、コクピットに砂糖水持ち込んでたな)


 バレット・フライヤー乗りの典型だ。ギデオンは歯ブラシを口から引っこ抜いた。


「おいカラス、もうちょっとしっかり磨いていけ」


「うん?」


「悪いことは言わん。お前デンタル保険にも入ってないだろ」


「入っていない、というか……」


 カラスが少し眉尻を下げたのを見て、ギデオンは「しまった」と思った。


 カラス、カラス、と呼ぶのが当たり前になっていて、それが本名ではないことをつい失念していたのだ。


「すまん、そりゃ入れないよな……今度クェーカーに福利厚生として」


「いや、入ろうと思えばたぶん、その……」


 今度はギデオンが首を傾げることになった。


 カラスの口調にいつものような歯切れの良さが無い。半年前と比べてかなり「ロボットっぽさ」は薄れたと思うが、それでもまだまだ機械に喋らせたような話し方をする。


 最早『天燕』のクルーの間ではそれが当たり前になっていて、カラスのキャラ・・・として扱われている。当人も「それでいい」という風なので、いよいよ改善の兆しは見られなかった。


 それがここにきて、妙に人間臭い逡巡を見せている。かえって異様だった。


「何かあったのか?」


 カラスは表情に戸惑いを残したまま、静かに言った。



「クェーカーからメールが来ていた。自分の……の戸籍が見つかったかもしれない、と」


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