A.D.2160 5/12 05:48
タルシスⅣ 近傍宙域
封鎖突破船『天燕』 洗面所
カラスの言葉を聞いて、ギデオンは反射的に快哉を叫びそうになった。実際に顔の筋肉は笑顔の形を作りつつあった。
だが当人の表情がいまひとつ明朗でない。それを認めて、彼も感情が顔に出るのを寸でのところで止めた。
「……どうした?」
カラスは一度視線をギデオンの目に向け、そして逸らした。強化人間の象徴である赤い光彩の義眼が躊躇いに揺れていた。何かを探すように視線をさまよわせ、瞬きを何度かしてから、再びギデオンの顔を見た。
「正直、困っている」
彼の顔や口調に浮かんでいた憂いは「困る」という簡単な単語に収まりきらないものに見えた。
だが同時に、それほど大ざっぱな言葉でないと表現できない心地なのかもしれない。
「自分はカラスだ。この船のバウンサーで……フェニクスのパイロット。それで十分だったのに……」
「カラス、ちょっと待て」
ギデオンはセクレタリー・バンドで通信機能を立ち上げ、仮想艦橋に上がっているマヌエラを呼び出した。
『おはよう、よく眠れた?』
欠伸を噛み殺しながら言うマヌエラに「ありがとう」とギデオンは返す。
「すまない、あと20分……いや、30分くれるか?」
『ん? いいけど、どうしたの?』
「ちょっと面談が入ってな。悪いニュースではない、と思うが」
『了解。もし伸びそうだったらまた教えて』
「ああ。じゃあ」
通信を切り、カラスに向き直った。
「場所を変えるか」
カラスはこくりと頷いた。ギデオンは歯磨きを切り上げた。
道具を片付け、揃って『天燕』の展望デッキに向かった。食堂はこれから人が増える時間帯で、ゲストルームを使うのはあまりに仰々しい。格納庫もペティ率いる甲板員たちが入港の準備をしている。カラスも甲板員見習いではあるのだが、昨日出撃しているので休みになっていた。
星々が見えるガラスの前で手すりに掴まりながら、ギデオンはミント・タブレットをひとつ投げ渡した。それを契機にして問いかける。
「何が引っ掛かっているんだ?」
「……今の自分に慣れ過ぎた」
移動する間に考えをまとめたのだろう。先ほど言っていた「困る」をより明確に言うならば、今の言葉に集約される。
「天燕のカラスとしての自分に、か」
カラスは頷いた。
「記憶はほとんど戻っていないし、正直戻したいとも思わない。記憶だけあったところで……」
妹さんのことは良いのか? とはギデオンも聞けなかった。
開発局との模擬戦以前にPTSDによるフラッシュバックが生じ、前後不覚に陥ったという。クェーカー伝手に医師にも診せたが、治療に専念できる病院などどこにも無く、現在最もリラックスして過ごせる場所を提供するのが一番だと言われた。
それがバレット・フライヤーという史上最も危険な機動兵器のコクピットというのが救われない。
だが、現にカラスはこの半年間『フェニクス』に乗り続けて無事に仕事をこなしている。かといって精神的に不安定になることもなく、むしろクルーたちとの関係を深めて徐々に
少なくとも『天燕』に乗り込んだあの日に比べれば差は歴然と言えるだろう。
それでも、完全に回復したとは到底言えない。
カラスの傷口は深い。彼に限らず、一度破壊された精神が完全に復活することはない。必ず心のどこかに亀裂が残る。それを粘土で埋めようと純金で継ごうと傷は傷だ。壊れる時は必ず同じ場所から崩れていく。
そのような危うさを抱えながら、それでも飛び続けていられるのはカラス本人の強さだ。
だからこれ以上負荷をかけるわけにはいかない。負荷に耐えられるだけのタフネスも無いだろう。彼は現時点で十分以上に頑張っているのだ。このうえ失った妹についての記憶まで抱えては、彼自身のメンタルがもたない。
「なるほどな」
奥歯でタブレットを噛み潰しながらギデオンは言った。舌の上に苦みが広がった。
彼としてはそうやって相槌を打つしかなかった。この件に関して自分から能動的に意見する権利は無いと思っている。
だから出来ることは、聞き役に徹してカラス本人の思考整理を手伝うことだけだ。
だが、そんな考えもある種の逃げである。
「船長は、どう思う?」
「……」
カラスから意見を求められる事態は、想定して然るべきだった。そもそも自分で持て余しているから聞いてきたのだろう。
普段は無表情の下に強気な性根を隠している彼が、今は戸惑いを隠そうともしない。
強化人間の証明である赤い瞳が答えを求めて彷徨っていた。
やめろ、と言いそうになった。
だがギデオンはその言葉を飲み込んだ。自分には彼を拒む権利など無い。一方で、賢しらに答えを言うのも恥知らずなことだ。
(まだ恥の方が呑める、か)
ギデオンは自嘲した。カラスが訝しむ前にすぐに口元の歪みを消す。
「お前、半年前に俺に言ったことを覚えているか? 自分にはフェニクス以外に座標が無いと」
「言った」
「過去はお前にとっての座標そのものだ。だろ?」
カラスは口をつぐんだ。どこかでその答えを理解していた風だった。ギデオンに言われるまでもない。過去を失ったからこそ『フェニクス』にしがみついていたのだ。
だからギデオンは、カラスが内心で出していた答えのもう一歩先を提示することにした。
「無理に全部を飲み込む必要は無いと思うぞ」
「え?」
「誰の人生にだって重みはある。お前の過去だって、決して簡単なものじゃないだろうさ。一気に詰め込もうとしてもしんどいだけだ。
ただな、カラス。過去、個人情報、戸籍、こういったものはお前が未来を創っていくための土台になる」
そう言ってギデオンはセクレタリー・バンドを叩き、いくつかのニュース記事をホロディスプレイに映しだした。
「例えば戦傷者特例給付だの、戦災児への学費補助制度だの、お前が受けられる制度はいくつもある。そのためには戸籍が絶対に必要だ」
本来ならば戸籍が不明になっているような者も助けられなければならないのだが、タルシスの政策はそこまで考慮して作られていない。ざっとギデオンが出して見せた制度にしても、ほとんど場当たり的な中身ばかりで、内容も行き届いていない。
それでも、有ると無いとでは雲泥の差だ。
「分かるか、カラス。お前はタルシスの市民に戻れるんだ」
そう言われても、やはりカラスの困惑は消えなかった。
だが「そうか」と口から出た声は、少しだけ重苦しさが減っていた。
「今挙げたのはほんの一例だ。お前のご家族が持っていた資産だって、もしかしたら取り返せるかもしれない。そうすればこんな危険な稼業からも足を洗える」
「船長は、自分を天燕から降ろしたいのか?」
「フェニクスからもな。それが最終目標だ」
「それは……どっちも嫌、だな……」
手すりに上体を投げ出しながらカラスは言う。ギデオンはあえて分かりやすく溜息をついた。
「封鎖突破船ってのは言い方を変えれば密貿易船なんだぞ。BFに至っては言わずもがなだ。社会が真っ当な状態だったら逮捕されてもおかしくない。
実際、タルシスⅠの議会では民間人の航行可能域の制限や、武器所有の厳格化に関する法案が提出されてるそうだ。こいつが通ればフェニクスは持ってるだけで違法になる」
「……そうなったら、自分はどうすれば良い?」
「学校に行く、資格を取る、あるいは働く。いくらでもあるさ。別に天燕が無くなったって俺たちが揃って消えるわけじゃない。居場所は何とかするさ。クェーカーもその辺は手伝ってくれるだろう」
カラスは、それでも釈然としない風だった。
最初はノアの方舟の伝説になぞらえて「カラス」と呼ぶことにしたが、これでは本当に伝説の通りだ。
もっとも、方舟に戻ってきたカラスがその後どうなったかは、聖書には書かれていないのだが。
「船長。貴方は自分に、戦争の手伝いをしろと言った。戦争が終わるまで付き合えと。もう戦争は終わったのか?」
「……いいや、まだ終わっちゃいない。だが同じ兵士が前線に出続ける必要も無い。お前には休む権利がある」
「貴方自身は戦い続けるのに?」
少し責めるような口調で、ギデオンは強化人間の青年に胸を殴られたような気分になった。赤い目を細めてカラスが見ていた。
(ずいぶん人間臭くなりやがって)
そう思うからこそギデオンは笑った。それでカラスが余計に不機嫌になることは目に見えていたのだが、安堵の微笑を引っ込めておくことが出来なかった。
「俺だって危ない橋を渡り続けるつもりは無いさ。目標は戦争を終わらせること、だからこそやるべきことをやる。封鎖突破船もバレット・フライヤーもただの手段、目的じゃない。
それとも、地味な仕事は嫌か?」
「そんなことは言っていない」
「だったら普通の生活を楽しめ。戸籍情報をいつ見るのかはお前次第だが、とりあえずクェーカーから受け取ってきたらどうだ? 中身を見るにせよ見ないにせよ、それがあるだけで出来ることは各段に増えるんだ」
「……了解した」
カラスはまだ納得していない風だったが、ギデオンはそこで話を切り上げた。さすがにこれ以上マヌエラを艦橋に縛り付けておくわけにはいかない。彼女には、コロニーに帰ってからショートステイ先に子供たちを迎えに行く仕事が待っているのだ。
船体上層部のコクピットブロックに向かう間、ギデオンは先ほどまでのやり取りを頭のなかで反芻していた。
自分にはあんな風にメンターぶってアドバイスをする資格は無い。カラスや、その他大勢の強化人間たちに対しては、返しても返しきれない借りがある。償わなければならない責がある。
「あいつの踏ん切りがついたら、その時は……」
全てを話すべき時期が近づいているのかもしれない。
過去にあった全てを知った後、カラスはさっきのように自分を頼ってくれるだろうか?
頼らなくていい、憎んでくれて良いとギデオンは思った。
ノアの方舟の鳩は、降り立つべき大地を見つけてついに船には戻らなかった。
カラスも、きっとそうだったのだろう。