A.D.2160 5/12 12:11
タルシスⅣ-Ⅱ
クェーカー邸宅
「お疲れのところお呼びだてして申し訳ありません。どうぞお掛けになって」
見覚えのある応接間に通されたカラスは、戸惑い混じりの曖昧な返事とともにソファに腰掛けた。
当たり前だが『フェニクス』のコクピットシートとは比べ物にならない柔らかさだった。あまりにふかふかとしているので、身体が沈み過ぎて安定しない。
それに、あまりに上品な部屋に通されたせいで、今の自分の恰好が嫌にみすぼらしく思えた。マヌエラからもらった服なのであまり悪く思いたくはないが、それにしてもデニムとクリーム色のパーカーというのはあまりにラフ過ぎる。
今の浮き足だった気分も相まって、身体の芯が余計に緊張するのを感じた。
そんな彼の落ち着かなさを見てとりながら、クェーカーはテーブルの上に手を差し出した。
紙の封筒が一通、そこに置かれていた。
決して分厚いものではない。封筒自体のつくりも質素だが、その分上質な紙が使われている。恐らくクェーカーの計らいだろう。
ここに入っているものにはそれだけの値打ちがあるのだ、と。
「どうぞ」
クェーカーが促す。静かで穏やかな声だった。
ギデオン曰く、彼女にはどこか得体の知れないところがあり、人に何かを強制させるような圧力があるという。
だが、カラスを見るその瞳に強圧的な色は一切無かった。静謐な優しさといたわりがあった。
陽だまりのなかにいるみたいだ、とカラスは思った。
(どうしてこの人は、そんな目で自分を見るのだろう)
そんなふとした疑問が、カラスのなかの戸惑いや不安を覆い隠した。彼は自分でも深く意識しないまま、封筒に手を伸ばしていた。
軽い、というのが第一印象だった。
だが、確かに厚みを感じる。そこには戦火に巻き込まれるまでの全てが書かれている。そう自覚すると、再び封を切る勇気が萎むのを感じた。
「中身を確認されないのですか?」
「……はい。まだ、ちょっと……」
「そうですか」
クェーカーは人差し指を曲げ、下唇にあてた。そのポーズで少し思案してから「お昼、ご一緒していただいてもよろしいですか?」と尋ねた。
カラスは一瞬きょとんとなって、ほとんど反射的に「はい」と答えた。
クェーカーが呼び鈴を鳴らした。すぐに隣室に控えていた執事が扉を開き、紅茶や軽食を乗せたワゴンを押し入れた。どうやらこの展開は織り込み済みだったらしい。成程ギデオンが注意するわけだ、とカラスは思った。
だが、やはりクェーカーに対して怖さは感じなかった。
あるいは今の彼女が、努めてそういう威圧感を出さないようにしているのか。それとも本当にこの場を楽しみ、喜んでいるのか、カラスには洞察しきれなかった。
テーブルの上に次々と食事が並べられていく。薄く切ったエッグサンドやほうれん草とベーコンのキッシュが、それぞれ食べやすい形で切り分けられている。クロテッドクリームが添えられたスコーンは一口で食べられる大きさだった。両端に持ち手のついた小さなポッドには、トマトスープが注がれている。そして小皿に少しだけマカロンが盛られていた。
料理は全て別々の皿に載せてサーブされている。どこからでもどうぞ、というクェーカーの気遣いだったが、そもそもカラスはアフタヌーンティーの作法など知らない。
それもまた織り込み済みなので、クェーカーは何も言わないままティーポットを持って紅茶を注いだ。そして特に促すこともなく自分からお茶に口をつけ、つやつやと焼き上がったキッシュを摘んだ。
女主人が勝手に食べ始めたのを見て、カラスもようやく手を伸ばすことにした。
ここ数ヶ月で『天燕』の食事に慣れてしまったため、クェーカーの用意してくれた料理はいかにも薄味に見えた。
だが試しにエッグサンドを齧ってみると、意外と塩胡椒が効いている。味の主張が強いだけに、ティーカップに注がれた濃いめのダージリンとも良く合っていた。
茶葉の苦味が強くなってくると、今度はスープが添えてあるのが嬉しくなる。少し酸っぱいが、かえって口の中が洗われる感じがした。
意外とお腹が空いていたのか、あるいは単に美味しかったからか、カラスは緊張を忘れてついがっついてしまった。そうして緊張がほぐれたタイミングを見計らって、クェーカーが質問した。
「カラスさん、天燕に乗り込んでから今日まで、いかがでしたか?」
「え?」
ティーカップに口をつけていたカラスは少しだけ義眼を左右に泳がせた。
そして、素直に答えようと思った。
「……楽しいですよ」
「楽しい?」
「はい」
何が、と言うとしっかり出てこない。いくつもの場面が頭のなかを通り過ぎて行く。
何も無い日にも騒がしさがあり、忙しい日には生き甲斐がある。カラスにとって『天燕』はそんな船だった。
「みんな、いい人だと思います。ペティも、マヌエラさんも、ルスランも……セレンは時々口うるさいし、イム・シウは相変わらず憎まれ口ばかりですけど。でも、一緒にいて嫌じゃない」
思い当たるクルーたちの名前を次々と挙げてから、ふとそのなかにギデオンの名前が無いことに気づいた。
いい人、と括るには少し言葉が足りないような気がしたからだ。
自分にとって船長がどういう存在なのか説明する言葉を、今のカラスは思いつかなかった。
「封鎖突破船の仕事は危険ですよ。そう思いませんか?」
「もちろんそうですよ。昨日だって、地球の低軌道でミサイルに追いかけられました。でも、自分は天燕のバウンサーです。そういう時のためにフェニクスに乗っている」
「……」
「クェーカー。貴女も、自分はフェニクスから降りた方が良いと思いますか?」
「ギドもそう言ったのですね?」
「はい」
暗に「降りるべきだ」と言われているようなものだった。
カラス自身、『フェニクス』とともに飛べる期間がそう長くないと分かっている。どれほど愛着を持って使おうと機械は機械であり、いつか必ず故障する。ましてやBFのように過酷な運用に晒される兵器はなおさらだ。
そしてそれ以上に、搭乗者の負担は絶大である。今でこそ強化手術のおかげで乗りこなせているが、年を重ねれば無理は出来なくなるだろう。
しかし、ギデオンやクェーカーが『フェニクス』から降りるよう望んでいるのは、そんな物理的な理由からではない。
バレット・フライヤーという兵器に染み付いた戦争の臭いから、少しでも遠く離れてほしいと願っているのだ。
模擬戦の時はギデオンも『フェニクス』に乗って戦うよう唆してきたが、あの時はそれがカラスにとって必要だと感じたからだろう。第一、その時点では命懸けの殺し合いになるとは思ってもいなかった。
実際、戦って、勝って、今もこうして『天燕』のバウンサーでいられる。バレット・フライヤーに乗ることで、カラスは居場所を見つけることができた。
だが今は正真正銘、本物の居場所を手に入れる機会が巡ってきている。
(天燕に乗って……それくらいのことは、分かるようになった)
カラスは無意識のうちに封筒の表面を触っていた。
「……分かっています。いつかは
一息に言い切ってから、ふと自嘲が漏れた。
分からないと繰り返し言ったが、過去の自分を知れば、その時の自分が何を目指していたかの手掛かりが見つかるはずだ。
だが、カラスにとって封筒のなかの
「逃げている……と、思いますか?」
「はい」
クェーカーは即座に答えた。
そしてすぐに「けれど」と付け加えた。
「カラスさん。貴方の身に降り掛かった不幸は、普通の人間ならば心が壊れてしまうほどに恐ろしいものです。直視するにはまだまだ時間が掛かるでしょう。
だから今は、貴方の戸籍を使って何が出来るか、その未来を考えてみたらいかがですか?」
カラスは思わず、くすりと笑ってしまった。
滅多にペースを乱さないクェーカーがきょとんとした顔をする。カラスはすぐに「すみません」と謝った。
「船長にも同じことを言われました。二人とも、裏で話を合わせてたんですか?」
「あら……まさか。ギドはあまりわたくしを信用してくれていませんから。そんなことはあり得ませんよ」
そう言ってクェーカーは苦笑した。
「けれど、そうですね……貴方よりいくつか歳上の意見として、わたくしたちの提案は悪くないと思います。今はどうぞ、ゆっくりと考えてみてください」
焦るな、とギデオンもクェーカーも言った。
二人とも無理にカラスの未来を決めようとしない。立場を使えば簡単に言うことを聞かせられるが、そういう選択肢を努めてとらないようにしている。
(半年前は、そういう気遣いも分からなかったかもしれない)
その時の自分が今より多少子供だったのか、あるいは人の心の機微を理解する機能が『天燕』での日々を経て甦ったのか。
それを知る手掛かりも、やはり手元の封筒のなかにあるのだろう。
「スコーン、もらっても良いですか?」
「どうぞ」
「ありがとうございます……これ、船長だったらクリームじゃなくてマーマイトを付けてたでしょうね」
「ふふっ」
カラスは冗談ではなく事実を言ったつもりだったが、クェーカーには笑い話ととられたらしい。
自分が他人を笑わせるなんて、とカラスは奇妙な感慨にとらわれた。
その後も他愛の無い会話を挟みながら昼食は続いた。最後のマカロンを摘み、ティーカップを空にした時、時計は14時を指していた。
クェーカーは屋敷の玄関まで出てカラスを見送った。
「カラスさん」
一礼して背を向けようとした時、彼女に呼び止められた。
クェーカーはほっそりとした身体の前で緩く両指を組みながら、穏やかな目で元少年兵を見つめていた。
「ひとつだけ……これはわたくしの勝手な想いですが、貴方の手に過去の記録が戻ったことが、とても嬉しいのです」
カラスは何も言えなかった。微笑みながら、しかし深い憂愁に満ちたクェーカーの表情が、どんな想いを秘めているのか読みきれなかった。
「ほんとうに……とても、とても嬉しいのです……」
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カラスを見送ったクェーカーは灰色ずくめの応接間に戻り、愛用の椅子に腰かけて「ふぅ」と息を吐いた。
昼食に使った皿は全て執事が下げてくれている。そして、下げたお茶の代わりにアールグレイを一杯運んできてくれた。
「ありがとう」
礼を言いつつティーカップを手に取り、しばらく香りを楽しんでから口をつけた。
少しだけ肩の荷が下りた気がしていた。
カラスの戸籍が見つかったと報告があった時、内心で興奮を抑えきれなかった。仕事終わりのカラスに対して、ギデオンを通さず直接メールを送ってしまったのも、自分らしくない浮足立った行動だったと思う。
だが、嬉しいという感情に嘘偽りは一切無かった。
あるべきものが、あるべき者のところに還った。
(これから先のことは、彼自身が決めること……)
ギデオンはきっと急かさないだろう。彼女自身も最大限の援助をするつもりだった。
タルシスの全ての市民が戦禍に巻き込まれた。カラスだけが不幸というわけではないが、特異な立ち位置にいることも事実である。全てを失い強化人間となった彼を一般人に戻すことは、そのまま復興のアイコンとなる。
「……わたしの色も、少しは白に寄せられたかしら」
そんな言葉が自然と口から洩れた。
あとは彼が回復していく時間と場所をしっかりと確保すればいい。それ以上のことをする必要は無い。
地球とタルシスの停戦によって、直接的な戦火は縮小した。時間は自分たちの味方のはずだと、聡明な彼女でさえ思っていた。
直後、一通の通信が手元に届くまでは。