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第16話:崩れ落ちる世界のなかで 上

A.D.2160 5/12 15:59

タルシスⅣ-Ⅱ

トラム沿線



 カラスは二つの世界を見ていた。


 一つは義眼の映し出す現実の光景。


 そしてもう一つは、脳に焼き付けられた過去の光景。


 世界の天井に穴が開いて、巨大な魔人が現れたかのように全てを吸い上げていく。人と物がぶつかり合い、潰れた果実のようになりながら、さらに無数の瓦礫とひとつになって見分けがつかない。


 人の身体など、少し潰して広げれば、ただの有機物の塊なのだという事実を否応無しに見せつけられる。


 脳細胞に残された深い爪痕は、彼の全認知能力に多大な負荷をかけた。どこにいるのか、何をしているのか。どこに向かっているのか、何が鳴っているのか。


 義眼が伝えてくる情報は絶対的に正しい。しかし聴覚には過去の絶叫と轟音が蘇り、嗅覚は血の臭いで飽和している。


 そして脳の奥から届く命令は、かつて彼自身が重く自分に課したものだった。




美羽みう、逃げないと……シェルターに……!!」




 自分でも何を口ずさんでいるのか分からないまま、カラスは人の流れに逆行して走り続けた。


 追いかけようとしたのは、トラムから降りた直後。記憶のなかにわずかに影が揺らめいているだけだが、彼には確信があった。



 間違いなく自分の過去に繋がる者だと。



 そしてその直後に爆発が生じた。


 発生源はトラムステーションの改札付近。乗降直後で最も多くの人で混雑するポイントである。


 角を曲がったばかりだったカラスは直撃を受けなかったが、それでも衝撃は相当なものだった。近くにいた何人かとまとめて吹き飛ばされ、地面を転がる羽目になった。


 それでも、爆心地付近にいた人間に比べれば幸運であろう。ステーションから吹き上がる火炎は生存者の存在を明確に否定している。すぐに警報が鳴り、我に返った者から救助や通報に取り掛かったが、騒動はここ一ヶ所だけではなかった。


 誰かが反対側の大地を指さして「見ろ!」と叫んだ。ステーションで発生したのと同じような爆発があちこちで点滅していた。


 カラスの聴覚は爆発のせいで麻痺していた。しかし、コロニー内で瞬くいくつもの破壊光を見た瞬間、脳の奥に封印されていたトラウマのスイッチが即座に作動した。



 そこから先は、理性的な行動をとれていたとは到底言えない。



 ただ、カラスはかつてそうしたように、記憶に残る少女の影を追いかけた。


 助けなければ。


 一緒に逃げなければ。


 その想いだけが、止まりそうになる彼の肉体を突き動かした。


 少女が立ち去った方向は憶えている。すでにステーション周辺は人で溢れかえり、混乱の様相を呈しているが、状況を冷静に観察する余裕は失せていた。


 都市のあらゆるディスプレイが赤く染まり、全てのスピーカーからは緊急避難の指示音声が流れている。人々は牧羊犬に追いかけられる家畜のように従順に、しかし無秩序に避難先へと流れ込んでいく。


 そこを逆方向に走るのは相当に困難だった。


 何度となくぶつかられ、時には弾き飛ばされた。どれだけ罵声を飛ばされたか分からない。そもそも認識してすらいなかった。



「美羽……ダメだ、世界が崩れる……! 逃げないと、美羽……!!」



 不意に突き飛ばされ、カラスは地面を転がった。逃げ惑う人々の脚が無遠慮に彼を蹴りつけていった。痛みは感じないが、本能的な恐怖を覚えてカラスは道路の端まで這いずった。


 彼の頭のなかでは、タルシスⅣ-Ⅱの道路で蹴り転がされたのではない。


 今はもうない、彼自身の生まれ育ったコロニーの路上で突き飛ばされたのだと、そう思い込んでいる。


 自分はまだあの日に囚われている。世界の背骨が折れ、空に漆黒のあなが開いた日のことを。


「逃げっ、逃……!」


 ヒィィィ、と喉の奥が唸った。肺と気管支の接続部がぶるぶると震え、過剰に空気を吸い込もうとする。頭のなかの世界と目で見る世界が混線を起こしていた。二つの像がぐちゃぐちゃに入り交ざるところに、呼吸器の異常な働きが加わったことで、カラスは指の一本も動かせなくなった。


 手足の先端が震えている。力が入らない。今、息を吸っているのか吐いているのかも分からない。



(誰だ? 俺は)



 薄れかけた意識のなかで、彼はふと自分自身に問いかけた。


 現在と過去は頭のなかで捻じれ合い、そして円環をなしている。出口がどこにも無い。ミルクの混ざったコーヒーは、再び元の状態へと分離されることはない。カオスとはそういうものだ。


 この半年の間生きてきた「カラス」という人格と、暗闇の奥深くへと葬り去られた「誰か」。その二つを統合する余裕は今の彼にはない。


 ただ、名無しの孤児みなしごとして地面に転がっていることしかできない。


どこにいるのかも、何をすべきなのかも、そしてどこに向かうべきなのかも、全ての認知は頭のなかにある混沌という名の重力源に引き裂かれる。向かうべき未来はどこにも無い。全て暗闇に吸い込まれ、脱出できない。




「カラスさんッ!!!!」




 がくんっ、と身体が揺れた。力の抜けた首がコンクリートの地面にあたり、ごつんと音が鳴った。どこか遠くで痛みが発生したような感じがした。


 ただ、混沌のなかに何かの感触があった。


(これは……)


 意識は朦朧としているが、肩のあたりに暖かな感じが宿っている。誰かが支えてくれている。


 足のつかない深みで溺れていると思っていた。


 すとん、と川底に足がついたような感じがした。


 現実を見る余裕が生まれ、カラスは義眼がセレン・メルシエを捕捉していることを認識した。




――――――――――――――――――――――――――――――――――――




 カラスを見つけられたのは、必然と偶然の両方が揃ったからである。


 ステーションが爆発した時、セレンの乗ったトラムは爆心地をわずかに離れていたため、車体には被害が及ばなかった。緊急停車装置が作動して乗客は車内に閉じ込められる。誰もが状況を理解できず混乱するなか、セレンは即座に意識をスイッチして集中状態に入っていた。


 自身に及ぶ危険の正体は何か、そしてその強度はどの程度か。混乱という過程を飛ばして、彼女の思考は状況を整理することに完全に注力していた。


 人為的な爆発であることは間違いない。タルシスのトラムは全て電気で動いている。化石燃料車のように可燃物を積み込んではいない。何より、視界の端で同質の光が瞬いたのが見えた。同時多発的に爆発事故が起こるなどありえない。


 誰かの悪意が働いている。


 破壊されたのは後方のステーション。車体に問題はないが、連続して爆発しないとも限らない。混乱が高まれば乗客そのものが凶器になる。


 車内に臨時アナウンスが流れ始めた。異常発生のため運行を停止すること、状況を確認中であること、指示があるまで車内で待機すること。それらが精巧に構築された機械音声で流される。


 以前は人間の車掌が乗り込んでいて、肉声で指示を出していた。しかし戦争による人手不足で安全運航業務の一部は機械任せになっている。


 機械は仕事を誤らない。課せられた使命は完璧に完遂する。


 しかし人間の側が機械の仕事を台無しにする事例は、戦争を体験したタルシスでは往々にして存在した。この時セレンが乗り込んでいたトラムでも同じことが起きた。誰かが手動ハンドルでドアを開けたのだ。


『危険ですので降車許可があるまでは車内に出ないでください』


 機械音声がそう言ったが、ドアが開いたら出て行くのが人間である。


 風呂場の水が底から抜けていく時のように、一斉に乗客が出口へと殺到した。そこが開いたということは逃げるべきだということだ。


 実際、ドアが開いたことで反射的に逃げる判断を下したのは、ごく一部の乗客のみである。しかし一人動けばもう一人、二人動いたら四人という風に、人は真横の他者を見て動く。一両がそういう動きをすれば、連結した隣の車両でも同じことが起きる。


 瞬く間に車内は人の濁流で溢れかえった。それは、タルシスⅣ-Ⅱのあらゆる道路上で起きたことと本質的に同じである。


 逃げているから逃げる。道が限られているから詰まる。それだけの話に過ぎない。


 だからこそセレンは座席に張り付くことを選んだ。


 荷物は惜しいが諦め、人の流れが落ち着くまでその場から動かない。近くに手すりがあったのも幸いだった。「どけよ!」「早く行け!!」とそこここで怒声が飛んでいるが、それに惑わされず固まり続ける。一度巻き込まれたら骨を折りかねない。最悪、腹を踏み抜かれて内臓破裂ともなりかねないのだ。


 車両から降りた人々がばらばらと線路上に広がっていく。人の圧力が減ったのを確認してから、セレンは顔を上げてふうと溜息をついた。怪我というほどではないが、どこかのタイミングで圧迫されたのか左肩が痛かった。動く分には問題ない。


 線路の向こうでカラスが血相を変えて走っていくのが見えたのは、その時だった。


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