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第16話:崩れ落ちる世界のなかで 下

 カラスを建物の影まで引っ張っていった時には、すでに人の流れはある程度落ち着いていた。騒動の核がシェルター付近まで流れただけかもしれないが、今の二人にとっては好都合だった。


 近くのビルの壁にもたれさせた時には、すでにカラスの呼吸はかなり落ち着きを取り戻していた。


 それでも依然として肩が大きく上下しており、まだ立って逃げられる様子ではない。


(イムさんが言ってたのって、これのことだったんだ)


 普段はあまり接点の無いイム・シウが、わざわざ声をかけてきたことがあった。曰く、『フェニクス』のオペレーション中に何か異常が発生した場合は、すぐに帰投ないし戦線離脱させるようにとのことだった。


 一応ギデオンにも確認したが、イムと同じ判断だった。過去の出来事がフラッシュバックしてパニックに陥るかもしれないと言っていた。


「それなら、バレット・フライヤーになんか乗らなければいいのに」


 その時そう言った記憶がある。


 今はなおさら強く思う。


 だが『フェニクス』のコクピットにいる時の彼は、他のどのタイミングよりも安心しているように見えた。一番近い位置でそれを見てきたセレンはそのことを知っている。


 強引に『フェニクス』を取り上げたところで、カラスの居場所も役割も奪うだけだ。



(……でも、だとしても、やっぱり……!)



 乗せられない。こんな状態を見てしまえば。


 たとえそれがどれほどカラスの根幹を揺るがす判断だとしても。


「カラスさん、落ち着きましたか?」


「……すまない」


 肩を波立たせながら元兵士は答えた。


「何があったんですか? あんなに焦って……カラスさんらしくないですよ」


 騒動の音が遠くへと流れていく。もうかなりの人数がシェルターまで移動したのだろう。セレンはかえって安心した。人の流れは自分ひとりの力では制御できない。


 音に置き去りにされたような空間のなかで、セレンはカラスの言葉を待った。どうせ今からシェルターに向かっても、再び混乱に巻き込まれるだけだ。


(それなら宇宙港まで、天燕まで逃げた方が……)



「妹、だったんだ」



 逃げることに向けていた意識が、ぐいとカラスの言葉に引き寄せられた。


「え?」


「さっきの騒ぎ……あれが起きる前、俺の妹がいた……強化人間にされた……!」


 セレンはこの時初めて、彼が手の中で一封の封筒を固く握り締めていることに気づいた。


「妹って……カラスさんの?」


 彼は力なく頷いた。


 セレンは判断に迷った。今のカラスは明らかに普通ではない。妹がいるという話も突拍子が無さすぎる。混乱した人間が頭のなかにあることを適当に喚いているだけかもしれない。


 そう考える一方で、完全に否定することもできなかった。


 相手がまともかどうか、自意識がはっきりしているかは、話し方を聞けば分かる。今のカラスは明らかに憔悴しきっているが、妹に関する言葉遣いだけは正気を保っていた。むしろ、過去の深い思い出に起因するが故に、簡単に揺らいだりはしないのだろう。


 あるいは、いま目の前で蹲っている青年こそが、自分がカラスと思い込んでいた人間の真の姿なのではないか。


 人の気配が遠く過ぎ去り、空になった建物が警報音を浴びながら虚ろに立ち並んでいる。まるでコロニーから自分たち以外の人間がいなくなってしまったかのようだ。


 そんな死に絶えた街に置き去りにされた彼は、少年兵として戦う以外の道が無かった。



 引っ張り上げないと、とセレンは不意に思った。



「……緊急乗船命令が出ています。とにかく今は、天燕に向かいましょう。私たちだけじゃ何も決められない」


 カラスの横に腰を下ろし、腕を自分の肩に回させる。あまり力の入っていない身体は重かったが、一度立ち上がりさえすればカラスも自立できた。


「カラスさん」


 セレンはもう一度呼びかける。いまするべきことを、彼女はしっかりと認識していた。それを伝えることも自分の役目だと感じていた。


 カラスは目を伏せたまま、ゆっくりと頷いた。


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