いつもは柔和な物腰と優しい口調で常に一線を引いているような人だったのに、あの蔵に閉じ込められた時は少し違った。
何よりも千尋がさりげなく鈴も知らない間に血を浄化してくれていたのだと知った時は、胸が熱くなったのを今も覚えている。千尋の腕の中は温かくて、その心音はとても安心出来た。
けれど、千尋の心は永遠に鈴の手に入らない事を鈴は知っている。千尋には初が居るからだ。そんな二人の中に割って入ろうとは思わないし、それは思ってはいけない事だと言うことも鈴は分かっていた。
「雅さんが心配したのはこういう事だったのかな」
あの時雅は何度も鈴に忠告してきた。それは千尋がとても魅力的で、きっといつか鈴が千尋の事をこんな風に思う日が来るだろうと言うことを知っていたからだ。
「流石だな。今までの人たちもきっとそうだったんだろうな」
これがこの恋愛小説のような感情なのかはイマイチよく分からないが、歌を歌っている時に伴奏してくれたり、たまに意地悪をしてきたり、いざと言う時はとても頼りになったり、そういう所が多分、千尋の魅力なのだ。
そんな話を正直に雅に話すと、雅は目を丸くして鈴を凝視してきた。
「やっぱり! ほら言わんこっちゃない! だからあれほどここに嫁ぐのは止めておけって言ったんだよ!」
「でも、あの時はこんな風になるとは思っていなかったので」
「どうすんだよ! いや、まだ自覚しちゃ駄目だよ。傷つくのはあんたなんだからね! それにしても……あんたには闘争心は無いのかい?」
「闘争心、ですか?」
「そうだよ。普通、そこまで行ったら初から奪ってやろう! ぐらいに思わないのかい?」
「そう言うものなのですか? そんな事考えた事ありませんでした」
「いや、あたしもよく分かんないけどさ」
「でもね、雅さん。あの千尋さまが選んだ方ですよ? 絶対に素敵な人だと思うんです!」
「いや、それはどうだろ……だって、罪滅ぼしで付き合い出したんだぞ?」
「絶対にそうに決まっています! 最初は罪滅ぼしでも、本当にそれだけって事は無いでしょうし、それに何ていうか千尋さまには本当に幸せになって欲しいんです」
「あいつは十分幸せだと思うけど?」
「いえ、早く龍の都に戻れたらいいのになって思うんです。その時には私はもう居ないかもしれないけど、千尋さまがずっと笑っていられたらいいなって」
「そういうもんかね?」
「そういうもんです。嫉妬とかヤキモチとかお話にはよく出てくるのですが、私にはまだよく分かりません」
鈴が知っている愛情は両親からの愛情や雅達の愛情だけだ。そのどれも受動的な物で、積極的な愛についてはまだよく分からない。
正直に告げた鈴を見て雅が困ったように笑った。
「それじゃあさ、地上に居る間はあんたが千尋を幸せになしてやりな」
「はい! 頑張ります」
鈴の寿命など龍の千尋からしたらそれこそ一瞬だろう。そのほんの一瞬だけでも鈴がここに嫁いできて良かったと、鈴と居て幸せだったと思えるように頑張ろう。
鈴が拳を握りしめて力強く頷くと、雅はやっぱり困ったように微笑んだ。
けれど、この決意がこの後すぐに叶えられなくなるかもしれない事など、この時はまだ誰も知らなかった。
その日の夜、深夜に窓を叩く風の音で鈴は目を覚ました。何だか急に冷え込んだようで、手足が冷たくなっている。それと同時に背中まで軋み出した。
「っ……雪、かな」
千尋はこの痛みは気圧の変化のせいだろうと言っていたけれど、今回の痛みは少し酷い。恐らく体が冷えていた事もあるのだろう。
鈴は手探りで明かりをつけると、引き出しを開けて戸惑った。どちらの薬を飲もうかと考え、蘭の薬を手に取り飲んだ。やはり舌が痺れるが、以前ほどではない。
「本当にこれで治るのかな……」
蘭が嘘をつくとも思えないし、それが薬の好転反応だと言われてしまえば、それを信じるしかない。何よりも蘭の薬は本当に良く効いたのだ。
それから鈴は、やはり冬の間は蘭の薬を飲もうと決めた。痛みは大抵深夜にやってくる。
佐伯家に居た時のように冬はずっと寝不足になってしまって迷惑をかけてしまうという事なく、少しでも早く眠りについてきちんと神森家を支えたかった。
心のどこかで、神森家から追い出されたくないという思いがあったのかもしれない。
最初のうちは舌の痺れや目眩ぐらいだったが、それは好転反応だと自分に言い聞かせ、どうにか耐えていた。
ところが、少しした辺りからそこに倦怠感や息苦しさが加わりだしたのだ。