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第100話

 千尋はその日も書庫に居た。流星に言われた通り、龍と人間の婚姻についての本を読み漁っていると、あっという間に夜が明ける。


 どうやら気づけばここに一晩居たようだ。楽は心配していないだろうか。そんな事を考えながら何気なく時計を見ると、既に昼前だった。


「はぁ……確かに流星の言う通り他に方法は無さそうですね」


 千尋は読みかけの本を閉じると大きなため息を落として席を立った。一度戻って風呂に入り、少し寝てからもう一度来よう。


 書庫を後にした千尋はそのまま真っすぐ家に戻ろうとしてふと、鈴が言っていた言葉を思い出した。


『ちゃんとご飯は食べてくださいね!』


 そう言った鈴の顔は本当に心配そうで、誰かが自分の事をこんなにも心配してくれるのかと驚いた。


 龍は基本的に誰にも縛られず自由を好む。それは番関係であってもだ。だから誰かの体調など心配もしないし、誰にも心配などされない。


 ましてやあんなにも心配そうな顔をされる事など、ほとんど無いと言ってもいい。


 千尋は心配する鈴の顔を思い出しながら、帰り道に何かを買って帰ろうと考えた。家に戻っても食べる物など何も無いし、楽も食事までは作れない。


「千尋?」


 帰り道にある惣菜ばかり置いてある売店でいくつか食料を買い込んでいると、突然後ろから声をかけられた。


 振り返ると、そこには初と初の友人か取り巻きかは分からないが、初を含めて三人の女性が立っている。


「初。こんな所で奇遇ですね」


 千尋が言葉をかけると、初は花が綻んだように微笑む。


「今、あなたの屋敷へ行ってきた所だったのよ」

「私の?」

「ええ。こちらに戻ってきてから少しも二人の時間が取れないから、あなたの所の召使いに行き先を聞いてこれから向かう所だったの」


 そう言って初はいつものように微笑むが、何だかその笑顔が今までと同じ物とは思えない。


「そうだったのですね、すみません。少し調べたい事があったのですよ」

「そうなの? あなたは本当に仕事熱心ね。せっかく地上から戻ったばかりなのだから、少しは羽を伸ばせばいいのに」


 そう言って誇らしげに笑う初は、どうやら千尋が都の仕事をしていると思い込んでいるようだ。これは下手に調べ物の内容は言わない方が良いと察した千尋は、いつものように穏やかに微笑む。


「そうはいきません。少し離れた間に何が起こっているかは把握しておかないと、いざ戻った時に困るでしょう?」


 わざと誤解をするように慎重に言葉を選ぶ千尋に初は気づかない。


「それはそうね。でも千尋、安心して。きっとあなたの刑期はもうすぐ終わるわ」

「どういう事ですか?」


 流星の調べた事が正しければ、初もあの事件に関わっているという。その初がこんな事を言い出すなんて、どう考えても裏があるに決まっている。


 千尋が首を傾げると、初は得意げに微笑んだ。


「まだ秘密よ。でもこれであなたは地上から戻って来られるわ。もうこれ以上あなたが下等生物の世話をしているのを、私は耐えられないの。今期の花嫁のお役目もすぐに終わるかもしれないわね」

「初」


 千尋は悪気なくそんな事を言ってのける初を嗜めると、出来るだけ笑顔を絶やさないよう気をつけながら言った。


「あまり変な事に首を突っ込んではいけませんよ?」

「分かってるわ! 気をつける。それじゃあまたね、千尋」

「ええ、それでは失礼します」


 そう言って千尋は初と友人達に挨拶だけして歩き出す。後ろからは女子らしいはしゃぎ声が聞こえてくるが、千尋はそのまま真っすぐ家路についた。


 きっと、今の千尋は酷い顔をしているに違いない。


「龍にとって人間の価値など、未だに大なり小なりあんな感じなのでしょうね」


 人間との付き合いが長くなるにつれて、その愚かさも醜さも美しさも儚さも知った千尋にとっては、もう人間の事を単純に下等生物だとは思えない。


 けれど、きっと以前の千尋はやはり初のような事を考えていたのだ。知らぬうちに。


 屋敷に戻ると、何故か流星と息吹が居た。楽がどうやらもてなしてくれていたようで、二人して優雅にお茶など飲んでいる。


「どうしたのですか? 二人揃って」


 千尋が尋ねると、息吹が畏まった様子でお茶を静かに置いた。


「流星に聞いたんだよな? 全部」

「ええ」

「だったら話は早いな。もしかしたら、近々向こうはまた何か仕掛けてくるつもりかもしれないって言いに来たんだ」

「どういう事です?」


 今度は何だと思っていると、今度は流星が話し出す。


「んー多分、千尋くんが地上に戻るのを良しとしてないみたい。多分、今回の花嫁は危険だって気づいたみたいだよ。君がここに居る間に何か仕掛けてくると思う」

「人間の事を下等生物だなどと言う人が、そんな心配をしますか?」


 眉根を寄せて千尋が言うと、流星と息吹が噴き出した。


「あいつ、そんな事言ってんの!? これだから深窓のお姫様はいつまで経っても成長しない! はぁ……ほんっと、あの性格はどうにかなんないかね? 流石の私もそのうちキレそうだよ」

「いや息吹は元々大分短気だけどね。でも今回は凄く我慢してて偉いよ」


 そう言って流星は息吹の頭を撫でると、息吹は嬉しそうに笑う。


「そもそも彼女はあんなでしたか? 以前はもう少し控えめだったような気がするのですが」


 ほんの100年前に会った時とは随分違う気がするのだが? そう思いつつ二人に尋ねると、二人は真顔で頷いた。


「あれが本性だよ、千尋くん。あのね、彼女は千尋くんが思ってるほどか弱くもないし繊細でも無い。今回は焦ってんのか結構ボロ出しまくりだね」

「そろそろ取り繕え無くなってきたんだろ。いつまでも芝居してられる訳じゃないんだから。婚姻さえ結べばこっちのもんだとでも思ってんだって」


 番になるとは、龍の婚姻とはそういうものだ。特に高官であれば番関係は滅多に解消しないし、ましてや婚姻を結んだらよほどの事が無い限り別れる事は出来ない。だから皆、番関係を数人と結び、婚姻まではとても慎重になるのだ。


「そうですか。あれが彼女の本性なのだとしたら、女性の中では好きという分類も随分変わってしまいますね」


 名前の通り、いつまでも初々しい所が気に入っていたのだが、どうやらそれも芝居らしい。


「あー……ね。でもまぁ、君だってそう言ってただけで元々そんな興味ないでしょ?」

「というよりも、そうでも言わないと正直に言ったら流石にあちこちから叱られそうですからね」


 苦笑いを浮かべた千尋を見て流星と息吹は声を出して笑う。


 初は引っ込み思案で大人しく、恥ずかしがり屋だと言うのが今まで千尋が初に抱いていた印象だったが、ここ数日の初はまるで人が変わったかのように人間をこき下ろす。確かに昔からそういう部分はあったが、今回ほど酷くはなかったのだ。


「確かに今回の花嫁が決まったと話した辺りから初の態度はおかしいですよね。なるほど、私をどうにかして都に留めるつもりですか」

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