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第112話

 鈴にはまだ恋というものがどんな物かはっきりと分からない。だから余計にこの気持ちをどう受け入れれば良いのか分からなかった。


 千尋と別れて鈴が洗濯をしに屋敷の裏に回ると、楽が足を投げ出して冷たい石段に座り込んで俯いていた。


 鈴は何て声をかければ良いのか分からなくてとりあえず洗濯物を始めると、楽は鈴が居る事に気づいたのか、こちらを見もせずにポツリと言う。


「なんで千尋さまは人間の為に里帰り返上してまで戻ったんだよ」

「……それは……申し訳無く思ってます」

「その原因お前だろ? お前、千尋さまに何かしたのか?」


 楽の言葉に鈴は思わずキョトンとしてしまった。


「私が千尋さまに、ですか?」


 一体鈴が千尋に何を出来るというのか。むしろ何も出来なくていつも何か出来ないかと考えているというのに。


「私は何も持っていません。楽さんの言うように千尋さまの為に出来る事もないです。出来るのなら毎日こんな思いをしていません」


 何せ自分に自信の無い鈴だ。蘭や菫であれば多少は言い返す事も出来たのだろうが、鈴には誇れる事が何もない。


 鈴の言葉に楽はいきなり立ち上がって叫んだ。


「……じゃあ何でだよ!? 人間って弱くて何の力も無くて無知ですぐ死ぬのに、どうして千尋さまはお前なんかの為にわざわざ戻ったんだ! 人間なんて放っておいてもどうせすぐ居なくなるのに!」


 その言葉に鈴は思わず立ち上がった。滅多に怒らない鈴だが、千尋のやっている事がまるで全て無駄だと言われているような気がしたのだ。


「楽さんの仰る通り、人間はすぐに死んでしまいます。そんな弱い種族を千尋さまはいつも心を砕いて守ってくださっている。あなたの今の言葉は、千尋さまがされている事を否定しているようなものです」

「否定なんてしてない! でも、どうして千尋さまがこんな目に遭わないといけなかったんだよ! あの方は龍の都を支える高官の一人なんだ! こんなちっぽけな種族のお守りしてるような方じゃないんだよ!」


 そう言って怒鳴る楽の目には涙が浮かんでいる。きっと、千尋の事が好きで好きで堪らないのだろうけれど、千尋の事を本当に見ているのだろうか?


「楽さんは、千尋さまが高官だからそんな風に慕っているのですか?」

「は?」

「もしも千尋さまが高官でなければ、あなたにとって千尋さまは価値がないのですか?」

「そ、そんな訳……」

「無いですか? 本当に? あなたの言い方は、まるで高官ではない千尋さまは千尋さまではないと言っているように聞こえます」

「……」


 いつもの鈴ならここでハッとなって生意気を言いましたと頭を下げるが、今回はそれをしなかった。悔しくて仕方なかったからだ。


 高官ではない千尋を認められないのなら、ここで今龍神をしている千尋は一体何の為に居るというのだ。今千尋がやっている事は全てが無駄だとでも言うのか。


 龍の都の人からしたらそうかもしれないけれど、人間からしたら千尋の存在は偉大で、神様なのだ。その神様を侮辱されるのは許せない。


「私達にとって、千尋さまは神様です。この土地を守り続けてくれている、とても偉大な方です。私を責めるのは別に構いませんが、千尋さまがされている事を否定しないでください」


 鈴はそれだけ言って深呼吸するといそいそと洗濯に戻った。こんな事を誰かに言うのは生まれて初めての事で、まだ心臓がバクバクしている。


 流星に楽をよろしくと言われたのに、早速喧嘩を吹っかけてしまった自分を恥じながら洗濯をしていると、突然後ろから怒声が聞こえてきた。


「なんだよ! お前らの神様なんて知るか! そもそもこんな事にならなきゃ千尋さまは今頃初さまと婚姻を結んでたんだ! それなのに……何でこんな人間なんかっ!!」

「!」


 振り向くと楽が思い切り腕を振りかぶっていた。殴られると思って鈴は咄嗟に頭を抱えたが、痛みはいつまでも襲っては来ない。


 恐る恐る目を開けると、そこには腕を捻り上げられる楽と、見たこともないぐらい怖い顔をした千尋が居た。


「楽、あなた今、何をしようとしたのですか?」

「……」

「そりゃ言えませんよね。まさか私の花嫁に手を出そうとしたなどとは」


 ゾッとするような千尋の声に、楽だけではなく鈴も震え上がった。こんな千尋は見たことない。口調は穏やかなのに、その声音に一切の温度が無かったのだ。


「っ」

「本当にあなたを見損ないそうですよ、楽。あなたは私が居ない間、随分初に傾倒していたようですね」

「そ、そんな事……」

「無いでしょうか? あなたの価値観はまるで高官達と同じ。私が最も嫌うあの方たちと同じです。まさかあなた、私が好きで高官の役職についたなどと思っていませんよね?」

「え?」

「私は高官の家に引き取られたから高官になっただけで、そうでなければ高官などにはなりませんよ。高官になって良かった事など、しいて言えば書庫に出入りが自由に出来ることぐらいです」

「嘘だ……だって、初さまはそんな事……」

「初ですか。初が私の何を知っているのです? 彼女とは幼馴染という繋がりしか無いと言うのに」


 呆れたような千尋の手にはまだ楽の腕が握られている。


「千尋さま、それ以上ひねり上げたら楽さんの腕が折れてしまいそうで怖いです」


 思わず止めに入った鈴を、千尋が静かに見下ろして頷く。


「そうですね」


 短く返事をした千尋はようやく楽から手を離した。その拍子に楽は地面にドサリと落ちる。


 楽の腕は千尋が握りしめていた所が痛々しく腫れていて、鈴は慌ててハンカチを濡らして楽の腕に触れようとしたが――。


「だ、大丈夫ですか? 楽さん」

「触るな! 人間なんかと馴れ合う気はないんだよ!」

「それは分かりますが、手当はしないと……」

「鈴さん、放っておいて良いですよ。そんなのは龍にとって怪我のうちにも入りませんから」

「いえ! いいえ! いけません。怪我は怪我です! 後で何かあったらどうするのですか!」


 怪我の後遺症が怖い事は誰よりも鈴は知っている。それを思い出したのか、千尋は少しだけ視線を伏せて頷いた。


「そうですね。楽、手当をしてもらいなさい」

「……はい」


 相変わらず冷たい声に楽は素直に鈴に向かって腕を差し出してきた。そっと腫れた箇所に触れると、既に熱を持ち始めている。


「炊事場で喜兵衛さんに氷をもらってしっかり冷やしてくださいね。それからお風呂にはつけない方がいいと思います」

「……」

「楽」

「……分かったよ」


 千尋の圧に負けたように楽はそっぽを向いてその場を立ち去った。鈴はそんな楽の後ろ姿をハラハラした様子で見ていたが、不意に後ろから千尋に抱きしめられる。


「あまり心配をさせないでください、鈴さん」


 千尋の長い髪が鈴の頬に一束落ちてきた。鈴は驚いて思わず顔だけで千尋を見上げると、千尋は困ったような顔をしてこちらを見下ろしている。


「すみません。また生意気を言って楽さんを怒らせてしまいました」

「本当に、早く気づいて良かったです」

「……助けてくださってありがとうございました」

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