「いいえ。あなたを助けるのは私の役目ですから。楽とは少し距離を置いた方がいいかもしれませんね。まさかあんな事までするとは思ってもいませんでした」
そう言って千尋はようやく鈴の体を放した。
「いえ、私が悪いんです。少しその……腹が立ってしまって、挑発のような事をしてしまったので」
「挑発ですか。あなたが? 珍しいですね。また日本語を間違えていませんか?」
「わ、私だってたまには怒ります!」
冗談めいてそんな事を言う千尋に思わず鈴が頬を膨らませると、そんな鈴をみて千尋が笑う。
「何をそんなに怒ったのです?」
「え?」
「鈴さんが自分以外の人に怒るのはとても珍しいでしょう? 何に怒ったのですか?」
「そ、それはえっと……な、内緒です!」
「おや、内緒ですか。それは残念ですね。とにかくあなたが無事で良かった。ですが、今日は私が見つける事が出来たので事なきを得ましたが、次からは迂闊に楽を挑発しないよう気をつけてくださいね」
「はい、それは本当に……気をつけます」
鈴は千尋の言葉に深々と頭を下げて言った。
もしも千尋が来てくれなかったら、それこそ歯の一本や二本ぐらいは折れていたかもしれない。もしもそんな事になったら、千尋のさっきの怒り方を見る限り自惚れる訳ではないけれど、楽はきっとタダでは済まなかっただろうから。
♠
千尋は鈴が洗濯物を持って裏庭に回るのを見届けてから楽を探しに向かったのだが、思いの外近くに楽は居た。
しかも間の悪いことに思い切り鈴と鉢合わせをしてしまっていたのだから笑えない。
すぐに飛び出して行けば良かったのだけれど、ふと千尋は思った。もしかしたら楽から何か聞けるかもしれない、と。
千尋や流星には話さなくても、案外鈴にはポロリと本音を言ったりしないだろうか? そう思ったのだが、まさかあんな事になるだなんて思ってもいなかった千尋は、そのまま壁の奥に身を潜めて二人の会話をしばらく聞くことにした。
最初は楽が一方的に鈴を責め立てていたが、話が千尋の事になった途端、それまで大人しく洗濯をしていた鈴が徐ろに立ち上がって、言い返しだしたではないか。
「これは珍しい」
あまり怒るという事のない鈴を見守っていると、だんだん話がエスカレートしていく。しかも鈴はどうやら千尋の事について怒ってくれているようだと気づいた時には、思わず両手で顔を覆ってしまった。
「鈴さん、あなたという人は!」
いつだったかこんな風に愛情を向けられたいと鈴を見て思った事があったが、どうやら鈴は千尋の事を多少は好いてくれているようだ。
けれど喜んでいられたのは最初のうちだけで、鈴があくまでも千尋の事を龍神としか見ていない事を知ってショックを受けてしまった。
何だか感情の上下が激しすぎて苦しくなってきた頃、楽が鈴の言葉に激昂して腕を振り上げたのだ。
急いで飛び出した千尋は、気づけば加減をするのも忘れて楽の腕を捻り上げていて、鈴に止められるまで千尋が力を緩める事はなかった。
楽が去ったあと堪らずに鈴を抱きしめたが、相変わらず鈴は小さくて柔らかい。
何だかそれがふとした拍子に儚く砕け散りそうで怖くなってしまう。
それを隠すようにからかい混じりに鈴に注意すると、鈴は深々と千尋に頭を下げてきた。
「はい、それは本当に……気をつけます」
「ええ、そうしてください。さて! それでは洗濯を終わらせてしまいましょう」
「そうですね。早くしないと夕飯の支度に間に合わなくなってしまいます!」
そう言って鈴はまたしゃがみこんで洗濯を始めたので、見様見真似で千尋も鈴の隣にしゃがんで立てかけてあった洗濯板を持つと、それを見て鈴はギョッとしたような顔をして千尋を見てくる。
「ち、千尋さま? て、手伝ってくださるのですか?」
「ええ。いけませんか?」
「い、いけなくはないですが、水がとても冷たいので、千尋さまの手が荒れてしまいそうで……」
言いながら鈴はじっと千尋の手を見つめている。そんな鈴を見て千尋は笑った。
「大丈夫ですよ。私は水龍なので、水の中では自分の体を水の膜で覆う事が出来るのです」
「そうなのですか!? す、凄いですね! それじゃあ冷たさとかも感じないのですか!?」
目を輝かせてそんな事を言う鈴を見て千尋は思わず目を細めた。
「凄いでしょう? まぁ、冗談なんですけどね」
「え……じょ、冗談?」
「はい。冗談です。そんな便利な進化は流石に出来ていませんね、今のところ」
「ど、どうしてそんなうっかり信じてしまいそうな冗談を……?」
「ふふ、すみません。目を輝かせるあなたが見たかったので、つい」
愕然とした顔をする鈴を見てとうとう笑った千尋を見て、鈴の頬はみるみる間に膨らんでいく。
「もう! 知りません!」
「はは! ほら、手が止まっていますよ、鈴さん」
千尋の言葉にそっぽを向いていた鈴がハッとしてゴシゴシと洗濯をし始めた。
洗濯が終わったら絞って干す。こんな事をしたのは初めてだったが、鈴と一緒に過ごす時間はそれがどんな事であっても楽しい。こんな何気ない時間さえ楽しいと思える事に、誰よりも千尋自身が驚いていた。
「千尋さま、あそこの紐に届きますか?」
「ええ。どれを干します?」
「これをお願いします」
そう言って渡されたのは人数分のシーツだ。いつも千尋のシーツが真っ白なのは鈴がこうして洗ってくれていたのだと、そんな事を今更実感する。
「鈴さん、いつもありがとうございます」
何だか嬉しくて千尋が礼を言うと、鈴は満面の笑みで言った。
「お礼を言われるような事は何もしていませんよ。それに私、シーツとか大きい物を洗うのが大好きなんです」
「何故です? 大きいと大変でしょう?」
「そうなんですけど、何ていうかえっと……た、た、」
「達成感?」
「それです! それがあるので。それで、干してあるのを抱きかかえて取り込む時はもっと好きです。やりきったなーって思うので」
「なるほど。鈴さんは日常の中に小さな幸せを見つけるのが上手なのですね」
「そうでしょうか?」
「そうだと思います。私だったらきっとそうは思えません」
千尋が言うと、鈴は恥ずかしそうに笑った。
「褒められちゃいました。また暖かくなったら一緒に洗濯しましょう、千尋さま」
「ええ、喜んで。その時までに私は手を水の膜で覆えるよう練習しておきましょうか」
「ど、どうしてそんな意地悪を言うのですか!」
「すみません、可愛くてつい」
「もう!」
鈴はそう言ってまたそっぽを向いてしまった。
「あんた達、居ないと思ったらこんな所で何戯れてんだい?」
そこへ、いつからそこに居たのか雅が呆れた様子でやってくる。
「雅さん! 千尋さまが意地悪をするのです!」
「千尋が? だから言ったろ? こいつは見た目に反して性格悪いよって」
「いえ、別に性格が悪い感じではないのですが……」
「雅、あなたそんな事を鈴さんに言っていたのですか?」
「言ったよ。なにさ、本当の事じゃないか」
「本当の事だとしても、どうしてそれをこれから花嫁になろうとしている人に言うのですか」