「そんな嘘ついたら後々可哀想じゃないか! それよりもあいつ! 楽だったか? あいつ何なんだよ!」
どうやら楽は雅にも喧嘩を売ったようだ。何だかそれが容易に想像出来てしまって千尋が肩を竦めると、雅は腰に手を当てて鼻息を荒くする。
「突然炊事場に来たと思ったら、氷寄越せって! 氷は貴重なんだよ! 今日は鈴のゼリーを昼から冷やしてたってのに!」
「ゼリーなのですか? 今日のデザートは」
千尋が鈴に尋ねると、鈴はコクリと頷き雅に向き直った。
「すみません、雅さん。楽さんに炊事場で氷をもらった方が良いと言ったのは私なんです」
「なんでまた」
「楽さんが腕を痛めてしまったので、私のように後から辛い思いをしたら大変だと思ったんです。ゼリーの事はすっかり忘れていました……すみません」
そう言って頭を下げた鈴を見て、雅は息をついて鈴の頭を撫でる。
「なんだ、そういう理由があったのか。なら仕方ないね。ゼリーは明日に回すか」
「そうですね。明日また氷屋さんにお願いして――」
最後まで鈴が言い終える前に、千尋は鈴の肩を叩いた。
「? 千尋さま?」
「氷ですよね? 本当はこんな事に力を使うのはどうかとは思うのですが」
千尋は洗濯用の盥に新しい水を張ってそこに手を入れ、水に神通力を少しだけ流し込むと水が淡く光りあっという間に氷になる。
「え⁉ こ、氷!?」
「ち、千尋!?」
「これぐらいで足りますか?」
にっこり微笑む千尋を雅と鈴が驚いたように凝視してきたが、鈴の純粋な驚きと雅の驚きはどうやら質が違ったようで、雅はおもむろに千尋の胸ぐらを掴んできた。
「あんた何こんな所で神通力使ってんだ! しょうもない事に使うなよ!」
「しょうもないだなんて! 鈴さんのゼリーを一番美味しく食べる為です! どこがしょうもないのですか!」
「究極にしょうもないだろうが! 鈴! あんたも何か言ってやり――鈴?」
「す、凄いですね! 千尋さまはこんな事も出来るのですか!」
「ええ、まぁ。これは私の属性とは言えないのでちょっとした神通力ですね」
水に関連する力ではあるが、水の温度を急激に下げるのは普段の力では難しい。
苦笑いを浮かべる千尋に鈴は感動したように目を輝かせたが、すぐに首を傾げた。
「そうなのですか! あ、でも地上ではあまり神通力は使わないのですよね?」
「そうですね。地上と都では力の戻り方が全然違うのですよ。前に言ったように花嫁に月に一度神通力を使いますが、花嫁が3日ほど寝込むのと同様に、私も1日は寝込みますからね」
「え!? じゃ、じゃあこれも寝込んでしまわれるのでは……」
鈴はそう言って盥を指さして愕然としている。
「いえ、これぐらいでは流石に寝込みませんよ。ただそうですね、少し怠くなるぐらいでしょうか」
それを聞いて鈴は一瞬驚いたような顔をして、次に悲しそうな顔をする。
「そんな……千尋さま、もう絶対にゼリーの為に力神通力は使わないでくださいね。千尋さまが辛い思いをするのは嫌です……でも、この氷は素直に嬉しいです。ありがとうございます」
そう言って視線を伏せながらお礼を言う鈴に、千尋の胸はギュっと詰まる。
「約束します。もうゼリーの為に神通力は使いません」
「はい!」
千尋の言葉に鈴は笑顔で顔を上げた。そんな顔を見ると千尋まで何だかホッとする。
これが恋というものか。自分以外の誰かの感情に自分の感情まで動くなんて。
そんな二人を見ていた雅は大げさに舌打ちをすると眉を釣り上げた。
「あたしは一体何見せられてんだ! 人前で遠慮なく戯れやがって!」
「まぁまぁ雅。あなたにもきっといつか分かりますよ」
「ついこの間まで愛も知らなかった奴に言われたかないよ! ところで鈴、夕飯の支度そろそろだよ」
キッと千尋を睨みつけた雅は、次の瞬間には表情を和らげて鈴に言った。それを聞いた鈴は慌てて洗濯用のエプロンを外すと、カゴに荷物を詰めだす。
「千尋さま、今日の夕食はメンチ・ボールですよ」
「そうですか。それは楽しみですね」
鈴のメンチ・ボールはとんかつと同じぐらい絶品だ。千尋が顔を輝かせたのを見て雅は呆れたような顔をするが、雅にも是非龍の都の味気ない料理を食べさせてやりたい。
「楽さんは……食べてくれるでしょうか?」
「あんな事をされたのに楽の心配をしてくれるのですか?」
「それはもちろんです! 楽さんの気持ちが分からないでもないので」
「そうなのですか?」
「はい。私が倒れたりしなければ、今頃はまだ千尋さまは都に居たんです。きっと楽さんは千尋さまとの時間をもっと大切にしたかったのではないでしょうか」
「それは申し訳ない事をしたとこれでも反省しているのです。今回の里帰りはほぼ私は家に居なかったので」
「そうなのですか?」
「ええ。少し調べたい事があって、ほとんどずっと都の書庫……図書館に入り浸っていたのですよ」
「でしたら余計に寂しかったのかもしれません。その上嫌いな地上の世界に落とされたのです。自暴自棄になっても仕方ないのかもしれません。楽さんは元々気性が激しい方なのですか?」
鈴に言われて千尋は考え込んだ。鈴を救う事ばかりを考えた結果、千尋は楽を置き去りにしてきてしまった。もしも楽の側に千尋が居れば、初に傾倒する事もなかったかもしれない。
「いいえ。楽は本来はとても明るく素直で、少しだけ思い込みが激しいですが働き者の優しい子です」
「そうなのですね。それを聞いて安心しました」
「安心ですか?」
「はい。千尋さまがそう仰るということはきっと、とても良い方なのでしょう。ですが今は少しだけ……苦しいのかもしれません。私が両親を亡くした直後のように、何もする気が起きなくて、毎日がただ不安と寂しさで押しつぶされそうになっていた時のように」
そう言って鈴は視線を伏せた。
「鈴……」
そんな鈴を雅が心配そうに背中を撫でると、鈴はすぐにパッと笑顔で顔を上げる。
「あ! でも今は毎日がとても楽しいです。だから楽さんもきっと、すぐには無理でもまた前を向けると思います。だって、千尋さまがそう仰るような方なのですから!」
笑顔でそんな事を言う鈴を見て、思わず千尋も鈴の頭を撫でた。本当は抱きしめたい所だが、雅の前でそんな事をしたら後から何を言われるから分からない。
「ありがとうございます。そうですね。本来の楽をここで思い出してもらえるよう、私も尽力します」
「はい!」
鈴はそう言って笑顔で頷き、雅と共に去っていった。そんな後ろ姿を見送った千尋は、鈴が見えなくなってもその場に縫い留められたように動けなかった。
♥
鈴が炊事場に行くと、メイン料理以外は既に喜兵衛が作り始めてくれていた。
「喜兵衛さん、遅くなってしまってすみません!」
「鈴さん! いえいえ、自分もまだこれだけしか出来ていないので。一人増えたのでどうも分量が狂いますね」
そう言って苦笑いを浮かべた喜兵衛に鈴も笑顔で言った。
「もしかして私が来た時もそうでしたか?」