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千尋から聞いた盲目の少女は木葉というらしい。
鈴はその日、朝からクッキーとパウンドケーキを焼いていた。
「随分とはりきってるじゃないか」
そんな鈴の様子を見て雅がおかしそうに肩を揺らすので、鈴はたすき掛けを結び直して気合いを入れ直す。
「はい! だってせっかく今を生きているのですから、美味しいお菓子を是非とも食べて欲しいので!」
「そりゃそうだ。いつから居るのか知らないが、昔の菓子と言ったら和菓子ばっかりだったからね。西洋の菓子なんてあたしはあんたが作らなきゃまだまだ食べる事も無かっただろうさ」
地上でもまだそこまで普及していない洋菓子だが、鈴が都に持ち込んだおかげで都では洋菓子専門店が増えてきたと流星が喜んでいた。それを聞いて俄然鈴が張り切ったのは言うまでもない。
やがて全ての準備が整った頃、羽鳥が木葉を連れてやってきた。
けれど鈴は千尋にキツく言われていた。呼ぶまで絶対に顔を出すな、と。
「千尋さまは木葉さんを疑っているのでしょうか?」
その事を思い出して雅に尋ねると、雅は今しがた焼き上がったクッキーを一枚つまみ食いしながら頷く。
「そりゃそうだよ。何せ羽鳥を殺せって言う命令が出てたんだろ? あんたにも出てるかもしれないって千尋が考えるのは当然だ」
「ですが木葉さんは結局それを全て羽鳥さんにお話ししたんですよ?」
「最初からそういう作戦かもしれないだろ? だってそもそも羽鳥の文通相手じゃなかったって嘘を一度ついてるんだからさ」
「それはそうなんですけど……」
何となく腑に落ちないまま時間だけが過ぎ、鈴が呼ばれたのは木葉がやって来てから一時間が過ぎた頃だった。
千尋に呼ばれて一緒に客間に入った瞬間、木葉はふと顔を上げてこちらを見る。その目は固く閉ざされたままだったが、鈴の居場所がまるで見えているかのようだ。
「はじめまして、鈴と申します」
鈴が頭を下げると、木葉はほんの少しだけ微笑む。
「はじめまして、木葉です。あなたの存在はこの水龍さまにとってとても大切な存在なのですね」
木葉の言葉に鈴が首を傾げると、木葉はそれ以上は何も話してはくれなかった。
けれどその顔にはまだ微かな笑みが浮かんでいる。木葉の側には何だか年季の入った長い木の杖が置いてあり、木葉はその杖を愛おしそうに撫でた。
「その杖は誰かの物だったのですか?」
何となく気になって問いかけると、木葉はハッとして顔を上げて泣き出しそうな顔をする。
「そう……ですね。とても大切な方に頂いたのです。一足先に天に昇られましたが、今でも私の大切な方です」
「そうでしたか。その方はあなたにその杖を託されたのですね」
「……どうなのでしょうか。先に亡くなってしまったので、今となってはもう分かりません」
悲しそうに微笑んだ木葉に鈴まで泣きそうになってしまった。そうか。木葉はその人の所に行きたいのか。
鈴は木葉に近寄ると、木葉の足元に跪いてそっと木葉の手に自分の手を重ねた。
その途端、木葉は体をビクリと強張らせたが、それでも鈴は手を引かない。
「待っていてくれますよ、きっと。その方はあなたがいつか自分の元へやってくるのを、きっとずっと待っていてくれます。私の両親のように」
その言葉に木葉の固く閉じられた目から涙が一粒零れ落ちた。
「あなたはご両親を亡くされたのですか?」
「はい。8歳の時でした。それから日本に引き取られ、千尋さまに嫁いで都にやって来たのです。でも不思議と今は元々私の人生はこうなる予定だったのかなと思えます。きっと私は千尋さまに出会うために辛い別れや悲しみを乗り越えたのだろう、と」
「それはあなたが愛する人と結ばれたからだわ。私には誰も居ない。愛した人と結ばれる事もなく、あの人は私を置いて先に逝ってしまった。だから私は早くあの人の所へ逝きたいの。そう思うのはいけない事?」
あまり感情を表に出しそうにない木葉が、少しだけムキになって口調を荒らげた。そんな様子に羽鳥が驚いたような顔をしている。
「いいえ、いけなくないです。私が木葉さんの立場でも、きっとそう願ったと思いますから。でもあなたはどれほど死を願っていても決して自死を選ばなかったのですね。とても、とても強い人なのだと思います」
「だってそれを選んだらきっと私はあの人の元へなんていけないもの。違う?」
「それは私にも分かりませんが、その方はきっとそんなあなたを誇りに思っていると思います」
そう言って鈴は木葉の大切な杖に目をやり微笑んだ。使い古された杖は持つ所がテカテカに光っている。それほど長い間この杖は捧げ物などという馬鹿げた事に巻き込まれた木葉を支えてきたのだろう。