結局その日のバイトは全く身に入らず、オーダーは間違えるし、コーヒーはこぼすし、いつもよりお客さんからのクレームも多くて踏んだり蹴ったりだった。
午後6時、げんなりしながら仕事を終え、更衣室で私服に着替えて店を出ると後藤が店の前で待っていてくれた。
「よお、お疲れ」
「お疲れ様……」
「おお、相当疲れてんな」
後藤は僕を心配するような、それでいてどこか面白がっているような様子だった。
「今日は本当についてなかった」
「まあまあ、そういう日もあるって。ぱーっと飲んで忘れようぜ」
「そうだね、ありがとう」
それから僕たちはカフェからそう遠くない、町一番の飲み屋街に向かった。平日だというのに、仕事に疲れたサラリーマンや、暇を持て余した大学生の集団が酒を酌み交わす場所を探していた。そんな雰囲気にのまれて、僕もどこか高揚した気分になった。道に沿って流れる小川がどこまでも透き通っている。確か、「高瀬川」といったっけ。森鴎外の『高瀬舟』で有名な川だと記憶した気がする。
少し歩くと後藤御用達の居酒屋に到着した。思ったより混んでいなかったので、待ち時間なくスムーズに席に座ることができた。時間もまだ早いからか、店内は落ち着いていて、ゆっくり話をするにはもってこいの場所だった。
「生ビール二つで」
席に座るなり、後藤が勝手にドリンクを注文するが、僕は特に何も言わない。彼と飲みに来る時はいつもこうなのだ。
「で、今日はどうしたんだ。朝から浮かない顔してさ」
まだビールも来ていないというのに、後藤は単刀直入にそう訊いてきた。まあ、彼はいつも思ったことを素直にはっきり口にするから、すぐに訊かれることは重々承知していた。いつでも直球なところがまた彼の長所であったりもする。
「……実は昨日、懐かしい人に再会したんだ」
僕も率直な彼に見習って、話を捻じ曲げずに昨日起こった出来事を話すことにした。
「ほう。その懐かしい人っていうのは?」
「それが、その」
「女か?」
彼が「女か?」なんて言うと、どこかいかがわしい感じがするのは気のせいだろうか。
「そう。それも元カノ」
「まじか。それって偶然?」
「うん、偶然も偶然。高校時代の元カノなんだけど、昨日横断歩道ですれ違ってさ。彼女、今東京に住んでて京都に遊びに来たんだと」
「え、何それ。すげー偶然だな。そんなこともあるのか。運命じゃん」
「元カノだし、運命とかやめろよ。さすがに驚いたけど……」
「わりぃわりぃ。でも、偶然元カノと再会して別に気持ちが揺らいだわけでもねーのに、水瀬は何を悩んでるんだ?」
後藤が一杯目のビールを飲みほして、店員さんに二杯目を頼む。ついでに焼き鳥を何種類か注文する。
「実はさ……彼女と再会して少し話そうってなって。そこで『もう一度やり直さないか』って言われた」
「ほうほう。彼女はまだお前のことが好きだったってことか」
「まあ、多分そんなところだろうな……」
「で、何がそんな問題なんだ? その元カノさんに気持ちが揺らいだ?」
「いや、それはない。あいつ、昔と変わってなくて面倒臭いし」
「水瀬って見かけによらず辛辣だな」
後藤はヤレヤレという感じで先程注文した焼き鳥を咥えた。しかも、二本同時に。ちなみにどっちも僕の好きなムネ肉だった。
「んで、結局お前の悩みは何なんだ? 元カノさんと再会したけどヨリを戻したい訳でもない。だったら別に何も問題なくないか」
「そうなんだけど。いや、逆にそうだからこそ、自分でも何がこんなに引っ掛かるのか分からないんだ。彼女が戻りたがってることも、自分が戻りたくないことも分かってるのに、じゃあ何でこんなに憂鬱な気分になるのか、それが分からなくて困ってる」
「なるほどなあ。まあでもそれってさ、自分の胸に聞いているしかねーよな。もしかしたらそこに、自分の知らない気持ちが潜んでるのかもしれない」
自分の知らない気持ちか。
僕は、彼女に対して何か特別な気持ちを抱いているのだろうか?
いや、昨日彼女に会ったのは本当に偶然で、突然の出来事だったから、何か思うことがあるとすれば、それは驚き以外の何ものでもない気がしてきた。
「後藤」
「ん?」
「今は分からない」
僕は正直に今の気持ちを後藤に述べた。まあ、そりゃそうだろう、とでも言うように、彼はふっと笑って僕に焼き鳥を差し出してきた。
「ホラ、これ食べて飲め飲め」
「ありがとう」
きっと彼なりに僕に気を遣ってくれたのだろう。その気持ちはとても嬉しかった……けど。
“かわ”はあんまり好きじゃないんだよなぁ。
後藤と飲みに行ったその日以来、僕は依然として胸にもやもやを抱えたままバイトして、レンタルビデオショップに行き……と退屈な夏休みを過ごしていた。
真夏の京都は言いようもないほど暑くて、こんな時期に観光にやって来る人たちの気が知れない。僕は、できれば外に出ずに冷房の効いた家に閉じこもっていたかったが、時々は食材や本を買うために外出した。
そうやって夏休みが始まってから一週間程経った、ある日のことだ。その日は昼間用事があったため、夜に帰宅することになっていたのだが、帰る前にいつものように書店に寄って探していた小説を買った。
「ありがとうございましたー」
店員さんの少し気だるげな声を聞きながら書店を出た時、僕は駐車場の隅にうずくまる一人の女性を見つけた。
いや、見つけてしまった、という方が正しいのかもしれない。
「あの、どうかされましたか?」
見つけたからには声をかけずにはいられなくて、僕は咄嗟に女性の肩をトントンと軽く叩いた。
「ひっ……」
その人は小さく悲鳴をあげ、俯いたままぶるっと肩を震わせた。
「すみません。怪しい者じゃないんです。苦しそうだから、放っておけなくて」
怖がらせてしまったと思った僕は必死に彼女を安心させようとした。その甲斐あってか、彼女は両手で腹部を押さえながら恐る恐る顔を上げ、僕の目を見た。
その途端、僕は何か重大な間違いを犯してしまったのではないかと後悔する。
その人は、その女性は、紛れもなく天羽夏音以外の何者でもなかった。