「出せるようなものお茶しかないけど、とりあえず飲んで」
腹痛に苦しんでいた彼女を家に連れてきた僕は、とりあえず彼女にお茶を差し出す。最初、彼女が天羽夏音だと気づいてから家に連れて行くのを躊躇ったが、苦しんでいる人を放っておくこともできず、結局助けることにした。
「……ありがとう」
彼女は僕が差し出したお茶をゆっくりと啜り始めた。静かな部屋に、彼女がコクコクと喉を鳴らす音だけが聞こえて、僕は妙に落ち着かなかった。
「腹痛、もう大丈夫なのか?」
「うん、もう、大丈夫」
「そうか、それなら良いんだけど」
彼女はこの間会った時とはうって変わって、どこか自信なさげな様子で大人しく座っていた。僕は彼女を家に連れてきた時から、またやり直さないかというようなことを言われないかヒヤヒヤしていたが、しおらしく座っている彼女を見ると調子が狂ってしまう。
「それで、さっきはどうしたんだ」
何か会話をしなければ平静でいられないと思った僕は、とりあえず彼女がなぜ書店の前で苦しんでいたのかを聞いた。
「今日は友達がどうしてもバイトに行かなきゃいけなくて、時間つぶしに本見てたの。そしたら、男の人に声かけられて……」
彼女は少し怯えた様子で、それから怖くなって書店を出たこと、書店を出ても男がしつこく声をかけてきたこと、手を取られそうになって思わず声を上げてしまったことを話してくれた。
「そうしたらその男の人も舌打ちして諦めてどこかに行っちゃったんだけど。私、怖くて震えが止まらなくて、そのままお腹痛くなって……」
だから動けなくなってあんなところで座り込んでいたのか。
「昔から怖いことがあるとすぐに身体に影響がくるから。最初は『怖い』っていう感情だけなのに、気づいたら胸がぎゅって締め付けられるみたいに苦しくなって、それから歩けないぐらいお腹が痛くなる。こんな身体なの、治したいって思うのに、やっぱり思ってるだけじゃ上手くいかないね」
彼女はそう言って、僕が渡したお茶の最後の一口を飲み干して上着を着始めた。もう帰るつもりなんだろう。本当はその時に僕が気の利いたことの一つでも言ってやれば良かったのに、その時の彼女がこの間再会した時の彼女とは違って、あまりに弱々しく、小さく見えて、そのギャップに僕は戸惑い、何も言うことができなかった。
「もう帰るのか」
「うん、長居したら悪いし。それに、これ以上あなたに迷惑かけられないわ。私たちはもうとっくの昔に終わったんだもの。今日だって、また会ってしまったのが申し訳ないぐらいだったのに、わざわざ面倒みてもらって本当にありがとう」
「僕は別に、迷惑だなんて思ってないよ。でも、そうだな、けじめははっきりつけた方がいいよな」
「ええ、そういうこと。だからまたね」
「ああ。気をつけて帰れよ」
「……ありがとう」
本当は彼女を友達の家まで送ろうかと思ったが、そこまでするのはやはりおせっかいだと思い、玄関で見送るにとどめた。
彼女は「ありがとう」と小さく呟いてそっと扉を開け、僕の家を後にした。カチャン、と控えめな音を立てて閉まった扉と、先程まであった彼女の気配が、僕に微かな虚しさを感じさせた。
その感覚は、最初は「あれ」と少しだけ違和感を覚えるぐらいのものだったのに、彼女が家からいなくなって時間が経つごとに、不安の塊みないになって僕の胸に押し寄せてきた。
この不安はなんだ。
転んで擦りむいた時の足の傷みたいに次第に広がってゆく不安。
やり直さないかと告げた彼女と、もう大丈夫と言って出て行った彼女。
「自分勝手だ……」
突然湧いて出てきた自分の感想に自分でも驚いてしまう。
僕は今、とてつもなく自分勝手なことを考えている。
これを実行すれば、きっと彼女の信用を失うことになるだろう。
それでも僕は、この衝動を止められない。今止めたら、もう二度と取り返しのつかないことになる。それだけは明白だった。
僕はテーブルの上に置いてあったスマホを手に取り、電話帳を開いて、ゆっくりと画面を縦にスクロールする。指先が小刻みに震えて、途中何度も手を止めてしまいそうになる。確か、彼女の連絡先は名前だけで登録してあったはずだから、もう少し下に行って。
そして、ようやく見つけたその連絡先を選択して、通話ボタンを押した。
彼女がまだ昔の番号を変えていないか心配だったが、それよりも今この瞬間に彼女が通話に出てくれるのかが不安だった。
プルルルルル、プルルルルル
呼び出し音の鳴る数が回数を重ねる度に、僕の不安と緊張は増してゆく。自分でもはっきり分かるぐらい心拍数が上がり、手汗が滲んで気持ち悪い。
「頼む……」
お願いだから、出てくれ。
祈るような気持ちで眼を瞑って反面、もう無理だろうかと諦めて通話終了ボタンを押そうと思ったその時だった。
「……はい」
電話の向こうから聞こえてきた声に、僕は心底安堵すると同時に、何から話せば良いか分からずに、数秒間黙り込んでしまった。
「もしもし?」
「あの……」
ダメだ。何から話せば良いんだ。
自分から電話したくせに何も言えないなんて、自分自身が情けない。きっと電話の向こうの彼女も、用もないのに突然電話をかけてきた僕に不信感を抱いているに違いない。「ごめん、かけ間違った」と言って切るという考えが頭をよぎり、僕が実際にそう言いかけた時。
「友一、大丈夫?」
電話越しに聞こえてきた彼女の心配そうな声が、僕の胸の深くまで浸透して、僕は思わず声を上げていた。
「夏音。もう一度、会ってくれないか」
緊張した。とてもとても緊張した。
だって、僕はこの間彼女を突き放した人間なのだ。
本当ならばこんなことを言える資格もないし、言ったところで彼女が応じてくれるはずもなかった。
それなのに、彼女はいつも僕を裏切るのだ。
「……うん、いいよ」