「うーん、今日は楽しかった!」
甘味処を後にした僕らは行きと同じように叡山電車に乗って、出町柳駅まで戻って来た。
最初はそこで別れる予定だったが、僕が「少し散歩しないか」と提案すると彼女が乗ってくれたので、僕たちはしばらく川沿いの道を歩いていた。
時間は午後6時、真夏で日が長いので夕暮れ時だった。
茜色に染まった空を見ると、高校時代、足元から伸びる影を目で追いながら彼女と一緒に歩いた帰り道のことを思い出す。
しばらく歩いて大きな橋を渡る途中、僕らはちょうど橋の真ん中辺りで立ち止まり、欄干に肘を置いて川の景色を眺めていた。
川の水が、夕日に照らされて橙色の光を反射し煌めいている。
「こうしてるとさ、昔のこと思い出すよね」
彼女も僕と同じことを考えていたのか、川のずっと遠くの方を見つめて言った。
「ああ。実行委員でいつも一緒に帰ってたな」
「ふふ、そうだったね」
「きみは夕日を見たら必ず言うんだ」
まっさらなキャンバスに描き写したいって。
「そんなこともあったねぇ」
「懐かしいだろ」
「うん、懐かしい」
思い出に浸って目を細めている彼女に、僕は聞きたいことがたくさんあった。
あれからもう絵は描いていないのか。
家族とはどうなったのか。
本当はもっともっと、会わない時間に積み上がった彼女の日常を知りたい。僕の知らない夏音のことを。けれど、今はそれ以上に聞きたいことがある。伝えたい気持ちがある。
「なあ、夏音」
「なに?」
「さっきの続きなんだけど……」
「続き? あぁ、パフェ食べる前の」
「そうだ」
彼女も僕の真剣な声を聞いて何か悟ったのか、先程まで遠くを見やっていた大きな瞳で、真っ直ぐ僕を見つめた。
「夏音」
「うん」
「僕は、きみのことが好きだ。また好きになったんだ。自分がどれほど身勝手なことを言っているかは十分承知してる。それでも、きみに伝えなきゃいけないと思うほど、本気なんだ。だから、僕とまた付き合ってくれないか」
一度終わってしまった関係だからこそ、言い表すことのできない緊張感があった。意を決して自分の想いを口にしている最中、彼女がどんな表情をするかとても気になった。
怒るだろうか、泣くだろうか。
それとも、嬉しいと笑ってくれるだろうか。
「……」
しばらくの間、まともに彼女の顔を見ることができなかった。それでも、勇気を出して彼女の顔を窺ってみると、彼女は目を見開いてそのまま固まっていた。
そうしてどれほどの時間が経過しただろう。実際は1分も経っていないかもしれないが、その時の僕には途方もなく長い時間に感じられた。
彼女はゆっくりと瞬きをし、それから僕の予想したどんな表情とも違って、寂しそうな、困ったような、そんな複雑な表情を浮かべていた。
「……貴船神社に行った和泉式部はね、歌を詠んだの」
唐突に、昔の歌人のことを話し出した彼女。
どうしたんだ、一体何を言おうとしてるんだ?
想像したものとは全く異なる返事が返ってきて、拍子抜けした僕は「え」と声を上げてしまう。
「『もの思へば沢の蛍もわが身よりあくがれいづる魂かとぞ見る』……」
「……」
「この歌を詠んだ和泉式部は、一体どんな気持ちだったんだろうって考えるの。きっと苦しかったんだろうな……って」
僕には、彼女が言っていることが少しも分からなかった。
彼女の言う和泉式部の歌の意味も、その歌が詠まれた背景も、全然分からなくてただ黙って彼女の話を聞いているしかなかった。
「友一」
僕が反応に困っていると、不意に彼女が僕の名前を呼んだ。
「私も、友一のことが好き」
何故だろう、その言葉を聞くことができて嬉しいはずなのに。それなのに、不安の波がどんどん押し寄せて来る。頭の中で警告のサイレンが鳴り止まない。
「それなら——」
「でも、友一とは付き合えない」
きっぱりとした口調で言い放つ彼女は真剣な表情を少しも崩さなかった。
目の前が真っ暗になる。希望が絶望にすり替わる瞬間だった。
けれど心のどこかで、その言葉を予感していた。
「どうしてなんだ」
好きなのに、どうして。
そんな当たり前の疑問が湧いてきて、僕は子供のように「どうして」「なぜ」と彼女に問いかけていた。
今考えれば、自分の身勝手さに呆れかえってしまう程、僕は冷静じゃなくなってしまっていた。
けれど、僕がどんなに尋ねても、彼女は哀しげな表情を浮かべるだけで、何も答えてはくれなかった。
君は今、何を考えている? 何を思っている? 君の声が、僕には聞こえない。聞こえないんだ。
時間が流れるうちに理由を聞き出すことにも疲れてしまって、諦めるしかないと悟った。
こうなったのも全て自分のせいだ。
僕があの日、きみの手を離してしまったから。
ふと2年前のことが頭をよぎり、胸の中が悔しさでいっぱいになった。
「……ごめんね」
たった一言、謝罪の言葉を口にした彼女は、そのままゆっくりと僕に背を向けて橋を渡って行ってしまった。
その時僕は、彼女の後を追いかけることもできず、ただ茫然とその場に立ち尽くすことしかできなかった。こんな日に限って、落ちてゆく太陽が眩しくて綺麗で痛い。 身体が重く、海の底に沈んでいくようだった。