なぜ彼女がまたここにいるのか、友人の家に帰ったのではなかったのか、様々な疑問が湧いたが、今はそんな些細なことはどうでもよかった。
「夏音」
愛しい人の名前を呼ぶ。彼女は僕が自分のもとにやってくることを予感していたのか、特に驚く様子もなくこちらを振り返った。
「和泉式部の歌。あれは、きみの気持ちだったんだろ」
走ってきたばかりで肩で激しく息をする。呼吸を整えるより先に彼女に伝えたいことがあった。
夏音は静かに僕の動く肩を見つめた後、怒りとも哀しみとも言い表せない表情で答えた。
「そうだよ」
「それなら、やっぱりきみだって望んでるんだろう。僕と、もう一度やり直すことを」
「……」
「なあ、答えてくれ。きみは苦しかったんだよな。僕があの時、きみの手を離したから……。本当にごめんな。でも、もう絶対にあんなことしない。傷つけたりしない。だから——」
「分かったようなこと言わないでよっ……!」
突然、聞いたこともないような叫び声が彼女の口から漏れてきて僕は唖然とした。
「傷つけないって何? “絶対”って何? そんなの信じられると思う……?」
「それは」
「ええ……そうよ。私は苦しかったんだよ……。あなたに捨てられて苦しかったよ。だってあなたは、側にいてくれるって言ってくれたんだもの。大好きで大好きでたまらなかったんだもの。それなのに、急に私の隣からいなくなって、二度と並べなくなって……傷ついて、後悔して、何度も何度もやり直したいと思った。時間が戻ればいいのにって……! でも、できない。もうあなたと、友一と手を繋ぐことも抱きしめることもできないんだって気づいて諦めてたのにっ……。諦めて、ちゃんと前を見なきゃって思って、やっと忘れかけてたのに」
それなのにあの日、あなたは私の前に現れた。
「ねえ、教えてよ。私はどうやってあなたを信じればいいの……? 私は今でも友一が好き。だけど、またあなたとそういう関係になって、傷つくだけなら付き合いたくなんかない。もう二度と、あんな苦しい思いはしたくない」
彼女の怒り。
彼女の悲しみ。
その全てが今この瞬間、鋭い
2年前、僕が傷つけたせいで、彼女は今もその傷に苦しんでいる。
「僕の、せいだ」
僕が、もともと人間不信だった彼女と信頼関係を築いて、それをバラバラに壊してしまった。
その時彼女は一体どんな気持ちだったんだろう。
この世でたった一人、一番信頼していた人に真っ先に裏切られた彼女はその後どうやって今まで過ごしてきたのだろう。
その痛みを、僕は考えたことがあっただろうか。