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11、ヒーロー


 ***



 私が7つの時、父が家から出て行った。


 父は消防士だった。


 小さかった私には、消防士の仕事がどれだけ大変なのか分からず、父が帰らない日や、夜中に仕事に行き、朝帰って来てもずっと寝ているだけの父の姿を見て、寂しい気持ちにさせられた。


「パパはね、地域の人のことを守ってるのよ」


 そんな私のことをなだめるように、いつも母はそう言っていた。


「まもる?」


「そう。パパはね、皆のヒーローなの」


「ヒーロー!」


 “ヒーロー”という甘美な響きが幼い私の心を魅了する。その日から父の帰りがどんなに遅くても、自分の父親はヒーローなんだと思うと少しも寂しくなくなって、むしろ誇らしい気分になった。


 父の仕事の偉大さを理解した小さい娘を見て、母も嬉しそうにニコニコと笑っていた。

 母は同年代の友達の母親に比べるとかなり若かったが、いつも優しくて私のことを大切にしてくれていた。


 だから、私の家庭は一般的に見ても幸せな家庭だったに違いない。


 そう、“あの日”が来るまでは——。



  ジリジリジリジリジリジリッ


  マンション中に鳴り響く不快な音で私は目を覚ました。

  同じタイミングで母も布団から飛び起きたらしく、しばらく何が起こったのか、二人とも状況を掴めずにいた。

 時刻は真夜中の午前二時、どこからともなく焦げ臭い匂いが漂ってきて、住人の一人が「火事だ!」と叫んだ時、私は底知れない恐怖に見舞われた。


「逃げるぞ」


 その日、父は丁度仕事もなく家で寝ていたが、マンションで火事が起きたことが分かると、落ち着き払った声でそう言った。

 母は母で、財布や通帳を鞄に詰めて逃げる準備をしていた。

 私は何が何だか分からず、母に手を引かれるまま部屋を飛び出した。


 出火元は真ん中の階の部屋で、2階に住んでいた私たち一家は無事にマンションから脱出したが、外に出られた住人はまだ半分程だった。


 外ではウーウーという消防車のけたたましいサイレンが住人の不安を煽るように鳴っていた。

 怖くなり、振り返ってマンションを見上げた私は、思わず「あっ」と声を上げた。


 火が、

 煙が、

 ゴウゴウと嫌な音を立ててマンションを包んでゆくのを見た。


「桃子、夏音、ここにいろよ」


 不意に、隣にいた父が何かを決意したようにそう告げ、「あ、待ってあなた!」という母の声すら聞かず、さっき脱出したばかりのマンションに飛び込んでいった。


「パパ……!」


 幼い私には、父が何を考えてそんなことをしたのか、その時は分からなかったけれど、父がとても危険な目に遭おうとしていることぐらいは分かった。

 しばらくして何台もの消防車がやって来て、消防隊員がマンションの中に入っては、逃げ遅れた住人を抱えて出てきた。


 一人、また一人……と無事にマンションから人が助け出される光景を、私も母も、まるで他人事のようにぼうっと眺めていた。


「大丈夫よ、大丈夫……」


 母は、私の手をぎゅっと握りながら機械のようにそう繰り返し呟いていた。


 消火活動と救助活動が繰り広げられる中、私たちはただひたすら、父の姿だけを探していた。


 そうしてようやく、


「パ、パパっ!」


 子どもを抱きかかえた父が、おぼつかない足取りでマンションから出てきた。

 その姿を見た消防隊員が、父の名前を呼びながら父の元へ駆けつける。私は母と一緒にほっと胸を撫で下ろした。


 と、その時だった。


 ゴォォォンッ


 聞いたこともないような爆発音が父の背後から聞こえ、その場にいた全員が身を縮こませた。


「あなたっ……!」


 母の叫び声が、私の耳をつんざくように響いた。


 それから先のことは、よく覚えていない。

 幸いにもマンションには誰も残っておらず、死者が出なかったことは後で知った。

 父は爆発の衝撃に巻き込まれ、ひどい怪我を負ったものの、命に別状はなかった。父が助けた子供も無事で、火事による被害は最小限に抑えられた。


 しかし、私たち一家に訪れた不幸はその後のことだった。

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