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12、赤色

 怪我をした父はリハビリを終えて何とか普段の生活に支障が出ないくらいには回復したものの、後遺症で体の一部が思うように動かなくなり、消防士の仕事を辞めざるを得なくなった。


 それから、あまり体を動かさずにできる事務系の仕事に就いたが、消防士という生きがいを奪われた父は、仕事へのやる気がすっかり消え失せてしまい、生きることの喜びを失くしてしまったようだった。


 食欲もあまり湧かないらしく、次第に父は痩せこけて廃人のようになってしまった。

 そんな父を見かねて、母はあれこれと手を尽くして家族で出かけようと父を誘ったり、無理にご飯を食べさせようとしたりした。

 しかし、その全てが父にとっては煩わしい気遣いだったらしく、父はもう以前のように笑ってはくれなかった。


 そんなある日のこと。


「もう、いい加減にしてくれ!!」


 激昂した父が母を突き飛ばした。


 原因は何だっただろう。多分、母の必死の励ましや気遣いに腹が立ったのではないかと思う。側から見れば母は必死に父を元気づけようとしていたのだが、父にはそんな母の頑張りが白々しく映ったのだ。


 自分の抱えている苦しみを、五体満足の母に、分かってもらえるはずがないという痛みが、父の胸を巣食っていたのは間違いない。以前の父ならば、母に感謝こそすれ、暴力を振るうようなことはしなかった。あの火事で負った怪我が、優しかった父をまるごと飲み込んで、怪物に変えてしまったみたいで、怖かった。



 ゴンッという鈍い音がして、母がテーブルの角で頭を打った。その時、私も母も父のやったことが信じられなかった。

 父自身も自分の所業に驚いて、一瞬固まった。頭を押さえて呻く母を見て、わなわなと震えながら即座に母に謝った。


 でも、その日から父は母に対して度々暴力を振るうようになった。

 おそらく、生活の中で感じるストレスを暴力という形で発散していたのだろう。


 何度も何度も母に当たり散らす父を見て、私はもう父のことを“ヒーロー”だなんて、到底思えなくなっていた。


「ママ、大丈夫……?」


「夏音、ごめんね……ママは大丈夫よ」


 母は決して私の前で弱音を吐かなかった。きっと、どんなに父に暴力をふるわれても、父のことを本当に愛していたのだろう。


 そんな生活が一年続き、ある夜仕事から帰った父が母に告げた。


「別れてくれ」


 たった一言、それだけ言って、離婚届を置いた父は家を出て行った。

 テーブルの上に捨て置かれた一枚の紙切れを見て、私の視界がぐにゃりと歪んだ。


 あまりに突然だったので、母はしばらくの間茫然と机の上に置かれた離婚届を見つめていた。そうしてようやく状況を理解したのか、薄っぺらい一枚の紙に書かれた不器用な父の名前を見ながら、母は泣いた。


 母がぽろぽろと涙を流すところを、私は初めて見た。


 一体なぜ、こんなことになってしまったのだろう。

 私たちは温かで幸せな家庭だったはずなのに。

 そう、あの火事さえ起きなければ。

 燃えさかる赤い炎さえ見なくて済んだのなら。


 父は怪我をすることもなく、生きがいだった消防士をやめることはなかった。

 そうすれば今も変わらずに、私たち家族の“ヒーロー”でいてくれたのかな。

 肩を震わせながら泣いている母を見ていることしかできない私は、ただひたすらに悔しかった。


 その日から、私はあの日の炎を思わせる“赤色”が大嫌いになった。


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