「私ね、赤い色が怖いの」
「赤が、怖い?」
「うん」
彼女は、実の父親が火事に巻き込まれたことがきっかけで暴力的になってしまったことを話してくれた。献身的に父親のことを支えようとした母親を、殴るようになってしまっこと。それから以前にも聞いた通り、父親と同じく優しかった母親までもが、ストレスからか、自分に暴力を振るうようになってしまったということも。
「だからね、私は私の幸せな日常を奪ったあの日を思い起こさせる赤色が嫌いなの」
「そうか。だからきみの絵はどれも青色をベースに描かれてたんだね」
「うん、青って見てるだけで落ち着くから。赤がなくても、私は絵を描くんだ」
「確かにそうだな。僕は、きみの青い世界が好きだよ」
本当だった。彼女の絵には、見る人を吸い寄せるような魅力があった。強い引力があるみたいに、僕は文化祭で見た彼女の絵に魅了されていた。あれほど美しい“青”を僕は他に知らない。
「あの人たちはきっと、心が弱かったんだ」
僕は一瞬、彼女の言う「あの人たち」というのが誰のことなのか分からなかった。でも、隣で先程僕が掴んでいた手首をもう片方の手でぎゅっと握りしめている彼女を見て、それが彼女の両親のことだと分かった。
「今日のお母さんは、いつにも増して普通じゃなかった。きっとまた、男に捨てられたんだ。私のこと叩いて、殴って……私がどんなに『やめて』って言っても聞こえてないみたいだった。私、このままじゃ壊れちゃうと思ったの。だから咄嗟に家を飛び出した。でも、家の中で一人取り残されたお母さんのことを考えたら、逃げることもできなくて……」
「それで、家の前にいたのか」
「うん。私もあの人たちと同じだったの。何も捨てらんなかった」
「そうか」
きっと彼女も、彼女の両親も決して心が弱かったわけではない。
辛いことが重なったせいで、大切な人のことを信じられなくなってしまっただけなんだ。それに彼女が母親を見捨てて飛び出せなかったのは、彼女が弱いからじゃない。
「きみが、優しいからだね」
「え?」
「いや、きみがお母さんを置いてどこにも行けなかったのは、心の中で母親を一人にしたくないと思ったからだろ」
「それは……」
「きみは優しい人だよ」
僕は何度も言い聞かせるように彼女に伝えた。
天羽夏音は誰よりも優しくて強い人だ。
自分が辛い時でも、他人のことを思いやれる人だ。
だからこそ僕は、きみに惹かれたんだよ——。
「ふふっ」
先程まで真剣な表情で語っていた彼女が、突然笑い出したので、僕は「きみに惹かれた」という心の声を漏らしてしまったのではないかと心配になった。けれど実際はそうではなかった。
「何分かったようなこと言うの、水瀬君」
予想外の反応に、僕は戸惑って少しうろたえてしまう。
「え、あ、ごめん……」
「……ううん。嬉しかった、ありがと」
彼女の言葉に安心して、僕はほっと胸を撫で下ろす。彼女を見ると、少し頬が紅潮していて、僕はドキッとした。
ああ、ダメだ。
こんな状況なのに、僕は今すごく幸せだと思ってしまう。
できるならば、彼女に触れたいと思う。
でも、今の僕はそこまでの勇気を持ち合わせていなかった。
「あのさ、水瀬君」
「う、うん、何?」
僕の反応があまりに挙動不審だったためか、彼女は若干訝しそうに僕の事をじっと見たが、やがて口を開いてこう言った。
「私たち、今どこに向かってるの?」
「え?」
彼女の質問は、僕にとっては予想外のもので僕はうまく頭が回らなかった。
「だーかーらー、私たち、電車に乗ってどこに行こうとしてるの?」
ああ、そうか。
彼女の疑問ももっともだ。
だって僕はさっき急に彼女を拉致して電車に飛び乗ったのだから。
「そうだな。天羽さんは、どこに行きたい?」
「は?」
「だから、きみの行きたい場所に行こうかなって」
「何それ」
「たまにはいいじゃん。こういうのも」
まったくもって訳が分からない。彼女はどんどん怪訝そうな表情になってゆく。しかし、「よくよく考えたら面白そう」とでも思ったのか、だんだんと彼女の顔に笑みが広がるのが見てとれた。
そして、彼女は電車内に吊り下げられたある場所の広告を指さして言った。
「あそこに行きたい」