僕は高2の時に、公園で夏音を泣かせてしまったときのことを思い出す。
——本当はね、すごく必死なんだ。どうやったら友達に嫌われないか、省かれないか、成績が落ちぶれないか、不細工なやつだって思われないか、愛想がないって言われないか……家族と、上手くやっていけるか。
——私ね、極度な人間不信なのよ。
僕も初めは、本当の彼女を理解せずに、皆と同じように「綺麗で、成績がよくて、学校中で人気者の女の子」という印象を抱いていた。それは憧れに近かったのかもしれない。けれど夏音があんなふうに人を信じられないと言ったこと、必要以上に周りの目を気にしていたことに、中学での苦い経験が関係していることなんて知らなかった。
「沢田さんは……どうして夏音と最後まで仲良くしてくれたんだ。夏音と仲良くすることで、きみまで省かれる可能性だってあっただろう。それなのに、なんで」
僕は、答えの分かりきったような質問を沢田さんにぶつけてしまう。そんなの、僕自身が一番よく分かっているはずだ。
「夏音はいつも、綺麗な青い絵を描いている子だった」
彼女が、優しい声で昔の夏音のことを話し始めた時、予想外の切り口だっだので、僕は「え?」と思って彼女の目を凝視してしまう。
「三年間美術部で、部活の時間はずっと絵を描いてたのよね。あたしは陸上部だったんだけど、出会ったばかりの頃、部活終わりに美術室まで夏音を迎えに行ったことがあったの。夜7時ぐらいかな、春だったし、外はすっかり暗くて校舎の中にもほとんど人は残ってなかった。あたしが美術室のドアを開けた時も、夏音以外に他の部員はいなかった」
夏音はいつも、綺麗なものを見つけては「絵に描きたい」と漏らしていた。感じる力が人一倍強く、彼女の絵には、描くものの表面的な姿だけじゃなくて、もっと深い奥底の、言葉では言い表せないような真実の姿が描かれていたように思う。特に文化祭の時に見た、寒色を自由自在に操って描いたような絵が、僕の心の中にずっと残っている。
「夏音はそこで、すごく集中して筆を動かしていた。あたしが部屋に入ってきたことにすら気づかないくらい。透き通るような青をキャンバスの上に載せてゆく。彼女が、俗世間の汚れた空気を少しも寄せ付けない不思議なオーラに包まれているような気さえした。あたしはそんな夏音にすっかり魅せられて、その日はずっとずっと夏音が絵を描くところを見てた」
ああ、変わらない。
沢田さんの知ってる夏音と、僕の知っている夏音。
彼女は昔から、彼女のままだったんだ。
「二時間後、出来上がった絵ははっきり言って、何を描いた絵なのかあたしには分からなかった。でも、揺るがないブルーの絵を見て、『この人は、この絵みたいに、自分の“青”を絶対に手放さない。周りの皆から何を言われたって、自分の青い世界を貫く人だ』って思ったの。あたしだけがそれを知ってる。夏音にはとても大事にしてる世界があって、それを知ったあたしは、夏音のことがすごく好きになった。何故だか分からないけど、夏音を見てると、あたしも自分を見失わずに済むような気がしたから」
沢田さんが、記憶の中の夏音を愛おしそうに語った。
この時ばかりは店内の騒がしい物音が、何一つ聞こえなくなった。
「だからあたしは、夏音と友達でいたかったのよ」
正直、とても嬉しかった。
中学時代の夏音を僕は知らなかったけれど、こうして沢田さんの話を聞く限り、僕の知っている夏音と変わらない彼女が、沢田さんの中にいた。
「沢田さん、ありがとう。中学の時、夏音の側にいてくれて」
「違うよ、あたしが夏音に『ありがとう』って思ってるのよ」
「そうか。それでも、沢田さんの話を聞いて安心したんだ」
「それならよかった」
僕は、近くを通りかかった店員さんを呼び止めて、お冷を二つ頼んでおく。
「でも水瀬君、夏音からこの話を聞かなかったの?」
「ああ、夏音は全然中学時代の話はしなかったな。きみは仲良しでいてくれたけれど、他のこともあって話したくなかったのかもしれない。僕も、夏音が話したくないことを無理矢理聞こうとも思わなかったから」
「そう……。やっぱり気にするわよね、中学生だったんだもの。いくらあたしの目に映っている夏音が平気そうに見えても、本当は辛かったってこと、十分あり得るもの」
何度も僕たちの席に料理を運んでくれた店員さんが、お冷を持ってきてくれた。僕はそのお冷を口にすると、すっかり酔いが冷めたように頭がすっきりとした。
「それで、水瀬君。夏音が、もし本当に中学の友達に会いに京都に来たって言ってるんなら、それはきっと嘘だと思うわ」
沢田さんが、とても肝心なことを僕に告げる。
そうだ、今までの話が本当なら、今ここにいる夏音は、一体何をしに京都に来たというんだ……?
「夏音は、嘘をついている」
「ええ……。水瀬君、夏音にはっきりと、本当のことを聞きましょう」