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18、すれ違う心

「きゃっ」


 不意に、後ろで夏音の短い悲鳴が聞こえて、それからバタっという重たい音がした。その音に咄嗟に振り返った僕は、数メートル後ろでつまずいてしまった様子の彼女を目にした。どうやら急ぐあまりにちゃんと靴を履けていなかったらしい。

 僕は一瞬どうしようかと迷ったが、流石に転んでしまった彼女をそのまま放置しておくわけにもいかず、彼女の方にゆっくりと歩み寄って、


「はい」


 と手を差し伸べた。

 すると夏音は、気まずそうに「ありがとう……」と小さく呟いて僕の手に摑まった。そして、そのままゆっくりと腰を浮かせて立ち上がる。制服についた砂をパンパンと払いのけることも忘れずに。


「あの、友一」


 一刻も早く口を開かないと、僕がまた逃げてしまうと思ったのだろうか。彼女は咄嗟に、という感じで僕にこう訊いてきた。


「さっきから何で先に行っちゃうの?」


 夏音は、「自分が何か悪いことをしたのなら教えてほしい」とでも言うかのように、不安そうに僕の目を見つめている。


「……それは」


 僕は、昨日自分が目撃したことを彼女に言うべきか否か迷った。もし言ってしまえば、今後の彼女との関係にひびが入ってしまうかもしれない。いや、でもそもそも昨日の出来事が僕の勘違いだったら……? それなら早いとこ誤解を解いてもらった方が良いのではないだろうか。


 頭の中であれこれと考えて、結局僕は昨日夏音と三宅君が一緒にいたところを見たという事実をそのまま伝えることにした。僕の悪い想像が全て、間違いであると否定してくれることを信じて。


「昨日きみが、三宅君と一緒に出掛けているところを見たんだ」


 どきどきしながら、僕は夏音にそのことを打ち明けた。

 きっと彼女は、「なんだ、そのことか~」とほっと胸を撫で下ろしながら昨日のことをきちんと説明してくれるはずだ。それから、二人が一緒にいたくだらない理由を聞き、僕も「なんだよ、そんなことか。誤解させんなよな」と軽く悪態をつきながらも内心安堵して、また彼女と今まで通りの生活を送れるのだと信じた。


 その時は、本気でそうなると信じていたんだ。 

 しかし、僕の目の前にいる彼女は、「えっ」と目を丸くして僕の言葉にたじろいだ。それから、


「昨日、見てたんだ」


 と、ばつが悪そうにゆっくりと視線を足もとに落とした。


「……夏音?」


 予想外の彼女の反応に、僕もどう返せば良いか分からない。


「あれは、その……」


 言葉を濁らせながら、彼女は事実を話そうかと迷っている様子だった。


「三宅君と、僕には言えないようなことをしてたのか?」


 たまらなくなって僕は直球勝負に出た。


 どうか早く、早く、早く。

 一刻も早く、僕の言葉を否定してくれ。


「そんなんじゃ、ないけど」


 それでも相変わらず彼女の返事は曖昧で、その態度が僕を余計苛立たせた。


「じゃあ何をしてたんだよ」


「それは、言えない」


「何だよそれっ」


 僕はつい、声を荒げてしまう。

 夏音が、肩を震わせて「信じられない」というような目で僕を見ていた。


「僕に言えないような、やましいことをしてたんだな。分かったよ……とりあえず今日はもう帰るわ」


「ま、待ってよ……!」


 僕は速足で彼女の側からどんどん遠ざかる。

 彼女が後ろで僕の名前を呼びながら追いかけて来るのが分かった。

 けれど、しばらくすると諦めたのか、次第に彼女の足音も聞こえなくなる。

 逃げ出したい気持ちが、彼女と僕の距離をどんどん遠ざけてゆく。やがて心が鎮まり、熱を帯びていた頭が冷えて冷静になる。



 僕はそこで、ようやく一人になった。




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