その日のシフトは、沢田さんと同じ時間に上がりだった。更衣室で着替えてから帰ろうとしたとき、ちょうど女子の更衣室から沢田さんが出てきたため、途中まで一緒に帰ることになった。
「水瀬君お疲れさま」
「お疲れ」
僕は自転車で通勤していたが、沢田さんが歩きだったので、チチチチと車輪の音を鳴らしながら自転車を押して歩いた。
夕暮れ時の光が、僕たちの進む道を橙色に染め上げる。高校時代、夏音と文化祭の委員会終わりにこうして二人で歩いて帰ったのを思い出す。あの時、夏音は夕日が綺麗だと言っていた。キャンバスに描きたいとも。でも、彼女は本当は青い世界しか描けない。赤い世界は、彼女の心の傷を呼び起こすから。だから、あの時彼女が「綺麗」と言ったのは、本心じゃなかったのかもしれないと、後で気がついたのが妙に虚しかったのを今でも覚えている。
「さっき後藤君と話してたことじゃないけどさ」
沢田さんは、普段は今朝のように僕と冗談を言い合えるような明るい性格をしている。でも、そんな彼女も、夏音の話をする時は、ちゃんと「おふざけモード」をオフにしてから話し出す。
「どうだった? 病院」
僕は、沢田さんにはきちんと夏音の今の状況を話すべきだと思い、病院で医者から言われたことをそのまま告げた。
「なるほどね……ストレスが原因で、記憶障害が起こったってわけか」
「どうやらそうらしい」
「だったら、そのストレスの原因、心理的ショックを引き起こした出来事が分からないと記憶も戻らないわけだ」
「多分そうだろうな……」
こればっかりは、僕にも沢田さんにもきっと分からない。夏音が、自分で思い出す外はないのだ。
それに、
——ううん、原因を知ることじゃないわ。むしろ、原因を知れたら、その時は本当に『ストレスによる解離性健忘』って言うことができるでしょう。健忘だったら、私は怖くない。でも、本当はそうじゃなかったら……?
彼女は、自分が解離性健忘ではない可能性も疑っている。僕には分からないが、彼女には彼女なりに何か思うところがあるのだろう。それを無理に聞き出すのは、今は難しいと見ている。
「水瀬君、あのさ」
足元で、僕と沢田さんの影がお化けみたいにひょろりと伸びて、時々、ふらっと揺れているように見えた。もちろん、そんなことは起こらないのだけれど。
「あたし、やっぱり夏音と会ってみたい」
隣を歩く沢田さんが、意を決したような固い口調でそう言った。
「……夏音と会う、か」
「……やっぱダメかな? あたしが夏音と会ったら、もしかしたら何か変わるかもしれないじゃない? もちろん変わらないかもしれないけど。でも、何もしないよりましだと思うの」
沢田さんは本当に友達想いなんだな、と僕は思う。
中学時代に、彼女が唯一仲良くしていたという友達。
僕だって、沢田さんと夏音を一度会わせてみたいと思っていた。
「分かった。彼女に聞いてみるよ。ここ2、3日でだいぶ落ち着いてきたし、もしかしたら会ってくれるかもしれない」
沢田さんが夏音を救う要になるかもしれないと、ちょっとばかり期待を込めて、彼女の要求を受け入れることに。
「ほんと! ありがとう。よろしくお願いします」
何が起こるか分からないけれど、彼女が沢田さんと会ってくれるようにと願いながら、僕はその日、沢田さんと別れた。