「不思議な話をしてもいいですか?」
北千住の片隅にたたずむ喫茶店『コハクコーヒー』のカウンターで、私は静かにそう切り出した。
「あら、どんな話ですか? 聞かせてくださいよ」
カウンターの向こう側に立つ瀬沼有紗(せぬま ありさ)が、金髪のショートカットを揺らしながら、柔らかな笑顔で応えてくれる。彼女の明るい声が、薄暗い店内に軽やかな響きを添えた。私はその優しさに内心で感謝しながら、ゆっくりと話を始めた。
「一年ほど前に、ある有名人が異様な死に方をしたんですよ」
「わ、やだ。なにそれ、ちょっと怖い話ですか?」
瀬沼さんの声にわずかな怯えが混じる。
私は小さくうなずいて、言葉を続けた。
「そうなります。はっきり言うと、ふたりの人間が毒を死因として亡くなったんです」
「ふたりも……」
昼下がりの店内はひっそりとしていて、時計の針は午後二時半を少し回ったところを示している。客は私、佐野敦(さの あつし)ただ一人で、店長は銀行へと出かけたままなので、この場にいるのは私と彼女、ふたりだけだ。
私は話を続けた。
「ひとりは三沢坂博子(みさわざか ひろこ)という六十歳の女性で、こちらは一般人の女性です。有名なのはもうひとりのほうで、名前は滝山万年筆(たきやま まんねんひつ)。宮城県出身で、いまは千葉県松戸市に住んでいる四十四歳の男性です」
「あ、その事件なら、少しだけ知ってるかもです。滝山万年筆って、小説とか映画のレビューで有名だった人ですよね。動画も出しているし、フォロワーもたくさんいるし、批評の本まで何冊か出していて」
その通りだ。
滝山万年筆はペンネームで、本名は知らない。
彼は映画や小説の批評家として名を馳せた人物だった。鋭い筆鋒で読者を挑発し、時に議論を巻き起こすそのスタイルは、彼のトレードマークだった。私を含め、多くのファンがその言葉に熱狂し、時には救われた。
私が滝山の文章にどれだけ支えられてきたか。
私は彼の、ファンを通り越して、いわゆる信者だった。
彼のブログは私にとって、生きるための灯火だったのだ。
「ええ、そうです。希代の批評家、滝山万年筆……。私は彼のブログが大好きでした。その万年筆先生が一年前、毒で死んだのです。それも、密室の中で」
「つまり……密室殺人、ですか?」
瀬沼さんの目が丸くなる。
私はうなずき、記憶をたどりながら詳細を語った。
「そうです。廃墟と化した古い一戸建ての中で。出入り口や窓にはすべて鍵がかかった状態でした。しかもそんな状態で、鍵は部屋の中に落ちていたのです」
私は一年前に報道された、謎の数々をひとつひとつ思い出しながら、瀬沼さんに説明を続ける。
「もうひとりの死者、三沢坂博子――彼女はその廃墟の隣に住む女性で、近隣住民からは傲慢で短気な性格として知られていたそうですが……まあそれはさておき、ふたりとも服毒死で、胃の中からトリカブトの成分が検出された。死因は明白でした。
遺体はもがいたり苦しんだりした形跡もなく、それでいてそのかたわらには奇妙なものが落ちていたんです。飲みかけの缶ビールと、居酒屋によくある料理の山芋鉄板。山芋鉄板は食べかけだったのですが、滝山万年筆でも三沢坂博子でもない第三者の唾液が付着していました。
なお、亡くなったふたりの胃の中は、万年筆先生はビールだけ。三沢坂博子にはカレーライスが入っていたそうです。つまり山芋鉄板は含まれていなかった。ついでながら睡眠導入剤なども入っていなかったそうです。
さらに、二人の死亡推定時刻には三時間のズレがありました。万年筆先生が亡くなってから三時間が経って、三沢坂博子が亡くなったとか」
瀬沼さんが息を呑む音が聞こえた。
「えっ……それじゃあ、滝山万年筆とも三沢坂博子とも違う三人目の人物がいて、その人が犯人ってことですか? それで、その人が殺人前に山芋鉄板を食べた、とか? でも三時間のタイムラグがあるのは、よく分かりませんね。
……んん、確かに不思議というか、異様な事件です。話を聞いて、最初は心中かなとも思ったんですけれど」
「普通はそう思いますよね。ところが、万年筆先生と三沢坂博子の間には、なんの関係性も発見されなかったのですよ。ふたりは知り合いですらない、完全なアカの他人だったと警察が証言しています」
「ええ……。本当ですか、それ。知り合いでもないふたりが廃墟でいっしょに亡くなっていたんですか? それも密室で? ……やっぱり事件ですね。誰か犯人がいると思いますけれど……。
ああ、でも犯人は、どうして廃墟の中で山芋鉄板なんて食べたんでしょうね? ……あはは、考えたら鳥肌が立ってきちゃいました」
私は彼女の笑顔に少しだけ罪悪感を覚えた。
「怖がらせてすみません。昼下がりの喫茶店にはふさわしくない話題でしたね」
私は半年ほど前からこの店に通うようになり、瀬沼さんとは顔なじみになっていた。同世代ということもあって親しみを感じていたが、彼女はこういう話が苦手らしい。私は少し反省しながら、話題のきっかけを補足した。
「事件が起きたときから、ネットではけっこう話題になっていて。それに私自身が滝山万年筆先生の信者だったもので、つい」
だからこそ、この事件が頭から離れない。廃墟での死、密室という不可解な状況、そして彼の最期を彩る奇妙な手がかり。
「いえ、お気になさらず。大丈夫ですよ、わたし、慣れていますから」
なにに慣れているのか分からない。
私は首をかしげたが、彼女がそう言うならと話を続けた。
「これを見てくれませんか。滝山万年筆先生のブログです」
私はスマホを差し出し、画面に滝山のブログを表示した。
十四年前から死ぬ日まで更新され続けた文章が、ぎっしりと並んでいる。
「亡くなる半年ほど前から、不穏な更新が増えてきています」
2023年11月16日:映画『七つ星の純情』鑑賞
映画『七つ星の純情』を観た。主演俳優の熱演は光るが、脚本と演出が紋切り型で工夫がない。恋人に裏切られるシーンの涙は美しいが、そこで流れる安っぽいバイオリンは三流だ。ラストの再会も出来の悪い昔の昼ドラ並み。星二つ。時間の無駄だった。
2023年11月20日:柴山忠治の死と『孤島の灯台』、そして謎の人物
映画監督の柴山忠治が亡くなった。享年八十八。人間心理を巧みに描いた作品を数多く制作した方だが、中でも『孤島の灯台』(1990年)は傑作だ。嵐の中、灯台守が狂気に堕ちる心理描写は圧巻で、ラストの炎に包まれるシーンは絶望の美学だ。あれは日本映画の最高傑作といっても過言ではない。
それほどの傑作を産み出した監督なのだが、テレビはまるで訃報を取り扱わず。新聞でも隅に小さく載っただけ。ネットもあっちこっちを覗いてみたが、ほぼ無反応だ。三十年も新作を出しておらず、興行成績の全盛期も昭和中期の人なので無理もない、と思う反面、あれほどの才能が、世間からは忘れられているのかと驚愕している。
ところで最近、妙なことが起きている。夕方の駐車場で黒いコートを着たやつを見た。ハンチング帽、サングラス、マスクで顔は隠してる。右手をコートのポケットに入れっぱなしだが、刃物でも入れているんじゃないのか? それにしても、ずっとこっちを見てきていた。偶然だろうが、気味が悪い。
2023年11月25日:黒コート
俺は殺されるかもしれない。例の、黒いコートを羽織った人間にだ。毎日尾けてくる。今日もコンビニの前で奴を見た。右手に刃物が光っている。本当だ。最寄りの交番に相談してみたが、防犯カメラをチェックしてみます、とだけ言われて、動く気配がない。
やつが何者なのか分からないが、純然たる殺意だけはひしひしと感じる。俺の批評が気に入らないのか? まさか……。
「えっ、これは……」
瀬沼さんの声が途切れる。
私はうなずいて、さらに後日の記事を表示した。
2023年11月27日:恐怖そのものだ
黒いコートを着た人間がまた現れた。毎日毎日、尾けてくる。怖くなってきた。警察に相談しても、自宅周囲にパトロールを増やしますと言う程度。これではどうにもならない。俺はきっと、黒コートのあいつに殺される!
記事には写真が添付されていた。
若干、ブレてはいるが、夕焼けの駐車場で、黒いコートを着た人物が立っているのが分かる。
滝山万年筆の言う通り、ハンチング帽、サングラス、マスクで顔は見えない。だが、確かに異様で不気味な雰囲気をもっていた。
「気持ち悪い。誰ですか、これ。このコートの人が滝山万年筆を殺した犯人――つまりその、山芋鉄板を食べた人じゃないんですか?」
「それが分からないんです。警察もこのブログを見たでしょうけど、黒コートの人間は見つかっていない。逮捕もされていません」
こんないかにも怪しげなやつが、廃墟で人を殺してから山芋鉄板を食べていたと思うと、滑稽なようにも感じる。
だが、これはやはり事件だ。ふたりの人間を、恐らくこの黒コートの殺人鬼が襲撃した密室殺人事件に違いない。
動機も犯行方法も、かいもく見当さえつかないが……。
私はすっかり冷めたコーヒーをすする。
「万年筆先生の死が未解決のまま迷宮入りするなんて、耐えられませんよ。私はいまでも万年筆先生のブログを見ています。あのブログは先生の最高傑作にして、言うならば滝山万年筆の墓標です。墓参りしているような気分ですよ」
「分かります。私もその事件の真相、知りたいですもん」
瀬沼さんは首を縦に振りながら言った。
「亡くなり方が謎に満ちすぎていますもんね。正直、ちんぷんかんぷんなんですが」
そして、彼女は突然顔を上げた。
「佐野さん。よろしければ、ひとを紹介しましょうか」
「ひと? と言いますと?」
「探偵じゃないけれど、探偵のようなひとを知っているんです。どんな謎に満ちた事件でも、ずばっと解決してくれる素敵なひとです。きっと滝山万年筆先生の事件を解決してくれますよ。その名も、黒葛川幸平(つづらがわ こうへい)先生。……いかがでしょう?」
その名を聞いた瞬間、私の胸がわずかに震えた。