2023年11月16日:映画『七つ星の純情』鑑賞
映画『七つ星の純情』を観た。主演俳優の熱演は光るが、脚本と演出が紋切り型で工夫がない。恋人に裏切られるシーンの涙は美しいが、そこで流れる安っぽいバイオリンは三流だ。ラストの再会も出来の悪い昔の昼ドラ並み。星二つ。時間の無駄だった。
二〇二五年五月十二日。
時刻は午後二時ちょうどであった。
ゴールデンウィークが終わり、北千住の町は初夏のきざしに包まれていた。
近ごろの日本は、五月だというのに容赦なく暑くなっていくのだが、この日は特に暑かった。
ガラス越しに覗く路上に、陽炎が燃えて揺らめいている。
私は『コハクコーヒー』のカウンター席でスマホを手にしていた。
画面には滝山万年筆のブログが映し出され、その不穏な言葉が私の目を捉えて離さない。
外では、瀬沼さんが店の前を箒で掃き清めていたが、突然その動きが止まり、彼女の明るい声が響いた。
「あっ、黒葛川先生、こっち。こっちです!」
ガラス越しに、彼女が手を振るのが見えた。私はスマホをポケットにしまう。お目当ての人物が現れたことを悟ったからだ。からん、からんとドアベルが軽やかに鳴り、瀬沼さんといっしょに男が足を踏み入れてくる。
「やあ、どうも……僕……」
か細い声が店内に響いた。
この人が瀬沼さんの言う『探偵のようなひと』なのか?
黒い長袖のシャツを着た、中肉中背の青年。背丈は私と同じ百七十センチほどで、前髪が長く顔を覆っている。年齢は二十歳にも四十歳にも見えたが、目を凝らすと左右の瞳の大きさが異なることに気づく。
これこそが、瀬沼さんの言っていた『雌雄眼(しゆうがん)』だ。黒葛川幸平は雌雄眼を有すると事前に聞いていたが、実際に目の当たりにすると、大きさの違い以上に、その透き通った眼球に宿る静かな輝きの美しさに、私は一瞬息を呑んだ。
「ええっと、瀬沼さん。こちらの方がご紹介の佐野敦さんですよね? ……ああ、やっぱりそうですか。ええ、どうも、初めまして。僕は黒葛川幸平といいます。今日はよろしくお願いします」
と、彼が瀬沼さんに確認を取ったのは、私の背後に『コハクコーヒー』の店長、山之上参次がいたので、どちらが佐野敦なのかを知りたかったからだろう。私は立ち上がり、丁寧に挨拶を返した。
「こちらこそ、よろしくお願いします。私が佐野敦です。……店長、私にアメリカンのおかわりをください。それと黒葛川先生にもなにか――ええと、先生、お飲み物はなにを――」
すると瀬沼さんが一歩、前へ出て、
「あっ、黒葛川先生はアイスコーヒーですよね? 分かってます、分かってます」
「ええ、まあ。よろしくお願いします」
「はい、もちろん。店長、アメリカンとアイスをひとつずつ」
瀬沼さんは笑顔でそう言いながら、黒葛川幸平に熱っぽい視線を送った。
彼女がそんな瞳をしている姿は初めて見た。
もしかして瀬沼さんは、彼に特別な想いを寄せているのだろうか。黒葛川幸平の飲み物も、アイスコーヒーだと即座に判断していたものな。
内心でそう推測したが、その話題を表に出すつもりはなかった。
私の興味はもちろん別のところにある。
私はすぐに、その話題を切り出した。
「ところで黒葛川先生、事件のことは、瀬沼さんからどこまで聞いているのか分かりませんが」
「ああ、だいたいのことは耳にしていますよ」
彼は薄い笑みを浮かべた。
「滝山万年筆先生の事件については、一年前の当時、僕もネットで報道を見ていました。でも、それだけです。まだ万年筆先生のブログが残っていることや、黒コートの人物、密室の謎などについては知らなかったのです。瀬沼さんから事件の一部始終を聞いて、驚いているところです」
「黒葛川先生としては、あの事件、どうお考えですか?」
せっかちすぎる気もしたが、私はずばり斬りこんだ。
「万年筆先生のブログで話題になっていた、あの黒コートの人物が犯人でしょうか?」
「はあ、いえ、さすがにブログだけでは僕もなんとも言いかねるのですが」
黒葛川幸平は、困ったように笑いながら雌雄眼をまばたきさせながら、
「ただ、あくまでも直感的に答えるならば――黒コートは逆に、犯人ではない気がしますが」
「は……」
私は唖然とした。
あんな、いかにも怪しい人物が犯人ではない、とは?
もちろん決めつけは良くない。
良くないが、しかし――
「失礼ながら、黒葛川先生はなぜ、そのようにお考えになったのでしょう」
「あの、まだ直感ですからね。黒コートがもしかしたら本当に犯人かもしれない。ただいまの時点では、というだけです。なぜかと言うと、万年筆先生も三沢坂博子という女性も、毒を死因として亡くなっていますよね。これは警察も発表しているから確かです。
それなのに、この黒コートが持っている凶器はどうやら刃物らしい。となると、ちょっと整合性が怪しいといいますか――」
私は、思わず身を退かせた。
そうだ。黒コートが持っているのは刃物だ。
だが万年筆先生は毒で亡くなった。
使われたのは、トリカブトだった。
たったそれだけのことを、私はどうして見落としていたのか。やはり私は、万年筆先生のことだからと舞い上がっているだけの素人であり、目の前にいる黒葛川幸平は、確かに瀬沼さんの言う通り、探偵のようなひとなのだと思った。
「お、お見事です。さすがですね。確かにこれだと整合性が怪しいです。うん、噂通り、黒葛川先生は名探偵でいらっしゃる」
「い、いやいや! 全然、大した話ではないんですよ、本当に。もしかしたら黒コートが、刃物による殺害はあきらめて、毒を使ったのかもしれませんからね。だからあくまで直感的と申し上げた次第で。そ、それに――あのう、ちょっと待ってください」
彼は手を何度も振って、
「ひとつ、確かにしておきたいことがあります」
「なんでしょうか、黒葛川先生」
「まずですね、僕は探偵ではないんですよ」
また、私は少し驚いた。
そういえば、探偵ではなく、探偵のようなひと、と瀬沼さんは言っていた。
となると、彼の職業はいったい?
警察でもないようだが――