ピコンッ!
《警告:周辺に敵対ユニットの気配を検知》
「っ、な、なんだ……!?」
まだ装備も、仲間も、何も整っていない。
それでも――
「深淵の司祭、展開お願いできるかな。“従僕”を」
「御意。今ここに、深淵の門を開かせていただきます」
深淵の司祭が黒い杖を掲げると、地面に浮かぶ魔方陣が、じわじわと輝きを帯び始めた。
「闇よ、蠢き、這い出でよ……王の影となり、刃となれ――我が王に仕えよ、深淵の従僕よ」
詠唱と共に、空気が震える。
そして、霧の中から――黒い靄のような人影が三体、這い出るように現れた。
やせ細った骨ばった身体に、異様に長い手足。無機質な仮面のような顔――感情の一切を拒絶するような、ただの器。
口や目は見当たらない。
その動きは人間らしさを欠き、カタカタとどこか機械的……いや、非生命体的。
道理にかなわぬ動きというべきだろうか。
それは、ユウマの知る《邪神のしもべ》のカードイラストそのままの姿だった。
「(やっぱり……従僕の動きはゲーム同様に不気味だな……)」
深淵の司祭が従僕たちの召喚を終えると、従僕たちは無言でユウマに対して跪いた。
心の奥が震える。
恐怖でも、戸惑いでもない。――確かな手応え。
ユウマは、今、自分が「カードゲームで戦う異世界」に立っていることを理解した。
この世界は、ゲームではない。けれど、ゲームで培った知識が、生きる。
――これなら、やれるかもしれない。
「深淵の司祭。陣形は任せていいかな」
ユウマのその指示に、深淵の司祭は短く答えた。
「御意――如何なる敵であろうとも。王の御名のもとに、勝利を刻みましょう」
そう呟いたユウマの声は、さっきより少しだけ、あたたかかった。
――少なくとも、目の前にいるこの存在は、“ただのAI”ではない。
それだけで、ほんの少しだけ、孤独が薄らいだ気がし、ユウマの背中は軽くなった。
だが、その安堵は長くは続かなかった。
ユウマは、まだこの世界で自分が「ゲーム感覚」であったことを、後悔した。
この世界が、現実であると。
そう改めて、現実を突きつけられるのだった。
突然、霧の中から低く唸る声が響き渡った。
ユウマは全身の毛が逆立つような感覚に襲われながら、反射的に身構える――霧の奥から、殺気が這い寄ってくるようだった。
「なんだ、あれ……?」
その瞳は獲物をじっと睨みつけ、狂気に満ちたような光を宿していた。そして、次第に森の霧を割くようにその姿が現れた。
姿を現したのは、漆黒の毛並みをまとった巨大な狼。
体長は大人程――約2メートル。
体高も小さい子供などよりも大きい。
おそらくユウマの胸あたりには頭がつくだろう――ユウマにとって、恐怖を感じるのに十分すぎるほどに、大きい。
だが、その黒い毛は光を一切反射せず、木々が生み出す森の影の一部のように滑らかに動き、狼の姿をぼんやりと霧に溶かしている。
闇の中から、喉を震わせるような低い唸り声が響いた。
ガルルル……と、魂に爪を立てるような獣の音。
その赤い目は血に飢えた捕食者のようで、まるで魂を覗き込むようにユウマを見据えていた。
狂気が宿る瞳が鋭く光るたび、ユウマはまるで心臓が鷲掴みにされたような恐怖に襲われる。
霧の中から徐々に姿を現していく巨大な体が低く構え、まるでその場に吸い込まれそうな静かな威圧感を放つ。
前足は太く筋肉質で、鋭い爪が地面を掴むたびに不気味な音が響く。
黒い狼の動きはまるで影のようで、体躯の大きさを感じさせないほど軽やかだ。
その姿は、夜の森に溶ける幻。
……だが、殺気だけは、確かにそこにあった。
ユウマの心臓は激しく脈打つ。
まるで喉元まで跳ね上がり、息が詰まるかのように。
「ッ!……違う……こんなの、知らない……」
威勢は、霧とともに消えた。
怯えるユウマの前に、大きな影が静かに差し――深淵の司祭がユウマの前に庇うように出たのだ。
「王よ、お下がりください。
黒い狼の瞳には狂気と戦意が混在しており、そのまま飛びかかってきそうな勢いだ。
魔物。
異世界などのファンタジー作品に登場する、人間ではない怪物や生き物の総称だ。
そんな存在が、自分に対して襲い掛かろうとしている。
「こんなのが……現実なのか……!?」
凶悪な牙を見せ、口元からわずかに唾液が垂れる。
それは、今まさに獲物を前にし、捕らえようとする捕食者そのもの。
その時――
ピコンッ!
《緊急クエスト発生》
《ナイトシャドウ・ウルフを討伐せよ!》
《報酬:生存》
ユウマは思わずクエスト通知に目をやるが、目の前の緊急性に頭が追いつかない。
「ふざけやがってッ……今さらクエストなんて……!」
――前もって教えてくれ!!
だが、目の前の黒い狼――ナイトシャドウ・ウルフが完全に青年を狙い定め、じわりと距離を詰めてくることが、現実を否応なく突き続ける。
ユウマはその圧倒的な存在感に押され、思わず後退る。
だが、逃げ場はない。
ナイトシャドウ・ウルフは、完全に獲物を狙い定め、じわりと一歩、また一歩と距離を詰めてくる――。
深淵の司祭は、ユウマを守るように素早く狼からの視線を防ぐように彼の前に立つ。
その動きはまるで無駄がなく、ユウマは深淵の司祭に全幅の信頼を置けることを感じた。
今は深淵の司祭がいる――ユウマはその存在に頼りつつも、無意識に剣へと手が伸びていた。
「俺も、戦わないと……!」
恐怖に震える身体を無理やり動かし、ユウマは鉄の剣の柄をしっかり握りしめた。
だが、震える手では鞘から剣を引き抜くことすらできない。
「くそ……!」
焦燥と恐怖が、心を絞めつける。
ナイトシャドウ・ウルフはゆっくりと彼に向かって歩み寄ろうとする――
「その間に深淵の司祭と従僕たちが立ちはだかり、距離を詰められずにいる。
隙があれば今すぐにでもユウマの喉元に食いつかんばかりに鋭い牙が並ぶ口から涎を垂らし、鋭い眼光が射貫く。
それを見つめるユウマの全身に冷たい汗が流れる。
違う、これはただのゲームじゃない。
これは――現実。そう、日本や地球なんかじゃない。異世界だ。そう認識した瞬間、ユウマは恐怖で動けなくなった。
「俺……どうすれば……!」
狼がゆっくりと距離を詰めてくる。
ユウマは自分を庇うように立つ深淵の司祭に命じるしかなかった。
「深淵の司祭! あの狼を倒せ!」
「御命令、畏まりました!」
深淵の司祭は右手に握った漆黒の杖を高く掲げ、呪文を唱え始めた。
「漆黒の虚空よ、永遠の闇を裂きて、我が声に応えよ。深淵の底より生じし力よ、今ここに顕現せよ……アビサルブレイド!」
深淵の司祭の杖が光を集め、その先端に闇が凝縮されていく。
時間が止まったかのような静寂の中、ユウマはその瞬間を見逃さないように目を凝らした。
そして、次の瞬間――杖から黒い刃が放たれ、ナイトシャドウ・ウルフを一閃した。
その一撃は、深淵の司祭の後ろに居たユウマにですら、恐ろしい一撃だと感じさせ、不気味な風を浴びる。
黒い炎が一閃し、狼の体を切り裂いた。
そのまま、巨体は地に沈み、二度と動くことはなかった。
ユウマは、あれほど大きく恐ろしい狼が一瞬で倒れたことに、驚きを隠せなかった。
「……すごい」
空気が凍るようなあの一閃、ユウマはただ、息を呑むしかなかった
ただのキャラクターじゃない。現実に存在し、心強い“仲間”だ。
そして、彼の目の前で血を流して倒れる黒い狼・ナイトシャドウ・ウルフ。
「……魔物。呪文。殺しあい……本当に……ここは……異世界なのか……」
彼はようやく理解した。
この世界は、ただのゲームの中ではない。
本当に、自分の知っていて、知らない世界だ。
映画、アニメ、小説――そうした創作の中でなら、幾度も“異世界”は描かれてきた。
いや、もしかしたら気絶している間に、現実が変わったのかもしれない。あるいは誰かに記憶を奪われ、非人道的な実験に巻き込まれた……?
だが、そんな理屈すらも薄れていく。
……ここは、異世界だ。でなければ説明がつかない。
森を吹き抜ける風が肌を撫でる。濃密な緑の匂いが鼻を突き、獣の血の臭いと混じり合う。
手のひらには、今なお剣を握れずに震える自分の手。
司祭の力強い背中と、そこに守られる自分の無力さ。
――これは、夢なんかじゃない。
そう理解した瞬間、ユウマの心は、逃げ道のない恐怖に覆われた。
固まった体を動かせず、ただただ、目の前に表示されたパネルを確認すると、得た経験値や報酬が次々と表示されていくのが見えた。
ピコンッ!
《ナイトシャドウ・ウルフを倒しました。》
《ナイトシャドウ・ウルフ討伐: +500XP獲得しました。》
《緊急クエスト!ナイトシャドウ・ウルフを討伐せよ!:をクリアしました。》
《クリア報酬:+500XPを獲得しました。》
《クリア報酬:闇狼の討伐者を獲得しました。》
《経験値が一定以上溜まりましたため、レベルアップします。》
《ユウマのレベルが1から2に上がりました。》
《討伐報酬:ナイトシャドウ・ウルフの影の毛皮を獲得しました。》
《討伐報酬:ナイトシャドウ・ウルフの黒爪を獲得しました。》
《討伐報酬:真紅の獣眼を獲得しました。》
《討伐報酬:汎用カード・ナイトシャドウ・ウルフ1枚を獲得しました。》
《ボーナス報酬:汎用カード・ナイトシャドウ・ウルフが解放されました。》
《レベルアップ報酬:新たなミッションが解放されました。》
《レベルアップ報酬:デッキ拡張用パック x3 を獲得しました。》
《レベルアップ報酬:指定カードパックx1を獲得しました。》
《実績解除:生存競争》
《――弱き者に未来は与えられません》
「本当に、何なんだよ……俺は、一体どこにいるんだ」
無機質に表示されるパネル。
その向こうに佇み、こちらを静かに見つめる深淵の司祭。
そして、血を流して倒れる巨大な狼。
――ミッション。
ステータス。
召喚。
緊急クエスト。
報酬。
狙ったかのように襲いかかってきた魔物との、命懸けの戦い。
考えれば考えるほど、これは……まさに、先ほど感じたゲームの『チュートリアルだ』。
だとしたら。
「――ふざけるなよ」
……なら……この先、一体、何をさせられるっていうんだ……?
一体誰に、この不安と怒りをぶつければいいんだ……。