※この物語は、記憶を失った少年が、
ただ一つ覚えていた"ゲーム"の記憶を頼りに、
そのゲームの力を使い、
異世界で仲間を召喚し、
国を築き、英雄となり、やがて“王”という名の責任と誓いに辿り着くまでの物語。
戦略、召喚、国家運営――すべては、一枚のカードから始まった。
※ ※ ※
冷たい感触が頬を撫でる――黒髪の青年が、湿った森の地面で目を覚ました。
張り付いた髪を揺らし、ぼんやりと開いたその瞳は、どこか夕陽を思わせる淡い色を宿している。
紺色の学ランに包まれた身体が、濃霧に包まれた大樹の根元に投げ出されていた。
そこは、霧の立ち込める深い森――湿った空気が肌に絡みつく、冷え冷えとした場所だった。
視界に広がるのは、見慣れないほど巨大な木々と、すべてを覆い隠す濃霧――まるで、この世界そのものが彼を拒んでいるかのようだった。
湿った地面に横たわっている自分の体に気付き、思わず上半身を起こす。
寒さに反応して背中を丸めた。呼吸をすれば冷たい空気が肺を満たし、寒気が背筋を駆け上がる。
巨木が幾重にも並び、視界を覆っていた。その幹は、空を貫かんばかりに高くそびえている。
「ここ……どこだ?」
彼の口から漏れた言葉は、霧に呑まれ、音もなく消えていく。
辺りを見回しても、見知らぬ森が広がるばかりで、何の手がかりもない。
「なんで、森の中に居るんだ……?」
起き上がり、体を軽く伸ばす。
視線を下げると、着ているのは見覚えのある紺色の何処にでもある学生服――学ランだ。日本の中・高校生がよく着る、あの制服だ。
学生だったことは間違いないだろう。
着心地も違和感はない。
上着の下を覗けば通気性のよさそうな白いポロシャツに、足元には飾り気のない白いスニーカー。
学ランの懐かしい手触りだけが、記憶の底にぼんやりと残っていた。
だが、制服のポケットに手を入れても、スマホも財布も、学生証も、何もない。ただ、身一つ。
制服の裾には、わずかに湿った泥がついている。
手探りで確認する自分の顔。鏡も、反射する水面も、ここにはないため、分からない。思い出せない。
自分がどうして森の中で眠っていたのか、さっぱりわからない。
何が起きているのか?
ただ、不安が彼の胸を締めつける。
ぼーっと周りの景色を眺めているうちに、ようやく頭の中に一つの言葉が出てくる。
ユウマ――それが自分の名前だと気づくのに時間はかからなかった。
「……名前、だけは覚えてる。でも、それ以外が……」
ユウマは、言葉にできない空白を見つめていた。
思い出せたのは、それだけだった。だが、それ以外の記憶が朧気であることに気づくと、恐怖がじわじわと胸に広がる。
自分が、どうしてここにいるのか、まるで思い出せない。
直前の記憶は、何だったのか。学校に居たような気もする。家で過ごしていたような気もする。誰かと遊んでいた気もする。
自分が地球という星の、日本という国で、日本人だということは確か……な気がする。
そんな曖昧な、夢の中でまた夢を見ていたような、そんなあやふやな感覚。本を読んで得た情報の様にも思えるし、もしかしたら自分が好きな作品の情報かもしれない。
自分が、自分でない感覚。しかしながら、学習した、生きてきたことで培った知識、らしきものはある。
でもそれは、何か第三者の視点で見て得た経験や知識のようで……そう、自分という人間が「どのようにして生きてきたのか」。「誰が周りにいたか」そういった記憶が、ない。
自分という人間を定義できるような、構成する何かが、欠けている。
……本当に、そんな簡単に忘れられるような記憶だったのか?
俺の人生は、そんなにも、薄っぺらだったのか?
まるで、誰かに“要らないもの”として切り捨てられたような、そんな喪失感だった。
――果たして、
記憶は靄がかかったようにぼんやりとしている。繰り返すが自分がここにいる理由も、どうして森にいるのかも、まるで思い出せない。
あたりを見渡すも、何もない。いや、正確には、鬱蒼と繁茂する森が目の前に広がっている。
この森はあまりにも巨大で、長い年月、誰の手も加えられていないことが素人目でもわかるほどに。
巨大な木が並ぶ森。彼の知っている森とはとはどこか違う。どこかの神話に出てくるような、現実離れした巨木の群れ。見上げても、梢は霧にかすみ、どれだけ高いのか見当もつかない。
「いったい、何が起きてるんだ?」
恐怖と不安が次々と押し寄せ、青年の頭の中をぐるぐると駆け巡る。森は静かだが不気味。あえて、それから現実逃避をするように思考と独り言を重ねていく――
「事故に遭った?誘拐?なら、頭を打った?でも身体の何処にも痛みはないし――」
「じゃあ……映画の撮影か?ドッキリ?でも、こんな大掛かりな――」
「夢遊病? いや、そもそもなぜ記憶を思い出せないんだ……?」
この感覚は、最初から記憶がない存在――というわけではない。明らかに、自分は何かが欠けている、何かを忘れているという喪失感。
ユウマは実に、気持ちが悪かった。
だが、その思考を断ち切るように、「ピコンッ」と電子音が突然、鳴り響いた――。
「え?」
それは、耳ではなく脳に直接響くような電子音だった。
驚いて顔を上げると、空中に電子パネルのようなものが浮かんでいた。
まるで夢を見ているような感覚に襲われる。けれど、確かにそのパネルは存在している。
ユウマはパネルに目を凝らした。
《対象個体の覚醒を検知。加護システムを起動します》
《補佐機能、起動……記憶情報を参照し、適応ミッションを生成中……》
《ようこそ、新たな世界へ》
《第一章:新たなる旅立ち》
《ミッション1:デッキを選択し、配下を召喚せよ》
《デッキを選択する(0/1)》
《配下を召喚する(0/1)》
「なんだ、これ。……パネル?」
一瞬、意味がわからなかった。
これは、まるでゲームの画面。いや、でも、こんな現実感のあるゲームがあるなんて知らない。
手を伸ばしてパネルを触ろうとするが、指先が空を切る。
「加護システムに、ミッション生成?新たな世界?デッキ……?」
「いや、待て。これ、ゲームか?……まさか
そんな技術があっただろうか。現代の技術で、ここまでリアルなものを再現できるゲームはありえただろうか。
いや、今ではその自分の記憶すらも、常識という感覚でさえ曖昧な今、それは頼りにならない……。
だが、それでも……草木の匂い、霧の冷たさ、足元に感じる地面の感触――どれも現実そのものだ。
「でも、こんな高い技術が使われたゲーム……俺は知らない。ゲームにしては、あまりにも、リアルすぎる……」
混乱する頭を押さえながら、ユウマは再びパネルに目を向けた。
まるで夢のような状況だが、今の自分にとって紛れもなく現実であることには違いない。
「ゲームの世界に取り込まれた……ってことか? いや、そんなバカな……」
ありえない。けれど、目の前の現象は確実に異常だ。
何が起きているのか理解できない中、唯一の手掛かりはこのパネルだ。デッキを選び、召喚をしろと言われている。
まるで、ゲームの中のように。
しかし、結局のところ記憶のないユウマが選べる選択肢は少なかった。
記憶もない状態で、何処かも分からない場所で救難を待つ?連絡手段に使えそうな持ち物は何もない。
このどう見ても深い森だと思われる場所を当てもなく彷徨う?それとも――パネルに従うか。
恐怖が次第に、焦りへと変わっていく。目の前の状況を理解しようと、必死に考えを巡らせるが、答えは見つからない。
「(やるしかないのか……)」
従うしかない――直感的にそう感じた。
奇妙で、現実感がない状況に、不安と恐怖はさらに募る。もう一度、パネルに向けて手を伸ばすと、今度は黒い長方形のシルエットが五つ現れた。
それぞれの中央には「はてな」マークが浮かび上がっている。どうやら、これが「デッキ」と呼ばれるもののようだ。
なるほど、言われてみれば、縦長の長方形がカードを意味するシルエットだろうと分かる。
やはり何処かゲームの様だと感じながらユウマはその中の一つに触れてみる。
ピコンッと音が鳴る。
実感はないが、空中に浮かぶパネルへの操作は間違っておらず、きちんと選べたらしい。瞬間、パネルが輝きを放ち、選んだデッキの中身のカードたちが視界に広がる。
――ズキッ。
「――っぅぐ」
カードを見た瞬間、猛烈な頭痛がユウマを襲う。
その瞬間、思い出せていなかった「自分の日常」の一つが、断片的に蘇る。
「これは……もしかして、――
夢中になって遊んでいたゲームの記憶が、鮮明に浮かび上がる。
視界に広がるのは、彼が熱中していたカードゲーム――
「
夢か、VRか、本当に現実なのか――空に浮かぶカードは、美しい光を纏っていた。
幻想的な光景に、ユウマはわずかに見惚れる。
慣れ親しんだその輝きは、初めてこの世界で「自分が知っている」ものであり、恐怖をほんの一瞬だけ遠ざけた。
「これは【エデド】だ……間違いない」
自分の手で選んだデッキや戦略が次々と脳裏に蘇る。
だが、思い出すのはゲームに関することばかりで、この世界についての答えは見つからない。
異世界なのか?ゲームの中か?それとも新しい体験や実験か?こんなことが起こるなんて――いや、信じ難いが、何か異常が起きているのは間違いない。
混乱する思考を必死に整理しつつ、彼は視界いっぱいに広がるカードに目を向けた。
再び「ピコンッ」と音が鳴り、パネルに新たなメッセージが表示された。
《ユウマは深淵文明・アビスを選びました》
《深淵文明デッキ『邪神の覚醒者』が解放されました》
《ミッション1:デッキを選択する(1/1)。完了》
《実績解除:深淵の王の覚醒》
《――祈りの残響が、あなたの選択を歓迎します》
「ああ、やっぱり……深淵文明の初期デッキか」
でも、実績解除。祈りの残響?
意味がわからない。そんな演出、覚えがない。
実績解除については報酬もなければ、特に説明もいなく詳細が確認できるわけもない。
ゲームでは確かに実績解除らしきものがあったが、取り戻した記憶の中において詳しくは覚えていない部分だった。
だが、ユウマは小さく息をつき、拳を握った――この状況で、ようやく一歩を踏み出せる気がした。
たとえそれが幻想でも、知っている“ルール”があるなら――今の彼には、それだけが救いだった。