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13話 女スパイの涙(2)

 温かい湯気を上げるカップを二つ持って、ユリエルは本当に近くに座る。その距離にも驚いた。どれだけ信頼を示そうというのか。その姿勢には信頼などを超えた危うさを感じる。

 けれど決して警戒心をなくしたわけではない。それを証拠に彼は剣を手放さず、今も銀のスプーンで砂糖も入れていない紅茶をクルクルとかき回している。


「随分と慎重ですのね」

「既に何本かダメにしていますからね。性懲りも無くやるのですから、ご苦労なことです」


 と、いうことは既に何度か毒殺の危険があったということか。銀は毒によく反応する。


「さて、フェリス。聞いてもいいですか?」

「えぇ」


 温かいお茶を一口飲み、ユリエルは柔らかく微笑む。それに気を許してはいけないのだが、ついつい話したくなる。フェリスはお茶を一口飲み、その美味しさに驚く。付け焼き刃ではなく、平時より彼がお茶を自分で淹れている証拠だ。


「シリルとレヴィンは、元気ですか?」

「えぇ。二人とも傷は負いましたが、命に別状はなく、回復すれば問題ありませんわ」


 そう告げると、ユリエルは明らかにほっとした笑みを見せる。綻ぶように柔らかく、安堵した笑みだ。この笑みが弟であるシリルだけではなく、レヴィンにも向けられているのは気のせいではないだろう。

 情がある人だ。レヴィンが言っていた意味が分かる。鋭さが消えればこんなにも愛情のある人なんだ。

 だからこそ聞きたい。自分が何者かこの人は知っているのか。レヴィンが何者か、この人は知っているのか。


「陛下、貴方は私やレヴィンが何者か、ご存じかしら?」


 聞きたかったことをフェリスは問いかけた。追求する、責めるような目で。でも仕方がない。それほどに、国がしたことは非情だったのだ。

 ユリエルはカップを置いて深く頷く。深い色を称えたジェードの瞳が、真っ直ぐにフェリスを見て頷く。


「貴方たち天使を国が生み出し、使い捨てのように消したことは知っています。それについて憎いというならば、私はその憎しみを受けねばなりません」

「そうね」


 そんな事をしても……この人を殺したり、傷つけたりすることで何かが変わる事はない。心の傷が消える事はない。けれどあまりにあっさりと認めた事には驚いた。もっと否定したり、言い訳するかと思った。


「否定しないのね」

「国から抹消された貴方たちを、私まで否定しては貴方たちの存在は?」

「元々、私たちの存在なんて無いようなものですわ」

「国の罪は消えません。忌むべきものでも、過ちでも。それを償わずに隠す事は、その為に犠牲になった人々への裏切りです。王自らがそれを推奨し、行っては、その国は先が見えていますよ」

「国の罪を、貴方は認めると?」


 ユリエルは静かに頷いた。

 だからと言って失った命も、傷ついた心も元には戻らない。けれど存在まで消されてしまった者達の無念はいつか、この王の下で浄化されるだろうと思う。どんな形かは分からないが、何かしらの形で。


「償うことしか出来ませんがね。手始めに、孤児を引き取り始めています」

「孤児の引き取り?」


 フェリスの表情が途端に険しくなった。刺すような殺気を向けてしまう。

 孤児として引き取られ、転がり落ちたのがフェリスであり、レヴィンだ。それを理解して、本当に温かな手を差し伸べているというならば確かに救済だ。人の優しさと温かさを求めて死んでいった子供達への、何よりの供養だ。

 けれど、信じられない。自分と同じような人間が増えるのでは。そう疑ってしまう。


「また、同じ事を繰り返すの?」

「本当に救済です。それと、投資ですかね。教会で孤児を引き取り、養育と勉学を任せています。子供一人につき、国から費用をだしてね。多くの子供達と温かな食卓を囲み、教育をし、ある程度の年齢になれば独立を促すように。彼らは今後の国を動かす力です。彼らが健やかに育てば、それは国を支え動かす何よりの財産。それを思えば、今の出費は安いと考えています。飾ったり自慢するしかない王宮の宝飾や絵画よりも、よほど価値がありますね」


 やんわりと微笑むユリエルをフェリスは凝視し、その後で涙が出そうだ。こういう人があの当時王であったならば、きっと自分たちは幸せだっただろう。闇に手を染め、消えぬ傷を負い、未来を悲観することもなかった。


「動き出したばかりですから、正しい運用が成されているかを定期的に見なければなりませんが。それに、私には敵が多い。目先の金が好きな者からしたら、私は理解できない厄介者。その為、こうした危険な綱渡りは常ですね」


 暗殺は常に権力者の上にある問題。しかも国民にとってよき王というのは、その手も執拗だ。

 この人の側にとレヴィンが言った理由は分かった。この人を守れと言うのだろう。この人が、病んだこの国には必要なんだ。


「貴方たちには、私が詫びたところで全てが遅い。だからせめて、今が幸せであれと願うばかりです。なんて、レヴィンの気持ちを利用して無茶を命じている私が言えた事ではありませんが」

「全部を知りながら、あいつに大事な弟君を任せるなんて。随分思い切った事をなさいますね」


 一番と言われた暗殺者の手に、大事な弟を知ってて任せるなんて。絶対に何も起こらないと確信しているのか。その読みは意外と当たっているが、そうだとしたら酷い行いだ。

 けれどユリエルは柔らかく微笑むばかりだ。


「レヴィンにとっても、シリルにとっても互いは必要な存在です。別に何事も起こらないなんて思っていません。二人が納得しての事なら、認めると伝えています。ただ、駆け落ちだけはこちらが捜索し、罪に問わねばならないからやめろと」

「大事な弟が男の、しかも暗殺者の恋人になってもよいと仰るの?」

「大事なものを見失った結婚よりは賛同します。それにシリルがいる間は、レヴィンは死ねない。あの子を残して死ぬ事はないと信じています」


 意外なくらいに深いユリエルの思いを見た気がした。フェリスの顔に自然と、嬉しそうな笑みが浮かぶ。なんて情の深い主か。なんて、優しい人なのか。こんな薄汚い人間以下の扱いしか受けてこなかった者に、こんなにも夢を見せてくれるなんて。


「兵器にも、夢は見られるのかしら」

「人が兵器になることはありません。どれだけ心が死んでゆこうと、消え去る事などないのだから。人は夢を見られます。温もりを愛し、人を愛する。故に脆く、故に強いのです」

「いいこと言うのね。詩人のよう」

「私は武人ではなく詩人でありたいと思っていますよ。王であるよりも、真に願うならば持たぬ詩人となりたい」


 そう言って少し遠くを見たユリエルを見て、フェリスは思う。この人はきっと、誰かを思ってそう言っていると。切なく悲しく、でも微笑む姿はこの上も無く色気があるのだ。


「フェリス、貴方に人を殺せとは命じません。ただ、ここにいる私はあまりに視野がききません」

「素敵な義賊を飼っておいでではなくて?」

「あれはシリルにつけました。私よりも彼らの方がよほど危険ですから。何よりシリルは一度決めると頑固で敵を作りやすいのに、自己防衛は覚えたばかり。レヴィンだけでは辛いでしょうから」

「それで、私には貴方の目となり耳となれと、そういうことかしら?」

「お願いできますか?」


 考える素振りだけで、フェリスが断る理由はない。ほんの少しこうして話しただけでも、ユリエルという人物の人となりは分かった。十分に信用に足る人物だし、仕えるに足る主だ。

 それでもやっぱり少し意地悪になる。優雅な笑みを浮かべたフェリスは探るようにユリエルを見た。


「報酬はどうしますの?」

「庭付きの小さな教会などはいかがです? 聖母を祭る」


 フェリスは目を大きく見開き、席を立った。どこまで知っているのか分からない。そのくらいこの人は過去と人の心を知っている。これ以上広い目や耳など必要ないと思えるくらいだ。フェリスの夢を、この人は知っていた。


「そこに花を植えて、身寄りのない子を引き取って、助けを求める人の声をきく。慈しみ、子供を守る聖母に祈り、安らかな日々を送る。それが貴方の夢だと、レヴィンからの別便の手紙に書いてありました。貴方のしてくれることに対する報酬には、あまりにささやかですが」

「……十分、高価な報酬だわ」


 フェリスはユリエルの足元に膝を折る。もっと早く巡り会いたかった。そうすればもっと、この人を好きになれたのに。人の心を知り、願いを知り、それを利用する悪魔。けれどその根底に優しさがあるならば、悪魔でも魔王でもかまいはしなかった。

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