人々もまた、動揺している。静かに揺れるそれが、困惑を伝えてくる。胸の苦しさを押し込め、ユリエルは凛と前を見て問いかけた。
「私がこの親書に応える事は簡単だ。王として、これ以上の争いを私も望んではいない。悲しい歴史を無視する事はできなくても、これからの未来に同じ影を落とし、怒りと憎しみに支配されて血を流し続ける事を望んではいない。だが、王の一存では本当の意味で国を動かす事はできない」
視線がこちらへと注がれる。言葉を待つその視線に立ち向かうように、ユリエルは更に言葉を紡ぐ。
「国の心は民の心。私はそのように思っている。この声を聞く皆の心には、未だ憎しみが宿るのだろうか。その憎しみを、子や孫に伝え続けるのだろうか。戦いがその身ばかりか、愛しい者を焼く事を望むのだろうか」
顔を俯ける人の姿も見ることができた。多くの人の心に問う、王の声はなおも訴える。この胸にある深い願いを届けるように切々と、ユリエルは声を張り上げた。
「私は戦を止めたい。これ以上の流血を願ってはいない。この国の痛みはそのまま、ルルエの痛みでもあると考えている。戦で死ぬのはこの国の民ばかりではない。ルルエの民もまた同じく死んでいる。憎しみではなく、同じ痛みと悲しみを知る者として許し合う事も必要だ。慰め合う気持ちも必要だ。そしてそれは同じく戦い失ってきた両国だからこそ、出来ると信じている」
ジョシュを殺したユリエルを、ルーカスが許したように。深い慈悲の心を彼から貰ったのだ。あの瞬間の安堵を、そして深い贖罪の気持ちをユリエルは忘れない。そんな彼だからこそ信じている。
「今一度、立ち止まって考えてもらいたい。戦いがもたらす多少の土地や利益よりも、受ける悲しみの方が深い事を。隣人の悲しみを。ここにいる多くの者の心に、私は問いたい。和平を願う心があるのかを。私は頃を見計らい、両国の停戦と和平交渉の席に着く。その時に隣人を受け入れる心が皆の中にあるのか。それが、一時的ではない二つの国の絆には必要な事だ」
一時を平和に保てても、そこに住まう人が拒めば本当の意味で平和な関係とはならない。ユリエルが死に、ルーカスが死ねば崩れる脆い和平では困るのだ。それに、最終的な願いは一国。民の心が許し合わなければ、遙か遠い事となる。
だが、安心した。声を聞いた人々の中から、強い負を感じない。戸惑いもあるが、考えてくれている。ユリエルは考えを押しつけるつもりはない。それほどに憎しみを深く持つ人もいて、それを押し込めると歪むのだ。だから、考えてもらいたいのだ。そう、訴えたのだ。
「陛下、まずは受け入れられたようですね」
ユリエルに聞こえる声でクレメンスが言い、背後の臣も深く頭を下げて安堵の表情を浮かべている。ユリエルもそれに頷いた。
そしてもう一つの罪を、誰にも知らせずに今明かそうとしている。
「もう一つ、ここにいる民に伝えたい事がある」
静かに声を落ち着けたユリエルの声に、一度俯いた視線が上がった。これには話を聞いていないクレメンスやシリル、他の家臣も驚いたように顔を上げ、動揺を露わにしている。それに構わず、ユリエルは続けた。
「この度、この親書を宰相ロムレットから守った者がいる。その者はかつて天使と呼ばれ、忌みとして見放され、多くの罪を背負わされた者だった」
動揺は一番大きいだろう。民達の間では未だに天使の影がある。隠そうとすればするほどに、こうした事は根強くあるのだ。
「その者はロムレットに天使である事を強要されながらも、いつかその罪を明かそうと多くの証拠を守り抜いてくれた。そしてこの親書もまた、私に届けてくれた。彼がいなければ、私は彼の王の心を知る事はなく、今もまだ戦う事を決断しただろう。残念な事に、その者は既にこの世にない。最後の天使は使命を果たして世を去った。王として、私はその者の功績に感謝すると同時に、彼らの存在に蓋をして消し去った国の罪をここに認め、謝罪をしたい」
人々の中に、ユリエルはフェリスを見た。大きな目に涙を浮かべた彼女は人前だということを忘れて泣いている。そして、背後でも空気が揺れるのを感じている。今、レヴィンを見る事はできない。彼らの今後を考えて、天使はこれ以上いないとしたのだ。悟られてはいけないし、そんな必要はない。天使はいなくなる。本当にもう、いなくなるのだ。
「国の卑劣な行いによって死んだ、多くの子供達。そして、未来を歪められてしまった者達に、王として謝罪する。すまなかった」
一歩下がり、頭を下げるその姿を、民はどう見るのだろうか。間違いを間違いと認めなかったこれまでを、どうしてもユリエルはよしと思えなかった。晒す事になるが、これでいい。この治世はこれでいい。そう思っている。
ポンと、肩を叩かれる。見ればシリルが隣に並んで、ユリエルの代わりに一歩前に出ている。人々の声があがった。ユリエル以上に、シリルは民の前に出ないから。