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第八話

 最後に風呂から上がった清巳は、冷えた缶ビールを片手に和室に足を踏み入れた。

 部屋の時計はもうすぐ日付が変わろうとしていた。

 いつものように仏壇の扉を開き、その前に腰を下ろした。

 ぷしゅっ、と気の抜ける音が静かな和室に響く。

 ロング缶の半分ほどを一気に飲み干した。仏壇に置かれている二枚の写真をぼんやりと眺めて息を吐いた。


「なんというか、世話の焼ける……いや、それ自体は悪くはないけど、二人には悪いことをしたなぁ」


 一口が小さく、人一倍食事に時間がかかるのは構わない。ただ、半分もしないうちに食べ過ぎて動けなくなるとは思わなかった。慌てて胃薬を買いに走って介抱し、なんとか動けるようになったころに風呂に入れ、ようやく一息をつくことができたのだ。

 ついて来た理由はなんとなく理解したとはいえ、本人とはなんの話もできていない。素材うんぬんとは別に聞きたいこともあるのに。

 ちびりと缶ビールを口に含んだ。


「いじち、ねえ……」


 比較的珍しい苗字ではあるが、他にもいないわけではない。

 自分たちのような探索者孤児とも違う〝訳あり〟に首を突っ込むつもりはない。ただ、執拗につけ回されるのは対処に困る。悪意の欠片もなさそうだから尚更。

 どうしようか、と清巳は無言で頭を捻った。だが、うまいこと諦めて貰う方法は思い浮かばない。

 やはり一度きちんと話し合ったほうがいいか。

 水滴が缶の側面を伝い、ぽたり、と足の上に落ちた。

 その冷たさに我に返った清巳は、ちびりとビールを飲む。

 温くなり、炭酸も抜けつつある、風味の落ちたそれに、僅かに顔をしかめた。

 ふと、背後で人の気配が動いた。

 覚えのある気配に立ち上がったところで、くらりと頭が回った。

 急に動いたことでアルコールが回ったらしい。

 やや覚束ない足取りを自覚しながら入り口に近づいた清巳は、勢いよく襖を開いた。


「ぴょっ」


 静が奇妙な声で鳴いた。清巳は小さく喉をならして笑い、壁に背中をつけて廊下に座る静に問いかけた。


「眠れないのか」

「……………………ダンジョンでは寝てる」

「悪かったな、無理に家に上げて」


 静が視線を彷徨わせた。

 持っていたビールをちびりと飲んで、清巳はふらりと仏壇へ足を向けた。


「そんなところで様子を窺ってないで入れ。大したことはしてないし、なにもないけど」


 仏壇の前に腰を下ろした。上半身が前後にふらりと揺れる。

 後をついて和室に入った静が恐る恐る隣に腰を下ろした。

 それを横目に、清巳は独り言のように口を滑らせた。


「両親と若い頃の祖父母だ。みんなもういないけどな」

「……そう」


 反応に困ったような短い返答に、口元が緩む。ふわふわと意識が踊るなかで、清巳は静に伝えるべく口を開いた。


「剣が折れたこと気に病んでるのなら、本当に気にしないでくれ。あれは俺の落ち度だ」

「……形見じゃないの?」

「形見って言うほどのものでもないな」


 言いながら、清巳は左手で耳朶に触れた。

 形見と言えるようなものは父親のピアスだけだ。オリハルコンの剣は物置の肥やしになっていたもので、形見と言われると違う。


「――そっか」


 それは、今まで聞いてきた中で最も穏やかな声だった。

 ぐいっとビールを流し込みながら視線だけ向ける。だが、抱えている膝に顔を埋めるように丸くなっている彼女の横顔は、髪に隠されていて見えない。


「それを気にしてたのか」

「……ん」


 不器用な肯定に清巳は破顔した。

 形見ではないのか、と聞かれたのはこれが初めてだった。滅多に出回らない珍しい武器に目の色を変えてすり寄ってきたり、あるいは奪おうとする人ばかりで、それを清巳が所持している理由を尋ねる人はいなかった。探索者孤児であることから尋ねられなかった人もいるのかもしれないが、それは清巳の与り知ることではない。

 彼女の頭に置いた手を輪郭に沿うように撫でる。ぺしりと手を叩かれた。髪の隙間から抗議の視線が垣間見える。


 それすらも楽しくて、頬が緩むのを止められない。ふわふわと微笑みながらビールを更に呷る。

 一気にアルコールを流し込んだせいか、くらくらと頭が揺れた。脳内がぽやぽやしていることを自覚しながら、清巳は短く謝罪を告げた。


「すみません。そういうことですから、素材は貢がなくていいですよ、本当に」

「やだ」


 間髪入れずに拒否されて、清巳は口元まで近づけていた缶を下ろした。

 耽美な面差しは酔いで色香を増し、思案すべく伏せられた横顔は散りゆく花の如き儚さを醸し出す。

 アルコールで鈍る思考は、いつもの仮面が剥がれ落ちたことにも疑問を抱けない。触れたくもない過去を奥底に流し込むようにもう一度お酒を呷り、清巳はようようと口を開いた。


「では、今日の夕食代で手を打つのはどうですか。剣のことはそれで終わりです」


 心が浮き足立ち、笑みが零れ落ちて。形見だと気にかけてくれた喜びと、アルコールでふわふわする心。それを止める術を知らない。

 しばしの沈黙の後、静が小さく頭を動かした。


「わかった」


 清巳は上機嫌に残っているお酒をすべて煽り、腰を浮かせて仏壇の扉を閉じた。


「そろそろ寝ましょう。慣れない場所で寝られないかもしれませんが、少しでも休んでください」


 にこにこと笑顔で告げ、身体を左右に大きく揺らしながら立ち上がろうとした清巳は、しかしなにかに服を引かれて動きを止めた。

 見れば、静が服の裾を掴んでいる。


「幸せってなに」


 脈絡のない質問に清巳は目を瞬かせた。自分を見上げる闇色の双眸は至って真剣だ。

 なにかあるんだろうなぁ、とぽやっとしたことを考えながら、清巳は返答を口にした。


「私にとっては克巳と明美がいてくれることですね」

「いなかったら幸せじゃない?」


 清巳はふっと瞳を翳らせた。

 仮定とはいえ、嫌な想像に胸がざわつく。


「ふたりがいない幸せに、一体なんの意味がありますか」


 二人がいない世界で生き続ける意味はない。幸不幸もないように終わらせるだけだ。


 ――………………。


「――いた」


 小さく静が呟いた。


「なにがいたんです?」

「……なんでもない」


 首を横に振って立ち上がる静を見つめる。

 呼び止めようとして、ふと、聞こうと思っていたことを思い出して清巳は尋ねた。


「そういえば、呼び方は静でいいのですか」


 不思議そうに振り返った彼女は、やがて小さく首を縦に振った。


「ん」


 はて、と清巳は首を傾けた。

 なにかを聞こうと思ったのに、なにを聞こうとしたのだろう。

 首を傾げながら清巳も部屋の電気を落として部屋を出た。


 ――…………に……。


 不意に声が聞こえた。襖を閉じようとしていた手を止めて室内を見るが、暗闇におかしな影はない。

 訝しげにもう一度室内を見渡し、異変がないのを確認してからそっと襖を閉じた。


「おやすみ、静」

「……ん」


 斜め向かいの部屋の前で静と別れ、清巳はゴミを捨てるべく、うっすらと明るくなっているリビングへふらふらと足を向けた。









「きよ兄ー!」


 朝六時半。家に響く高らかな叫び声にふさわしい勢いで扉が開かれた。

 清巳は重い瞼を押し上げて、ひらりと手を振った。酔いのピークは過ぎたこと、寝て起きたのもあり理性は戻っている。欠伸をかみ殺しながら緩慢に身体を起こした。


「どうした……?」


 訪室者である妹に胡乱に聞き返す。


「しず姉がいなくなった!」

「しず……ああ。いないのか?」


 申し訳程度にかけていた薄布団を剥いで立ち上がった。

 窓から差し込む明るさが目に刺さる。寝られないことには慣れているが、毎朝の身体の重さだけはどうにもならない。


「かっつんが起きたときにはいなかったって。リビングが大変で、早く下に来て!」


 しびれを切らしたらしく、明美がベッドの傍らに立ち腕を引く。


「わかった、わかった」


 清巳は自分の足で立ち上がり、妹の後を追った。

 消えていることに驚きはない。ただ、大変な事ってなんだ、とぼんやりする頭で考えながらリビングへ入り、目を丸くした。


「いや、程度ってものがあるだろう」


 ソファの前に置かれている小テーブル。それ文字通り覆い隠す魔宝石の山。夕食のお礼に魔宝石の山は常識外れも甚だしい。

 あまりの驚きに眠気が飛んだ。


「触るのは怖いから見て」


 朝食の準備をしながら克巳が促す。

 明美は輝かしい宝石の数々に瞳を輝かせているが、触れようとはしない。


「これ、全部魔宝石?」

「たぶんな」


 天然宝石とは異なり、魔宝石にはなんらかの魔法が付与されている事がある。依頼の報酬として貰ったネックレスとブレスレットがそうだ。二つは守護に特化しているが、付与できる魔法は結界に限った話ではなく、探索者向けに攻撃魔法が付与された魔石が販売されていることもある。値は張るが、お守り代わりに持つ人は少なくない。

 紛れ込んでいてもおかしくはなく、鑑定書さえない宝石に触ることなく自分を呼んだのは英断だ。

 ラグの上に転がる魔宝石をひとつつまみ上げて、光に翳した。淡い水色の宝石が光の加減できらりと輝く。

 魔石の鑑定は清巳の専門外だが、危険か否かを勘に任せて判断することはできる。ダンジョンで生存競争をしているため、その勘の精度は二人よりも鋭い。

 同じようにいくつか検分して、清巳は遠い目をした。


「今日はこれの確認で終わりそうだな」


 淡い水色。薄い桃色。深い紫色。確認した三つの魔宝石を手のひらにのせて、じっと見つめてくる妹に差し出した。


「諦めが悪いから夕食代で手を打つとは言ったが、これはなぁ」

「そんな夕食代があってたまるか」


 手のひらの魔宝石を見つめていた明美が顔を上げ、身体の前で両手の指をからめてもじもじと動かしながら口を開いた。


「ねえ、きよ兄。保留にしてた誕生日プレゼント、その魔宝石を使った簪とか、だめ?」

「いいぞ」


 可愛い妹の可愛らしい上目遣いでのおねだりを断る道理はない。なにより、今年も家事当番十回交換券になるより、兄としては喜ばしい。

 魔宝石の値段は最低六桁だ。それを誕生日プレゼントにねだることへの多少の遠慮があったのだろうけれども、かわいい。


「しず姉とお揃いだと、もっと嬉しいんだけど」

「わかった」


 即答した。ぱっと顔を輝かせた妹が可愛くて頭を撫でる。


「このクソ甘兄貴……。愚妹も、なんであのストーカーに絆されてるんだよ」


 兄と妹に引いた視線を送りながら、克巳がテーブルに目玉焼きを並べた。

 整えられた食卓に着いた明美が呆れたように反論した。


「猫みたいでかわいいのに、それがわかんないなんて、かっつんかわいそう」

「一生わかんなくていい」


 心底嫌そうに顔をしかめる克巳に苦笑して、清巳も二人にならい椅子に着席する。

 両手を合わせて通例の挨拶を行い、茶碗と箸を持つ。


「きよ兄、しず姉は一緒にいかないの?」


 明美の問いに目を瞬かせ、清巳は視線を彷徨わせた。


「そういう話はしてないな」

「……なぁんだ」


 肩を落とす明美に申し訳なく思いながらも清巳は納得していた。

 夏期休暇は長期旅行に行こう、と話をしている最中のことだから連れて行くものと思い込んでいたのだろう。


「じゃあほんとうに彼女じゃないんだ」


 拗ねたように呟いて明美は口を閉ざした。

 だから言っただろ、と言わんばかりの視線が痛くて無理矢理話を変えた。


「克巳はなにか欲しいのあるか?」

「ない。それよりあれ全部貰うの?」

「それは流石に気が咎める。まぁ、一部は貰ってあとはどうにか返すさ」


 そんな話をしながら朝食を終えた。

 登校時間になった二人を清巳は玄関先で見守る。


「いってらっしゃい」

「……行って来ます」

「おう」


 いつものようにとはいかず、不貞腐れてしまった妹にそわそわしながら見送って、魔宝石をなんとかすべくリビングに戻る。――玄関の扉が開く音がした。


「クソ兄貴。ポストに変なもの入ってたから」

「わかった」


 すぐに踵を返し、清巳はポストへと向かった。

 書類が電子でやり取りされるようになった時代、本来、ポストはなくてもいいのだが、これまた祖父の趣味で伊地知家には設置されている。

 ただ、使われることなんてないのに、克巳は一体なにを見たのか。

 一見変哲のないポストの口を上に開いて、清巳は渋面を作った。

 花の形を模った黄色の魔宝石がぽつんと置かれている。

 その魔宝石も案の定、危険はない。が。


「あいつに明美の誕生日が今日だって、言った覚えはないんだけどな……」


 静が魔宝石をポストに置いた理由に、全く検討がつかなかった。






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