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第十一話 #会いたい①

 徹夜明けでいつもより五時間早くダンジョンに臨んだ清巳は、中層一階の地面を踏んだ。

 本当は早いところ二人のもとに行きたいのだが、魔動装甲車が次に北東の都『みちのく』に向かうのは週明けになる。おおよそ五日に一度しか『みちのく』行きの便がなく、それまでは動きようがないのである。

 家で大人しく過ごす、という選択肢は清巳の中に存在しない。最愛の弟妹がいるならば、掃除をしたり庭の手入れをしたりして帰ってくるまで時間を潰すのだが、いないと分かっている家にいるほうが苦痛でならなかった。

 配信を開始した清巳は、首を掻きながら軽やかに口を開いた。


「先月、妹の誕生日を無事に終えてな。妹の希望でパスタを二種類作ったんだが、二人とも美味しそうに平らげてくれてな。やっぱり成長期食欲はすごいな。このまますくすく健やかに育ち続けてくれたらなにも言うことはない」


  [兄、早くない? 早すぎない? 朝五時だよ?]


 ぽつりとコメントが一つ視界の隅に浮かぶ。


「月日が経つのが本当にはやい。あんなに小さかったふたりが今やねえ」


 清巳はしみじみと呟いた。

 七年という月日は子どもが成長するには一瞬で、とても貴重な時間だ。探索者であることに固執したことで、思い出が少なくなってしまったことは、今でも惜しい。


「今年は嬉しいことにな、誕生日プレゼントに簪を希望されてな。ようやく簪の特注を受けてくれる人と話しがついて、デザイン詰めで話が弾んだ結果、良い感じに決まって」


 前方で待ち構えていたオーグルが棍棒を振り抜いた。後方へ飛び退いたそこへ、オーグルの背後から火球が飛ぶ。

 地面を蹴って火球に自ら突っ込んだ。炎を切り裂き、オーグルの懐へと潜り込む。突き出したオリハルコンの剣。硬い反動が手に返った。

 切っ先を棍棒で受け止めたオーグルが、力で剣を押し返してくる。力相撲から距離を取った清巳の足下に矢が突き刺さった。

 二対の赤い眼が爛々と輝いている。

 なるほど。変異個体の、しかも二体の連携は少々めんどくさい。


「あれを身に着けた妹の可愛さは倍増するに決まってるから楽しみで楽しみで」


 惚気を垂れ流していると、弓を番えたオグレスの首が落ちた。


「ギャ……⁉」


 オーグルの背後で放たれた殺気。一瞬、敵の意識が逸れた。

 その隙に間合いを詰め、頭部目がけて剣を振り下ろした。

 縦に二つに割れた敵。少しばかりの緊張感を、気の抜ける奇抜な笑い声が打ち破った。


「ぬへっ、ぬへへっ」


 一気に脱力した清巳は、欲望丸出しな声の持ち主を半目で睨む。すりすりと深い青色の魔鉱物に頬ずりしている静の顔はでれでれと溶けていた。

 無言で立ち上がって彼女に近づき、頬ずりしているのとは反対の、右の頬を指で摘まんだ。


「んにょっ⁉」


 みにょんと伸びる頬をさらに伸ばす。


  [テレレン。座敷童子ちゃんが現れた!]

  [……イツメンがいないのむなしー……]


 ぺしんと手をはたき落とされて清巳はひりひりと痛む左手を一瞥する。


「何するの」


 不機嫌そうに目を細めて静が睨み上げてくる。


「これについては礼を言うが、それはそれとして、紙に書いて押しつけるのではなく俺の予定も確認しろ。あと、受け取るだけとはいえ、事情も分からないまま人を放り出すな」

「予定の確認ってなに?」


 小首を傾げた静に清巳はため息を飲み込んだ。


「先方が忙しい人っていうのが分かってたから仕方がないけどな、俺だって弟と妹とお出かけ予定だったんだよ。二人に会えない足りない弟のご飯食べたいのに食べられないの」

「いないの?」

「お泊まり旅行だからな。いないの。会えないの。いい機会だし旅行に行こうって思って決めたのに」


 口にしているうちに悲しくなってきて清巳は力なくうな垂れた。


「ついでに簪の注文できたからいいんだけどな。会えない……」

「会えないから寝てないの?」

「寝られるかよ。通話で声は聞けるし顔も見れるけどそこにいないんだよ弟のご飯食べられないし妹のお菓子食べられないし、なんで俺今ここにいるんだろう……」


 無性に悲しくて深々と息を吐き出してしゃがみ込んだ。

 もういっそこのまま穴に埋まって消えたい。なんで弟と妹がそばにいないんだろう。


  [起きたらなんか兄がめそめそしてるんだが]

  [きよ兄、また寝てないの?]

  [朝っぱらから何してんだよクソ兄貴。寝ろ]


 長期休暇中とはいえ、早起き習慣が身についている弟妹のコメントに少しばかり心が浮上する。


「二人の気配ないから寝られないだけで、大丈夫だ」


 もともと眠りが浅く、熟睡できているとは言えないのだ。徹夜の二日や三日や五日や十日、たいしたことではない。


  [いやそれ大丈夫ではないのでは?]


 冷静なコメントが虚しく視界の隅を流れる。


「二人のところ、行かないの?」


 不思議そうに尋ねる静に、清巳はふて腐れた声で答えた。


「毎日便が出てたら速攻行ってたよ。ないからまだ動けないだけで。次は週明けだ。それまで動けない会えない無理。……むり……」


 かなり心がぐらぐらと揺れている。四年前に二人に大泣きされて以降、学校以外で長いこと離れたのは初めてだ。自覚している以上にかなり精神的に参っている。

 はは、と口からこぼれ落ちる乾いた笑いがひどく虚しい。


「ごめんなさい」


 清巳の前にしゃがんだ静が、両手を地面について頭を下げた。

 僅かに顔を上げてその後頭部を見つめた清巳は剣を地面に置いた。顔を上げた静の頬を両手で包んでこねくり回す。


「にゅ?」


 奇妙な声を上げながら、けれども静はされるがままになる。

 ぐるぐると回して、摘まんで、揉んで、清巳は無心で静の頬を弄ぶ。


  [兄、それはセクハラ]


 しばらく大人しく頬を揉まれていた静が、止まる様子のない清巳に尋ねた。


「楽しいの?」

「……妹のほっぺは柔らかくて気持ちいいんだよな……って。弟は触らせてくれないんだけど」

「そっか」

「今頃、朝ご飯を食べてるんだろうな。いいな、食べたいな俺も食べたいな……美味しそうに食べてるだろう妹のほっぺつつきたいな……」


 乾いた笑いを浮かべながら虚ろな瞳で静の頬を揉み続ける。


  [アニマルセラピーじゃないんだから]

  [今北産業。早くない? なにしてんの?]

  [それな。兄の目が死んでるんだが]

  [家族旅行の予定が兄だけ後追いに→座敷童子ちゃんで癒やされてるなう]

  [おけ、いつとは違った見守りだな]

  [ふたりがいないとメンタル溶けるのか]

  [今日の朝ご飯は卵焼きと魚のホイル焼きだよ]


 妹のコメントに目元を和めた。


「卵焼きとホイル焼きか。朝からしっかり食べててえらいな、かわいいな」


 伊地知家の卵焼きは甘くない。克巳の気分で甘くなることもあるが、作り手の好物であるだし巻き卵が並ぶ。ホイル焼きは鮭だったり白身魚だったり、季節の魚で作られる。味付けは簡単にバターや醤油で、どちらもご飯が進む一品だ。


  [きよ兄はなに食べたの]


 妹の問いに今朝のことを思い返して、清巳は視線を彷徨わせた。静の両頬をつまんで引っ張る。


「うん、なにかは食べたぞ」


 すぐに手を離してやさしく撫でるように再び揉む。


  [察し]

  [食え]

  [食べてないんかーい]


 その手を静は手首を掴んで引き剥がした。手のひらを上に向けさせて、その上に空間収納から取り出したものを置く。


「ご飯あげる」


 そう告げて渡されたものに、清巳は表情を強ばらせた。

 手のひらから伝わる、冷たくつるりとした鱗の感触。頭部も尾部も力なく垂れている。すでに事切れているのだろう。蛇はぴくりとも動かない。


「…………これは?」

「ご飯」


 清巳の問いに間髪入れずに回答した静が自慢げに胸を張る。

 その顔には悪意でも害意でもなく純粋は好意が浮かんでいた。


「………………………………蛇に見えるんだが?」

「うん。ご飯」


 引きつっていた頬が更にひくついた。


「好きじゃない? じゃあこっち上げる」


 手のひらに載せた蛇を回収して、代わりに置かれたのは草。土つきの、根から引っこ抜かれた、どこからどう見ても雑草だった。それに加えて、小さな木のみがいくつか置かれる。その中でも時期があわない赤く小さな丸い実は、未加工で食すと命に関わってくる毒だ。草も食用なのかと言われると、食べると身体に影響が出るものも含まれている。


「………………………………………………………………これが、静のご飯なのか?」

「うん」


 いい笑顔で静は頷いた。

 確かに、蛇は貴重なタンパク源として食されてきた歴史はある。一部地域でも蛇肉が今も食されている。清巳も食べたことはあるが、それはあくまで非常時だったためで、日常的に食すかと言われると、そうではない。

 草についても同様だ。中には猛毒が含まれるものも少なくないため、知識がないまま食べるのは推奨されない。

 左手に雑草と木の実をまとめて、右手でポーチから保存容器を取り出した。それを静の前に差し出す。


「食べるならこっちにしておけ。あげるから」

「でも、食べてないでしょ?」


 追加で両手いっぱいの草を取り出されて、清巳は首を横に振った。


「他にも食べるものはあるから大丈夫だ。蛇も草も……うん、一般的にはご飯ではないからな。ダンジョン産ならともかく、天然物は処理が大変だから」

「処理? がぶっといけるよ? 苦いし、体がぴりぴりじんじんするけど」

「……その苦いのと、体がぴりぴりじんじんするは大丈夫じゃないからな。少量なら食べても問題ない草もあるけど、お腹下すやつとか息が苦しくなるやつがあるから、ご飯にするには向かない」

「むー……じゃあ虫?」

「それはもっと駄目です」


 間髪入れずに窘めた。


「虫は虫でもダンジョン産のものならまだしも、そうじゃないだろう?」

「うん。あれ、苦いし臭いしぬちゃってするから嫌い」

「……嗜好の問題なら仕方がないとしてもな、天然物の虫はやめておけ。苦いのもあるけどな、食べたら口も喉もいがいがするだろ、喉の奥に足が引っかかって痛いこともあるし、そもそも皮だのなんだので肉が少ない食った気になれないわりに、吐き気はあるし、食うつもりが反撃くらって数の暴力で食われかけて腹を満たすよりも体力奪われる方がでかい。効率が悪い」


 ダンジョンが出現してから程なくして、まるで知性を得たかのように生態が変化したという話がある。天然の鳥獣はほぼ流出した魔物に駆逐されたと考えられているが、虫は変化に適応したような存在が確認されている。

 一匹捕まえれば、数十匹の報復が待っていたり、一匹にこだわるあまり自然の罠に陥れられたり、捕食者のつもりが被捕食者になることも少なくない。


  [座敷童子ちゃん……]

  [いい笑顔なんだけど、それは強いて言うなら非常食]

  [兄、ご飯あるんかい]

  [あるなら食え]

  [虫って]

  [兄の説得が生々しいんだが? まさか食ったことあるの?]

  [ちょっとどころではなく引くんだが]


 静は不服そうに頬を膨らませた。


「ちょっと捕まえるのが面倒なのは認めるけど」

「だろう。だけどな、何より重要なのは、どれも全部美味しくない」

「それはそう」


 深く頷いた静に保存容器を押しつけて、地面に置いていた剣を持ち上げた。頭上から持っている実を盾に落ちてきた大栗鼠を目がけて剣を振り、静を小脇に抱えて飛び退く。

 血の雨を振らせながら真っ二つに切り裂かれた大栗鼠が地面に鈍い音を立てて叩きつけられた。

 その死骸を見つめて清巳は肩を落とした。

 中層におりるまでの魔物もそうだが、降りてからも売り物にならない斬り方をしている。買取額が相場の三分の一から半額程度になる。貯蓄はあるため痛くはないが、もったいない、というのが正直な感想だ。

 壊れた魔石と両断された大栗鼠の亡骸を鞄に入れる。

 普段できていることができていないのは集中できていない証拠だ。怪我を負うようなへまはしないが労力の無駄遣いではある。だが、集中できる気がしない。


「ん」


 差し出された魔石に清巳は嘆息しながら答えた。


「貰いすぎだから却下」

「だめ?」

「だめ。むしろ返却させろ」

「あげたの。いらないなら捨てて」

「ならせめて修繕費用はこっちで持たせてくれ」

「全部手持ちだからタダ」


 自慢げに胸を張った静に清巳は二の句が継げなかった。

 いったい何を差し出せば金銭の代替になるのだろう。怖くて聞けない。だが、聞かないわけにもいかない。

 戦々恐々としながらそろそろと口を開いた。


「一応、聞きたくないけど聞くんだが、何を差し出した?」

「一番いい緋緋色金鉱石。いい鍛冶の人だからちょうど良かった」


 清巳は天井を仰いだ。

 緋緋色金の入手経路はともかく、『一番いい』ということは一番ではないものもあるということで。つまりは、それだけの物を所有していると言うことで。

 小指の爪ほどの大きさでもオークションに掛けられれば四桁億は下らない。滅多に入手できるものでもなく、個人で大量に所有するものではない。安全面的に。

 宝石加工が施された緋緋色金を贅沢に使った装飾品を弟妹に献上したことは都合良く忘れたことにして清巳は嘆く。


「聞かなかったことにしていいかなー……値段つけられないやつ……」

「あのね、緋色が鍛冶の人をお気に召したからいいの。むしろ修復はついで」

「そう言われても安心できるものではないからな?」

「大丈夫。こういうの技術料ってやつもほしいんでしょ? ちゃんと鍛冶の人をお気に召した魔鉱物たくさんあげた」

「…………、…………………………そうか」


 もうなにも言うまい。素直に返却も受け取ってもくれないことは理解したから、その分なにかを返せばいい。返せるものがあるかはわからないが。なんとなく、お金は受け取ってくれない気がする。

 再び両手で静の頬を揉んだ。意趣返しもこめて先程よりももみくちゃに動かす。


  [うん、聞かなかったことにしよう]

  [あ、やっぱりこれもスルーなお約束……いやそうはならないって!]

  [お約束です。死人が出る]

  [はい、お口チャックします]

  [いやいやいやいやいやいや]

  [口外は要注意。弟妹さんたちになにかあったら最悪東都消滅に一票]

  [脅しの規模がえげつない]


 名残惜しげに左手も離して、何度目かもわからないため息を吐きだした。


「わかった。今後、とにかく気をつけろよ、いろいろと」


 頭をひと撫でして、はたき落とされる前に手を引っ込める。

 静が差し出した対価については綺麗さっぱり記憶の底に封じつつ、静にはおいおいなにかしよう。

 邪魔したな、と軽く手を振って日課を再開した。


「可愛いよなあ、可愛いよなあ、ふたりとも。今日の朝ご飯なんだろな。目玉焼き? 焼き魚? それともパンかな。なんにしても弟の手料理食べられる妹が羨ましいし、妹と同じ空気吸ってる弟が羨ましい。ふたりとも可愛いのになんで俺そこにいないんだろう危険区域強引に突っ切れば行ける……? うん、地理的には行けるんだよな」


 世迷い言を虚ろな目で呟く清巳の後ろを、静は雛鳥のようについて歩く。大事に抱えていた保存容器を、しかし走りにくいことに僅かに眉をひそめ、空間収納に丁寧に収めた。


  [結界から出るのはダメだって。野生の魔物はきつい]

  [せめて指定危険区域侵入資格発行してもろて]

  [なんかあったら弟妹さんたち泣くよ?]


 指定危険区域では、流出した魔物が野生化し住み着いている。街の中には入ってこられないように、過去の偉人の手で結界装置による結界が張り巡らされている。出入りは基本的に制限されており、魔動装甲車を予約して出入りするか、探索目的などでは許可証が必要になる。

 野生化した魔物はダンジョン内部の魔物よりも討伐難易度が上がるため、許可書の発行は黄金ランク以上という制限もあったりするが、好き好んで危険区域に入ろうとするものは多くない。居住区域周辺のダンジョン攻略や魔物の間引きの方が安全上最重要課題であるため、人手不足から危険区域の攻略が進まないというのが実状だ。。

 調査だのなんだのは振り切って許可証をもぎとろうか、と本気で思案していると、背中に軽い衝撃が走った。


「うおっ⁉」


 背中にぴたりと張り付くものを落とさないように前屈みのまま行動を停止する。

 左肩からしがみつくように首に回される腕。柔らかな手が清巳の後頭部に置かれた。


「……なにしてんだ?」

「撫でてる」


 清巳は微妙な顔をした。

 撫でている、というか、髪を手のひらで転がされているというか。そもそも急に飛びついてきたのもなぜなのか。


  [アオハルセンサーが作動したので来ました! アオハル!]

  [センサーすごい]


 ぴたりと張り付いた静を下ろすべく膝を曲げて腰を落とすが、背中に張り付いた静に離れる様子はない。


「うん、大丈夫だからもういいぞ」

「大丈夫じゃないからよくない」


 引き剥がそうとしたが、首元で腕を組んでしっかりとしがみ掴まれてしまった。


「大丈夫だって」

「大丈夫な人間はちゃんと寝る」

「……普段は寝てるから大丈夫だ」

「嘘つき」

「本当に大丈夫だから、な?」

「大丈夫じゃないからダメ」

「大丈夫」

「大丈夫じゃない」


 振りほどこうにも引き剥がそうにも、指一本も動かず、攻防を重ねる。


  [なんか負ぶさる妖怪いたよな。子泣きじじいだっけ]

  [泣いてないし爺でもないけど]

  [おばりよん……]


 執拗なひっつき虫に、先に根負けしたのは清巳だった。


「鍛錬と思えばいいか」


 諦めて、清巳はなにごともなかったかのように歩き出した。背中にはぴったりと静がぶら下がっている。

 首は急所なので落ちつかなさはあるが、へし折られるようなことにはならないはずだ。こればかりは静を信用するほかない。

 ふと、ひとつ目を瞬いた。

 信用。普段は毛嫌いして使わない言葉が自然と出てきたことに清巳は渋面を作った。

 そこまで気を許した覚えもなければ信用を置いた覚えもない。いとも簡単に崩れ去り、失うのが世の常。いちいちそれに一喜一憂はできない。

 ぺちん、と自分の者よりも小さな手のひらが頬を叩いた。


「変なこと考えたでしょ」

「なんのことだ」


 よじ登って身を乗り出した静が清巳の顔をのぞき込む。


「大切にされているうちにもっと自分を見たほうがいいよ。もうぎりぎりだから」


 そう言って、静は背中にぶら下がったまま保存容器を取り出した。

 わしっとおにぎりを一つ掴む。


「食べるなら降りて、っ」


 口におにぎりが押し込まれた。食え、と言うように押しつけられるおにぎりがぽろりと崩れ、慌てて左手を添える。

 そのまま崩れないようにおにぎりを回収し、口の中の米をしっかりと嚥下してから抗議の声をあげた。


「いきなり人の口に入れるな。心配してくれるのはありがたいが、そこまでお腹空いてない」

「最後に食べたのいつ」


 普段よりも低く、じっとりとした声が清巳を責める。

 なんでそんなことを、と思いながら視線を向けると、僅かに眦を釣り上げた静がいた。


「いつ」


 普段よりも険しい声音が清巳の耳朶をつく。

 罰の悪い顔で視線を正面に戻せば、再び、いつ、と厳しい問いが重ねられた。


「……昨日」

「昨日のいつ」


 のぞき込んで来る闇色の瞳から逃れるようにそっぽを向いた。


  [夜ご飯、食べてないんだね]

  [探索者は体が資本。食べて寝るの大事]

  [兄、せめて食べるんだ]

  [萌えとキュンが足りない]

  [その様子だと昨日の朝に食ってから食ってないだろ、食え]


 視界の隅に見えるコメントから、弟妹の怒った顔が目に浮かぶ。だから黙ってたのにな、と心の内でぼやきながら大人しくおにぎりにかぶりついた。

 自分で握ったものだからか、いつものように美味しいと思えなくて、食欲がなくなる。半分でも多く感じるが、ちまちまと、なんとかお腹に詰め込んだ。

 そっとため息を吐けば、その髪の毛をぐしゃぐしゃにかき回される。

 肩越しに振り返れば、背中から降りた静が自分の保存容器に中身を移し替え、空間収納に収めていた。

 空になって差し出されたそれを回収しポーチに押し込む。

 とことこと隣を歩く静を見下ろした。


「ついて来るのか?」

「ん」

「…………なんで?」

「ついていこうと思ったから」


 強ち間違いではない問いの答えに、清巳は質問を重ねるのを諦めた。


「わかった。静が倒した魔物は静の取り分だからな。貢ぐなよ」

「貢いでないよ。あげてるの」

「それを貢いでるというんだよ」

「じゃあいつもの所に置いてくる」


 踵を返した静の襟首を掴んだ。


「置くな。頼むからこれ以上貢ぐな。何も返せないし、弟妹も貰いすぎで逆に不安がってるから」


 きょとんとした顔で振り返った静は小首を傾けた。


「あげてるのにだめなの?」

「静の場合はあげすぎ。いろいろ渡しすぎ」

「えぇ……? 人間って本当によくわからないことばっかり言う……」


 不服そうに静が呟いた。眉根を寄せてぶつぶつと疑問を口にしてはしきりに首を捻る。

 本気で理解できていない様子に清巳は思考を巡らせた。


「釣り合ってないのがだめなんだ。静から貰うばかりで、静にはなにも返せてない」

「それは求めてない」


 間髪入れずにすっぱりと、いっそ小気味よいほど斬り捨てられた。まじまじと静を見つめればまっすぐな瞳で静は反論する。


「あげたいからあげた。そこにあなたたちからの見返りは求めてない」

「そうは言われてもな……」


 はいそうですかと、受け取れる量はゆうに超えている。

 リビングの机を覆い隠さんばかりの魔宝石の山とまいにちポストに入っている魔宝石の花。売り払えば、この先の人生で食うに困らないのはもちろん、有り余るほどの巨額な資産となりうる。

 そんなものをほいほい渡される身にもなってほしい。怖い。


「あげたいからあげる。それは譲らない」

「…………鞄に忍ばせるのはなしだからな」


 譲るつもりが一歩もない強い眼差しに、清巳が言えたのはそれだけだった。


「ん」


 がっくんと静が首を縦に振った。

 不本意ではあるが、とりあえずの決着はついたことに安堵の息が零れる。

 数日通して戦ったわけでもないのに、体を襲うひどい疲れに清巳は力なくうな垂れた。












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