目覚めて一通りの処置を終えた者は、すっかり牙をもがれた顔で茫然としている。
噛みついたものの、余計なことを言ったがために清山院麗華が黒鉄ランクの現役探索者に負けたという、協会が隠したかった事実を暴露してしまったかなえは顔面蒼白で唇を震わせている。
音もなく足下に忍び寄るものを足で押さえつけるのと同時に、視界の隅で緋色が閃く。
江川。意味としては溝や枝川であり、単に傍流という意味なのだろう。
協会の御三家のうち、どこの分家かまでは推測はできないが、どこであろうと協会という巨大組織の中において血筋は良いお嬢様ではある。
そんな宗家には及ばない末端のお嬢様が藪を突いたために、協会の威信に関わる舞台をひっくり返したとなると、お先が不安になるのも当然だ。だからといって庇い立てする気はまったくないが。
そしてそれは『狩人』の面々も同じだろう。配信という舞台を通じて、清巳を貶めようとしていたのは上からの圧力もあったに違いない。かなえのように噂を信じたがためなのか、圧力に負けただけなのか、はたまた別の要因があるのか。
なんにしても、落ちる名声がない清巳と違って、彼らには相応の痛手となるだろう。知ったことではないが。
静を横目にみる。
「ほぼ同時だから、角は俺、魔石は静でどうだ?」
「ん」
緋色の一閃が一角兎の首を切り落とした。頭から角をむしり取ってポーチに収める。静も魔石だけ抉って他の部位は隅によける。
「そろそろ行かないと、魔物が一気に沸くよ」
「道中の魔物が少なかったのは、静が倒してたからか」
「うん。魔物討伐つあーしてた。魔石がぽがぽ」
「なんで……」
かなえがぽつりと呟いた言葉は、やけに大きく隧道に響く。
顔を向けると同時に、かなえが怒りの形相で叫んだ。
「なんであんたがそれを持ってるのよ!」
ゆらりと立ち上がり、やや覚束ない足取りで近づいてくる。
「それは、その刀は、伯父さんのものよ!」
彼女がそう叫んだ直後、清巳の隣で殺気が膨れ上がった。
清巳は咄嗟にかなえの腕を掴んで強引に引っ張り後方へ投げた。目の前でぴたりと刀が止まる。
「なんで邪魔するの」
「ダンジョン内でも殺人は殺人だ」
「おっちゃん嵌めて殺した人間の仲間だよ。消さないと」
それは純粋な害意だった。奪う者への悪意なき制裁。
緋緋色金の刀を使っていた探索者は一人だけだ。数十年ぶりの最高ランク。しかもソロで上り詰めた、今の探索者の中では知らない人はいないであろう伝説の人物。協会と袂を分かって以降、その存在は表には出てきていない。
唯一、三、四年前に死んだという噂がまことしやかに流れたくらいで、それすらも真偽の程は不明。静の使う刀がその人が使っていたものか確証はなかったが、二つ三つとある代物でもない。
「……………………なんで、あの人を伯父と呼んだことが仲間になるんだ?」
「おっちゃんはなにかあると分かってて行った。行く前にたくさん預かった。おっちゃんが残したものも言うとおり受け取った。そのあとから、私がおっちゃんの娘とわかってて奪いにくる人がいる。おっちゃんの知り合いとか、おっちゃんの元妻だとか、おっちゃんの従兄弟とか、おっちゃんから受け取るように言われてきたとか、嘘ばっかり。誘拐してくる人もたくさんもいた。あれだって、伯父とかいって刀を奪うつもりだったでしょ。仲間じゃないならなに」
想像以上に、厄介な目に遭っているらしく、不信感が強く見て取れる。
清巳は腕を組んで記憶を掘り返した。
元緋緋色金ランクの男――御坂敦は、御三家の一つ、
「御坂家自体はたしか、弟か妹が継いで、どっちかは婚姻で家を出てたはず。年の差は知らないけど、年齢を考えれば子どもがいてもおかしくはないから、姪っていうの自体は嘘ではないかもしれないな」
「詳しいの?」
「いや。昔の知識だ。江川って、苗字を隠したいときに傍系が使う苗字の一つのはずだから、ざっくり血筋を考えても嘘と断言できるものがない」
静が殺気を収めてかなえを見下ろす。
「むー……おっちゃんからそんな話は聞いたことない」
「裏切りには厳しい風潮だからな、あそこ。協会をやめた時点で生家とは絶縁だ。親族すべてもそれにならう。口にするようなことはまずしない」
ふと目を瞬いた。
そう、口にするはずがないのだ。それでも口にしたのは彼女自身が家と関わりを絶っているか、あるいはそれを忘れて零れたか。
ちらりとかなえを横目で見ると、真っ青な顔が更に白くなっていた。
どうやら後者らしい。憐れなことである。
視線を戻すと、静は頬を膨らませ、不服そうな顔で黙りこくっていた。
「だから、社会的には何の関係もないが、血が繋がっていること自体は否定はできない。実際、どうなのかは知らないが、許してやれとは言わない」
「……、…………大きいのはいいよ。大きいのは。違うってわかったから」
拗ねて八つ当たりするように、足を振った。蹴られないように避けつつ、ふと出逢った頃の真実に思い至った
「もしかして、あのとき首落とされかけたのと、つきまとってたきたの、その確認のためか」
「うん」
知りたくなかったような、知らないままがよかったような。あのとき反応できた自分えらい。つきまとってるのは今も同じだけど、害はなかったから通報しなくて正解だった。
一人納得していると横で気配が動いた。
おもむろに新しい縄を取り出した直後、調子を取り戻せないでいる面々を縄で巻いた。
「きゃっ」
「うわあ⁉」
「え⁉ な、なに⁉ なにこれ⁉」
縄の束が片手に収まらず、両手で引っ張り、静はその端を差し出した。
「あげる」
その顔はまだどこか不満そうだが、ひとまずは矛先を収めることにしたらしい。ぐるぐる巻きにされている彼らの回復を待つより、連行した方が早いのは確かなのだ。
「……………………貰いたくないが一応受け取っておこう」
本音を言うならいらないが。
縄を手渡した静は空間収納に剣を収めて隧道の隅に転がっている縄の端を持って片手で引きずった。
「あげる」
差し出された縄の先を追いかけて、見たことがある顔に渋面を作る。先日の中学生グループだ。立ち入りについては制限されているはずなのだが、目を盗んで入っていたらしい。
「それは?」
「死にかけ。あげる」
「いらない。拾った物はちゃんと静が上に引きずっていくこと」
「……わかった。ちゃんとゴミ……じゃなくて、えっと……産業廃棄物捨ててくる」
「結局ゴミ扱いだからな、それ」
「特別指定産業廃棄物」
「扱いは変わらないからな」
「特定有害産業廃棄物」
「それただ『産業廃棄物』って言いたいだけじゃないのか」
「最近覚えた」
「どこの小学生だよ」
文字通り縄で締め上げて溜飲が下がったのか、産業廃棄物、と歌い出しそうな声音で軽やかに踵を返す。
その小さな背中を見つめ、清巳は苦笑した。
少し前まで抱いていた苛立ちが嘘のようである。怒りも憎しみもあったはずなのに、話しているうちにすっかり毒気を抜かれてしまった。
「行かないの?」
足を留めたまま動かない清巳を訝しがって静が振り返った。
「行く」
後を追うように地上への道を戻る清巳の後ろで上がる扱いに対する抗議は一切無視して二階層へと上がった。
時刻はすでに十一時半を回っている。いつ奈落が開くのかはわからないが、はやいところ浅木地区からは離れたい。
『――みつけた』
二階層へと足を踏み入れた直後、老婆のしゃがれたような声が背後から耳に忍び込み、全身が怖気だった。
唐突に現れた気配に愛用の剣を振るう。だが、その手に手応えが返ることはなく、刀身は宙を切った。
右手で剣を構え直し、そこにいる推定敵を視認し、――息を飲んだ。
黒い、人の形をした化け物だ。光の入らない闇のように深く暗く、目の前にいるはずなのに、そこだけぽっかりとなにもない奇妙な悍ましさ。記憶にあるものと唯一異なるのは、その顔にきちんと貌があることだ。眼窩に浮かぶ金色の瞳。自分のそれによくにた儚げな風貌。肩まである髪は柔らかく波打っている。
その黒い化け物は、口をぱかりと開けて笑った。
『みつけた。みつけたみつけた!』
きゃらきゃらと、小馬鹿にしたようなけたたましい笑い声に心臓が凍りつく。
清巳の前に割って入った静が刀の鋒を化け物に突きつけた。
「なんの用」
『扉を閉ざすにふさわしい贄』
「――は?」
ついっと指で指し示されて清巳は僅かに口を開けて呆ける。
理解が及ばない清巳を置いて、静が答える。
「それは私が担うことで話はついてた」
『いるならば別だ』
静の目が鋭く細められた。
振るわれた刀を避けて、その黒い化け物は告げる。
『五日後、扉のもとへ来るがいい。贄が逃げれば、ふたつめの扉も開き続けることになる。――永遠にな』
にたり、とそれは嗤って溶けるように宙へと消える。
降りた静寂が、痛い。
[なにあれ急に現れたんだが]
[贄って、いまどき贄ってこわ]
[死ね]
[え、どうすんだこれ。扉って、奈落のことか……?]
[やばい、やばいやばい、あの化け物、現実味が帯びてきたんだけど⁉]
[麗華様に対する悪行の罰があったんだ]
[おまえが死ね]
より過激な言葉が混ざったコメントが視界の端を通り過ぎていく。
理解することを拒み思考が停止したまま再起動できないでいる清巳の耳に、嘲笑が届いた。
「いい気味ね! 協会に楯突いた報いよ。人類のためにあんたが死になさ、ぶべっ」
醜く歪んだ顔面を静が蹴り飛ばした。
ぴん、と伸びた縄を清巳は咄嗟に引き寄せた。進行方向とは逆の力をかけられたかなえの体は、二人の横を通り過ぎて、地面に叩きつけられながら滑る。
何も考えられないまま動く者を視線で追いかける清巳の手から縄が一本引っこ抜かれた。
静はその端を失神するかなえの横に投げ捨て、清巳の腕を引く。
「大丈夫。死なないよ」
そう言って静が腕を引くが、足は動かない。真っ青な顔で立ち尽くす清巳を見上げて静は再び腕を引いた。
「大きいのは生きるの。――私が生かすから」
ぐいっと力強く引かれた腕に連鎖して僅かに前に屈んだ。重心を保つべく足が一歩前に出る。動いてしまえば歩き出すのは用意だった。
「お、おい、見捨てる気か⁉」
後方から上がった誰かの叫びが耳を通り抜ける。
魔物の気配に反射的に剣を構えた。だが、それより早く、飛んできた火の玉を斬り捨てた静がオーグルに肉薄する。
緋色の一閃がオーグルの首を捕らえた。蹴り飛ばされた魔物の体が傾いで、首が床に転がる。
魔物の出現でなんとか再起動した清巳は、静が捨てた縄の先を拾い上げた。清巳の元に戻ってきた静は困った顔をして、けれどもなにも言わずに清巳の左腕を掴んで引く。
それからも言葉はなかった。地上に出て、人気がなく静まりかえった街の中を走る。
――扉を閉ざすにふさわしい贄。
あの黒い化け物が告げた声が頭の中をぐるぐると回る。
ぐいっと背中を引かれて、清巳は後ろに数歩下がった。目の前に、閉ざされた鉄の門があった。
「……あ、避難所……」
静が止めなければそのままぶつかっていた。門の前には困った顔の門番がふたりほどいて、荷物を見つめている。
「探索者の方、ですよね……?」
「……中に入れても?」
「はい」
開かれた門の中に足を踏み入れ、強引に荷物を前方に放り投げた。
「きゃああっ⁉」
落下する彼らに向かって清巳は剣を振るった。切られた蔦とともに彼らが地面に転がる。
隣では、中学生グループを静が足蹴りにしており、失神したまま今もまだ目覚めない彼らは鞠のようにコロコロと転がっていく。
清巳は踵を返した。まだ浅木地区内ではあるが、一度地下シェルターに入った方が早い。緊急避難用の魔動装甲車が保管されており必要に応じて地下通路を通って地区外への避難も可能だ。人の足で動くよりもその方が早い。
門を出た清巳を追いかけて静も隣に並ぶ。
清巳の御業に驚嘆し、静の行為になんとも言えない顔をした門番たちは、その背中をただ無言で見送った。情報確認のために配信を見ていたがため、実際に会った彼らにかける言葉を見つけられず、口を閉ざしたのだ。
二人の背中を見送ってしばらく、どちらからともなくため息を吐いた。
「これから、どうなるんだろうな」
「わからない。……いっそ、俺たちのために死んでくれと言える非道徳的なことを言えたら心は楽なんだろうけど」
「言いやがったら絶交だボケ」
「わかってるさ。現実にそんな言葉を叩きつける奴は最悪の人でなしだよ」
黒い化け物の出現によってより信憑性を帯びた七年前の災厄の再来。夏の青々とした空の下で、息をひそめる門番を仰せつかった不運なふたりはいつ来るとも知れぬ恐怖に固唾を呑んだ。
逃げるように学園を後にした清巳は目的もないまま歩いていた。
黒い化け物の言葉が耳にこびりついて消えない。何も考えたくないのに、贄という悍ましい言葉が自分の立場をあやふやにさせる。
なにより、どうしてあの化け物は、自分とよく似た顔立ちをしていたのだろう。恨みに来たのだろうか。責めに来たのだろうか。
恐らく中身は違うはずなのに、あの顔で死ねと言われたことが衝撃で、いっそその場で殺してくれればよかったのにとさえ思う。
どん、と背中に衝撃が走って清巳は前につんのめった。
背中に張り付いた静が叱責するようにぺしぺしと清巳の頭を叩く。
「……………………しず?」
掠れた声で名を呼べば、ぎこちない手つきで頭を撫でられた。
「大丈夫。大丈夫だから、壊れたらダメだよ」
こわれる、とはなんのことだろうか。
呆けた顔で盛んに目を瞬かせる。
「最初にあの姿を消せなかった私の落ち度。美鶴さんを象っただけの奈落の魔物の始末はつける。全部悪いようにはしないしない」
清巳は大きく目を見開いた。
久しぶりに聞いた名に、吐き出しそうなほど心臓が激しく脈打つ。胸元を握りしめて短く息を吐き出した。
鼓動がうるさい。息があがる。ぐるぐると世界が回って、胃がひくつく。
するりと地面に降りた静は清巳の前に回り込み、屈んだ清巳の頬に添える。背を伸ばして唇を重ねた。
ふんわりと温かいものが体を突き抜け、僅かに呼吸が楽になる。無意識に安堵の息を吐いて、肩から力が抜ける。
顔を離した静はあどけなく笑った。
「夫妻の子が幸せでありますように」
見上げてくる闇色の瞳を見つめ返す。
どうして。そう尋ねたいのに、言葉は喉の奥に張り付いて出てこない。
「あれの言うことが正しければ五日後に奈落の扉が開く。だから早く二人のところに戻るんだよ」
静は鞄に小袋を押し込んで身を翻した。屋根の上に飛び上がり走り去るその背は、すぐに小さくなって見えなくなる。
知っていたのか。いつから。なんで。どうして、母を、両親を静が知っている。どうして――。
胸の中で言葉が渦巻く。張り裂けそうなほど名もない強い感情が苦しい。身が裂けてしまえば楽になれるだろうに、肉体に収まったまま感情は出ていってくれない。
胸を押さえていた左手で顔を覆い、指先に力をこめた。
「…………っ」
何かを吐き出したいのに、唇が震えるだけで音にならない。どうしようもなく胸が痛かった。掛けたかった言葉さえ失って、清巳は声にならない悲鳴をあげるように身体を屈める。
[化け物と知り合いな座敷童子ちゃんはどこまで知ってるの?]
[五日後って、本当なのか?]
[兄、どうした]
[なにやら兄も知らないところであるみたいだが]
[よくわかんないけど、まずは逃げよ⁉]
――ゴンッ!
唐突に地面が激しく突き上がった。