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第十八話 #帰りたい④

 愕然と立ち尽くしていた清巳ははたと我に返った。遙か昔に存在した自動で動く床のような地面は場所によっては大きく擦れ合うようにズレ、建物が倒壊する。傾いた家の窓硝子が割れて散乱し、地面には数多のひびが走る。

 遠くで獣の吼える声が上がった。ダンジョンという限られた世界から地上という開放された世界へと進出できる喜びのような、地上のものに対して己を誇示するような、強者の雄叫びだ。

 現実から目を背けるように目を閉じて、瞼を震わせた。

 すでに避難が進んでおり、人がいないはずの街から悲鳴が聞こえる。誰かの断末魔が木霊し、助けを求める声に四肢が絡め取られる。


 両手で耳を塞いだ。かん、と硬い物が地面を叩く。

 それでも声は消えてくれなくて、ぐっと唇を噛み締めた。

 瞬く間に空には暗雲が広がり、青空を覆いつくす。通常の気象とは異なる現象が浅木地区一帯を包む。

 雨足は急激に強まり、バケツをひっくり返したような雨に身体が強張った。篠突く雨の音が壁を一枚隔てたように遠のき、感覚が鈍る。


「た……たす……っ……」


 の向こうで声が聞こえた。

 首をめぐらせた先で、救いを求めるように手を伸ばした男が魔物の口腔に消える。

 雨音を縫って、骨を砕く音が、肉を噛みちぎる音が、やけに耳の奥に響く。


『逃げろ!』


 友人だった青年の言葉が

 そうだ。逃げなければ。二人を連れて、はやく。

 ゆっくりとあたりを見渡して、虚ろな目で呟いた。


「…………克巳は……明美は、どこに……」


 先ほどまで抱えていたはずなのに二人の姿が見えない。友人の、祐介の姿も見えない。姿を求めて視線を滑らせるが、どこにも小さな身体を見出せない。

 雨に濡れる体から更に血の気が引いた。


「……明美……克巳……っ、どこだ……⁉」


 魔物の存在が意識の端から零れ落ち、清巳はふらりと足を踏み出した。

 跳ねた水音にぴくりと顔を上げた魔狼が食べかけの肉塊を飲み込んで牙を剥く。牙からしたたり落ちた血が地面を流れる水にさらわれて消える。爛々と輝く赤い瞳が獲物を見定めるようについと細められた。

 飛びかかってきたそれは、しかし、淡い赤の壁に弾き返され、内側から膨れ上がり爆ぜ散らす。視界の隅でそれを捉えていながら、意識に引っかかることなくすり抜けていく。

 どうしよう。いつのまに手放してしまったのだろう。大事だったはずなのに。どこに置いてきてしまった。


「なんで……ちゃんと、抱えてたはずなのに…………っ」


 両手はからで、二人の姿はどこにもない。いつからいなかったかも定かではなく、恐らくずっと前にはぐれてしまったのだろう。だとしたら、もうすでに餌食になっていても。

 思考を断ち切るように腕の端末が震えた。すっかり冷えきった腕をぎこちなく持ち上げて、僅かに目を見開く。

 端末には弟の名が表示されている。姿を探すように視線を巡らせ、だがその姿は見つからない。一抹の期待と大きな疑念を抱きながら応答ボタンを押した。


『しっかりしろ、このクソ兄貴!』


 第一声はかなり本気の罵倒であった。ぼんやりと目を瞬く。

 自分の弟はそんな粗暴な口調だっただろうか。


『七年前と今を混同するな! 俺らは今そこにいない! だから誰かを見捨てる真似はすんな! ゆう兄ちゃんみたいな人を生み出してんじゃねえ!』


 ひゅっ、と喉が鳴った。祐介の焦りと恐怖に満ちた顔に、知らない誰かの表情が重なる。


『俺と明美を抱えて逃げてたあの時とは違うだろ! 俺らを守ることで精一杯だったあの日とは違うだろ! 今の兄貴なら一人でも多く助けることはできるだろ……!』


 通話から聞こえる声が痛々しいほどに涙に濡れる。


『そんなことくらいやれよ! 俺らを理由にするのも大概にしやがれ! 今は俺らのことより助けられる人を助けろ!』


 肩で息をする音が、傍らですすり泣く声が聞こえる。それを聞きながら清巳は首を捻った。

 走馬灯のようにこの後のことが頭を駆け抜ける。


「……七年……あぁ……うん、そうだ……そうだったな……ここ、『やまなし』じゃないのか……」


 ぼんやりとした口調で呟いた。

 中都『やまなし』はかつて住んでいた都だ。昔、中国地方と呼ばれていた場所に存在したから中都。

 頭では七年という時間経過を理解しているはずなのに、まだ『やまなし』にいるような感覚が体に残っている。逃げ出してから七年というのが嘘のようにも思える。だが、大きくなった二人の姿も記憶にあって、感覚こそが間違いなのだと自覚する。

 ただ、二人より他を優先する……? あの日、抱えていた二人がすり抜けていなくなる幻想が目の前に浮かんだ。

 飛びかかってきた魔物が再び赤い壁に弾かれて木っ端微塵に砕ける。赤い血が地面に広がり、地面を流れる川に消えていく。



  [察してはいたけど……トラウマァ]

  [あかん、あかんて、いろいろあかんて!]

  [昔と現実を混同するってあり得る?]

  [がっつり名前が出ちゃってるけど大丈夫か……?]

  [白昼夢とか錯覚とか幻覚みることもある。みた]

  [赤い壁isなに]


 ぼんやりと宙を見つめて立ち尽くしていた清巳は、雨に打たれて冷えた体を大きく震わせて、ぎこちなく当たりを見渡す。

 弟と、妹よりも、他の誰かを助けなければならない。――どうして。二人を守りたくて手にしたものなのに。足掻いて掴み取ったものなのに。

 でも、それを克巳が望むのならやらなきゃいけなくて。


「なんで、こんな状況で二人以外を守らなきゃいけないんだ……?」


 口をついて出た言葉に、耳元で息を飲む音がした。


『本気で言ってんの?』

「だって、誰も二人を助けてくれないだろう」

『ふざけんなよ……ゆう兄ちゃんが助けてくれたから、俺らは生きてシェルターまで逃げられたんだろ。全部無かったことにすんな……!』


 弟が怒っている。でも、どうして怒るのだろう。

 清巳は空を覆う分厚い雲を見上げて目を閉じた。


「祐介が最後。そのあと、誰も助けてくれなかったから、二人とも死にかけたんじゃないか」

『っ!』


 克巳が言葉に詰まった。


「じいちゃんに会えたのは、本当に偶然だった。そうじゃなきゃ、三人とも野垂れ死んでただろうな。――なんでさ、この非常時に誰も二人を助けてくれないって分かってるのに、二人を生かすために手にした力を、二人を守る以外に使わなきゃいけない?」


 平常時ならまだ許せる。無理のない範囲で、無茶をしない範囲で、使うことはいい。そうあれと二人が望むと分かっているから許容できる。でも、それだけだ。

 長い長い沈黙が降りた。

 ごうごうと降る雨音と自分の息づかいだけが静寂を支配する。体のうちから沸き起こった悪寒に体を震わせ、清巳はそっと腕を組んだ。

 かじかんだ指が壊れた機械仕掛けのように袖をひっかく。

 沈黙を破ったのは、克巳だった。


『……このクソ兄貴。やりたくねえのは分かった。だけどな、他人を見殺した罪を妹にまで背負わせんな……!』


 清巳は大きく目を見開いた。

 泣きそうな、悔しそうな、怒ったような声が肩に重くのしかかる。


『あの時と違ってもう分別がつく年だぞ。明美にまで重いものを背負わせんな。それくらいの情緒はとおに育ってんだよ。誰か見殺しにして生き延びた罪を背負うのは俺と兄貴だけで十分だろ! 違うか⁉』


 悲痛な声が深く心を切り裂いた。

 清巳はくしゃりと顔を歪めた。


 なにも言い返せなかった。目をつむり、耳を塞ぎ、七年前に関することは感情もなにも封じて、そのまえの思い出さえもすべてなかったことにして。二人の存在に縋り続けて、それでも消えてくれなかった罪。どれほど足掻いても、もがいても、無駄だというようにずっと重くのしかかっていた。

 夢に見て、眠れなくなるほどに。雨が恐ろしくなるほどに。


 地面に転がる人だったものの肉塊を振り返って、顔を歪めた。

 自分でもそうなのに、明美にまで押しつけてしまった。全てが間違いだった。兄でいるなんて、そう思うことさえ烏滸がましかったのだ。ありもしない資格にしがみついてふたりを縛るべきではなかったのだ。

 肩を落として項垂れる。愚かで浅ましい己を叱責するかのような叩きつけられる雨が痛い。


「克巳にも、罪はないだろう。小さかったんだ。……ほんとうに、小さかったんだ……。ふたりとも…………」


 その罪は、兄である自分が背負って然るべきものだ。断じて、就学すらしていなかった弟が背負うべきものではない。

 ――助けて!

 雨音に紛れて悲鳴が聞こえる。僅かに視線を滑らせるが、どこにも生きている人の気配はない。


 ぶおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ……ん…………。

 唐突に、低く、重く空気を震わせる音が雨音を裂いた。緩慢に顔を上げた清巳の視界の先で、分厚い黒雲と雨で白く染まった世界を赤い一閃が裂いた。

 真っ二つに割れた雲の狭間から光が何条にも差し込んで地上を照らす。

 浅木地区より西方の山。浅木地下ダンジョンの入り口が存在するその場所へ鳥形の魔物が一直線に飛んでいく。

 先程よりも小さな一閃が空で煌めいた。飛んでいた魔物が二つに分かれ、勢いよく地面に叩き落とされる。何かに導かれるように山へと向かう数々の魔物を軍勢が、同じように墜落していく。

 どこかで上機嫌な奇声を上げる声が聞こえた気がした。

 魔物の雨が降る様をしばらく見つめていた清巳は無言で配信を切った。


 魔物を集める笛がある。魔の呼び子と呼ばれるそれは、魔物を強制的に呼び寄せる笛だ。魔物の強さに関わらず呼び寄せる性質があることから、混ざっていた変異個体に殺されたり、それを悪用した事件が過去にあるため、個人での所有にはかなり制限がかけられているが、格下相手の魔物を大量に狩るには便利な代物だ。

 一応、使用場所の制限もあるのだが、魔物に街が蹂躙されるよりはいいはずだ。街を囲む結界外の魔物までおびき寄せないことを祈るばかりである。


『帰ってきてね』


 今まですすり泣いていた明美が懇願を重ねた。


『絶対、帰ってきてね。いっぱいした約束、破ったら許さないから』


 ぷつん、と通話が切れた。

 それからもしばらく西の空を眺めていた清巳は深く息を吐き出して、両手で耳を塞いだ。


「……俺は、何のために剣を握り続けてたんだろうな」


 弟と妹がこの手からすり抜けてしまった。いや、彼らから手放されてしまった。その上で、兄としての至らなさを否が応でも自覚させられて、なにかが自分の中で脆く崩れた。

 なにかを考える気力も、家に帰る意欲もなく、両手を垂らして立ち尽くす。

 空に静けさが戻ったころ、こつん、と足になにかが当たった。視線を下げれば、地面の川にその身を沈めた金青の剣がある。

 それを拾いあげることもせず、清巳は雨水に晒される愛用の剣を見つめ続けた。






 鼓膜にこびりついた罪の音は今もまだ叫んでいる。






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